三留野家範居館
三留野家範居館([妻籠城 周辺城郭])
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三留野家範居館の口コミ情報
2023年10月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
三留野家範居館は妻籠城の北東約3.0km、木曽川東岸(左岸)、標高約454mの河岸台地緩斜面上平場に立地したと推測される居館です。現在該地は曹洞宗の寺院、等覚寺の境内となっている。山号は日星山、創建は天正年間(西暦1573年〜1592年)にまで遡るとされる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは三留野家範とされる。但し、家範の居館地ははっきりしておらず、同じ妻籠城のリア攻めマップにあるヤダカもその候補地の一つだ。該地もあくまで居館地として推測される場所に過ぎないが、城郭跡を利用して寺社が建てられる例は他にも数多く見られるのは言わずもがな。
館の主、三留野左京亮家範は木曽氏当主、左京太夫家賢の二男で、「木曽考」によれば、当主兵部少輔家豊の代に舎弟の左京亮家範が三留野に、その舎弟の右馬助家益を野路里(野尻)に封じたとされる。三留野には鎌倉時代以降、小木曾荘地頭職、真壁氏があった事は確実だが、同氏が木曽氏に逐われた時期がはっきりしない。永正元年(西暦1504年)、飛騨三木氏の王瀧口来攻の際に三澤で討死した木曽勢の中に間壁美濃の名が見られるが小木曾真壁氏の後裔だろうか。
「応仁の乱」に際して美濃国以東の勢力は京への出兵を控えているが、相対する勢力の分国へ乱入する事によって積極的に関与する。文明五年(西暦1473年)、美濃守護代、齋藤妙椿が兵を率いて上京する風聞が立った事から、将軍義政を奉じる東軍はこれを牽制するため、文明五年二月廿一日、小笠原左衛門佐(家長、伊那郡松尾小笠原氏当主である。)宛足利義政御内書を発給、東濃への出兵を指図している。即ち、「土岐美濃守成頼對治事、相談小笠原左京太夫政秀、令進発濃州、可抽戦功候也、」とあり、続く、文明五年三月九日、小笠原六郎(定基、家長の子である。)宛足利義政御内書では、「濃州凶徒等對治事、被仰付木曽候、致合力、抽戦功者、可在恩賞候也、」とある。前書では小笠原左京太夫政秀(伊那郡鈴岡小笠原氏当主である。)と相談して美濃国へ出兵、戦功に励むよう促し、後書では木曽にも仰せ付けてあるので、合力して戦功に励めば恩賞もあると言っている(三月廿日には後書と同様の内容で細川右馬頭政国が小笠原六郎宛に重ねて書状を発給している。)。これを受けた左衛門佐家長、六郎定基は小笠原左京太夫政秀、木曽兵部少輔家豊と共に東濃へ乱入、恵那郡の阿寺、大井、土岐郡の荻島の各城を落としている。矢面に立たされたのは恵那郡に割拠する遠山氏であった事は明白で、これ以降、同氏が木曽谷南部、裏木曽から逐われた事は確実視される。右京亮家範が三留野を知行したのはこれ等時期の前後の事であろうか。以降、東濃に影響力を保ち続けた木曽氏だが、中津川市史では中津川もその範囲だったと推測(勝山小笠原文書には尙木曽宮俊宛の文書が残り、苗木跡職について言及しているらしいが解明困難らしい。)している。
兄弟仲良く同時期にそれぞれ三留野と野路里を知行した訳だが、三留野左京亮家範の勢い強く宗家に叛意あるを疑い、野路里右馬助家益は度々これと私闘を繰り広げている。木曽氏当主、兵部少輔家豊はこれを憂えて池口、古根、寺町等をして妥協せしめんとするが双方聞き入れず、遂には池口をしてこれ等を討たしめんとしたが沙汰止みとなった。左京亮家範が病のため没した事がその理由だ。
あ、忘れてた。居館の現況は前述のとおり立派な寺院です。そもそも論で比定地なんで…東方後背の山稜が台地に変わる場所だが、この山稜には要害とされる三留野東山城が立地する。法事が始まりそうだったので急いで退散、写真撮影の時に除けてくれてありがとう。
※写真④が三留野東山城の近景、正に裏山だ。