馬籠城
馬籠城([妻籠城 周辺城郭])
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馬籠城の口コミ情報
2023年09月27日 RED副将軍
遠山十八支城のひとつ馬籠遠山氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代、築城主は不詳。室町時代には馬籠遠山氏の所領となり、馬籠城(馬籠砦)は存在していた様で遠山十八支城のひとつにも数えられます。
遠山氏は、源頼朝の重臣である加藤景廉が1185年に美濃国恵那郡の木曽川以南にあたる遠山荘を地頭として入部し、子の加藤景朝が遠山氏と称したのが始まりです。
その後、岩村城を居城とした岩村遠山氏が本家であり、庶流が遠山荘各地に分散し居城ごとに分かれて「遠山七家」(岩村・苗木・明知・飯羽間・串原・明照・安木・馬籠など)と呼ばれました。その内のひとつが馬籠城を居城としていた馬籠遠山氏です。
しかし、1574年には武田信玄の侵攻により馬籠遠山氏は滅亡。武田氏の所領となり、武田氏に従属していた木曽氏が入城していた様です。
1581年に木曽義昌は織田信長の調略を受け、武田勝頼を見限り離反。馬籠城は木曾氏の支城となります。
1582年に武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で没すると、木曽義昌は羽柴秀吉に従属。1584年の小牧・長久手の戦いの際には羽柴秀吉軍として妻籠城にて徳川家康の軍勢を撃退しています。
馬籠城には重臣の島崎重通が守将として入城しましたが、徳川家康軍の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠の陣を張り、恐れをなした島崎重通は妻籠城に逃亡したとされます。
1600年の関ヶ原の戦い後は、徳川家の直轄領となり、1615年に東濃、木曽が尾張藩領に編入された際に廃城となった様です。
見所
馬籠宿の南西400mに位置する旧中山道沿いの荒町集落にある丸山と呼ばれる丘陵に石碑と説明板が立っています。
明確な城郭遺構は見当たらず、主郭は豊川神社が祀られ、周囲は宅地や耕作地になっています。
中山道の宿場町として有名な馬籠宿に訪れた際にこちらも立ち寄ってみて下さい。
日本の原風景が残る良い場所でした。