原蔵人佐の屋敷
原蔵人佐の屋敷([妻籠城 周辺城郭])
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原蔵人佐の屋敷の口コミ情報
2023年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
原蔵人佐の屋敷は妻籠城の西北西約4.5km、木曽川北岸(右岸)、塚野川(坪川)東岸(左岸)、長谷川西岸(右岸)、標高約400mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される屋敷です。該地は山際から張り出す狭小な舌状台地でもあり、「丸山」とも呼ばれる小さな高台である。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築かれた年代は不明、お住まいに成られていた方は原蔵人佐と推測されている。が、伝承すら無く地元の郷土史家が可能性から勝手にそう推測しているだけの話みたい。怒られるかもしれんけど、おいら木曽郡南木曽町においてはこの郷土史家の業績に振り回されっぱなし…
天文六年(西暦1537年)三月朔日、原蔵人佐宛木曽義勝宛行状には、「田立村之内野中之地下五貫文之分、扶持候者也、仍如件、」とあり、木曽義勝は田立村の内、野中の地、五貫文(木曽氏の内では決して少なくない。)を蔵人佐に宛行っている。義勝(黒川三郎)は木曽氏当主、義在の叔父に当たる人物、幼年で家督を継いだとされる義在の傅としてその後見を務めたとされる。書状の発給年は義在44歳の時だが、義在が壮年に至ってもなお家中に多大な影響力を持っていたて事なんだろうか。
原氏は木曽氏の一族、三尾氏の分流であり、鮎沢氏と同族とされる。天正十二年(西暦1584年)九月の「妻籠城の戦い」における籠城衆の中に、原市右衛門、原平左衛門の名が見られるが関係性は不明だ。
屋敷の現況は耕作地、墓地となっている。屋敷地の西側背後の丘陵上には同じ妻籠城のリア攻めマップにあるさんこ山物見が立地する。原氏の屋敷地と推測されてはいるが狭小に過ぎるとも思うので、むしろ物見台に勤仕する番士の屋敷地とした方がしっくりする。蔵人佐の屋敷地は丸山東側下段の別の場所(屋号「丸山」)に求めた方がよいのかもしれない。墓地は周辺一帯に現住する松川さん一族のものだが原氏との関係性は不明だ。
背後のさんこ山物見からは山陰に入ってしまい見えないが、該地からは谷筋の向こうに岐阜県中津川市山口の集落を眼下によく見通せる。むしろ屋敷地は物見場であり、さんこ山物見が狼煙台の役割を担っていたとも考えられるのだが深掘りしない。大人として日々成長中のかずりは地元郷土史家の顔を立てる事にする。
※写真①は要るのか知らんけど上段から見た近景、背景の山稜が標高797.1mの摺鉢山っす。