上の原の屋敷

上の原の屋敷([妻籠城  周辺城郭])

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上の原の屋敷の口コミ情報

2023年10月16日 内記かずりヾ(・ε・。)


上の原の屋敷は妻籠城の北東約3.5km、木曽川東岸(左岸)標高約526mの台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは松原氏です。「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」には、「三留野氏が滅亡後の頃に王滝村より移住して来た…」とあるがその経緯は不明であるとも言っている。仕方ないので史料を漁ると同氏に関連する以下の2通の書状を見付けた。

天正十三年(西暦1585年)七月廿七日、松原彦右衛門宛木曽義昌宛行状案には、「依詫言、賢老分壱貫五拾文所宛行候、弥可奉公者也、仍如件、」とある。もう1通については長くなるので割愛するが、慶長元年(西暦1596年)三月五日、王瀧の松原某が石河備前守光吉(貞清、兵蔵、初め秀吉の使番、後には木曽の太閤蔵入地の代官を務め、「関ヶ原の戦い」においては居城の犬山城に籠城した。美濃金山城の天守櫓と家臣長屋の古材を譲り受けて犬山城を改修したのは光吉である。優秀なテクノクラートでもあったようで、家康は後の木曽代官、山村良勝にその名を挙げて施政の踏襲を求めている。ちなみに無名だが、実父光重は創業からの秀吉譜代衆の一人であった。)の下代官、神邊休安から王瀧村前年分の下用米を請け取っている。これ等書状に登場する「松原」が上の原の屋敷の松原氏と関係があるのかは知らんけど、木曽義昌から奉公に対する土地を宛行われた他、太閤蔵入地の下代官と書状のやり取りが出来る王滝の有力な地侍衆の一氏ではあったようだ。

屋敷地は律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」に沿っているらしい。ちなみに木曽古道の推定経路は不思議な事に南部(野上〜湯船沢間)において長さ約46kmの木曽山脈西縁断層帯主部(上松断層、馬籠峠断層)のラインとほぼ一致する。

屋敷の現況は…周辺台地上は土地の構造改革等で耕作地として改変されており遺構は特に見られない。該地には今も松原さんがお住まいで屋号は「上野」、この土地の地主層だった事は間違い無いんだろう。信濃のお城の神は、「往古の景観は想像出来ないが、土豪の屋敷地としては不安が残る。」と言っている。周辺は民家が少ないが、想像すれば中山道の宿駅、三留野宿の宿寄せには従わなかったとも言えるし、従わなくても済む程の有力者だったとも考えられる訳だ。

…屋敷の主、松原さんにどうしてもお話しを聞きたい事があって30分位待っていたんだけどお帰りにならない。やる気の無い時や急いでいる時は近在の方から声を掛けまくられる(大概は「娘のために写真を撮らさせて下さい。」とか、「親戚に自慢するのでサインして下さい。」とかのお願い。Jr.アイドルだから当然変装してるんだけどオーラで判っちゃうらしいの。)おいらだけど、やる気のある時に限って待ちぼうけ…木曽谷は日が暮れる前に肌寒さを感じる…そんな季節にもなって来た。さぁ、今日のところはもう帰ろうよ。

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