島田の屋敷
島田の屋敷([妻籠城 周辺城郭])
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島田の屋敷の口コミ情報
2023年10月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
島田の屋敷は妻籠城の西北西約3.7km、木曽川北岸(右岸)、長谷川東岸(右岸)、標高854mの山塊山頂から南西へ伸びる支尾根直下、標高約412mの緩斜面上平場に立地した屋敷です。屋敷地の北側は謂わゆる山際であり、丘陵台地が山地に消える場所でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南方の「五宮神社」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで該地を特定してね。但し、現地は細い道が入り組んでいて地図を確認しながらでも実に判り難い場所となっている。ちなみに五宮神社は毎年10月の第1日曜日に執り行われる「田立の花馬祭り」の祭場でもある。祭りは鞍にお花をド派手に飾った3頭の木曽馬が集落を練り歩き五宮神社の境内を目指す。木曽馬(サラブレッドと比べたら随分と小さいけど、甲冑に身を固めた武士を乗せて駆け回る事ぐらい楽勝っすわ。力強いっす。)、開田高原の「木曽馬の里」で触れ合ったけど凄く可愛い。好きー
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。名称にある「島田」は屋号であり、何故そう呼ばれるかについても不明(妻籠城の木曽川対岸に、かつて「島田」の地名が残っていたそうだが…)らしい。又、屋敷地は現在、宮川さんの所有する土地家屋となっている。この宮川氏は中世の末頃に伊勢の宮川から来住した一族なんだそう。単純にこの宮川氏来住以降の屋敷地とするか、それ以前の地侍の屋敷地だったとするかは昔の事なんで知らんがな…と宮川さんは仰ってた。
居館の現況は耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。家屋は近年無人となったようでそのお庭は荒れ放題、ひっつき虫の餌食になるので探索する気にもなれないや。縄張図を見ると生意気にも屋敷地は二段の削平地、後背に山地を控える集落の最上段は武士の住まう場所としては適地なんだろう。
該地の長野県木曽郡南木曽町田立は北方の王滝村と共に長野県最西端の村落であり、国道19号線を僅かに西行すれば岐阜県中津川市山口に至る。応仁の乱以前は遠山氏の領分と推測され、東濃の裏木曽(阿寺山地の西方、現在の岐阜県中津川市加子母地区、川上地区、付知地区である。)に連なる地域でもあった。往時の福島から田立へ抜けるまともな道筋は、木曽川西岸(右岸)の小路(恋路)峠、柿其峠を越える山塊山中の山道しかなかったろう。
アプリの登録城、妻籠城の城郭基本情報には天正十二年(西暦1584年)九月に繰り広げられた「妻籠城の戦い」の記述(原本は「木曽考」である。)があるが、あえて一部を抜粋してみる。
「…山村良勝は奮戦したが、渡島の者達が徳川方に付いたため、北方との連絡が取れなくなり孤立してしまった。兵糧や弾丸が不足して困った。そのうえ上山口の牧野弥右衛門も徳川方に付き、田立・渡島の者達に水の手を塞がれてしまったので水にも困る事態となった。…」
…つまりは田立の衆等が徳川勢に味方したために籠城方は完全に孤立し水の手にも窮した訳だ。妻籠城の西方、田立の地侍等は戦いの後に木曽氏からどんな処遇を受けたのだろうか。