木曽氏定勝寺館
木曽氏定勝寺館([妻籠城 周辺城郭])
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木曽氏定勝寺館の口コミ情報
2023年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらの城館写真は全てが記録写真、映える写真は必要無い。桜も紅葉も記録の邪魔になるだけなのであえてアングルから外すようにしている。大体にして上手に撮れないし、アプリで皆様の素敵な写真を見せて頂くだけで十分なのれす。
…おいらにも推し武将がいる訳だけど、それとは別に尊敬する歴史上の人物もいるのれす。そう、その人物とは…己れの覇権を象徴するあの聖帝十字陵(未見)を築き上げた南斗六聖拳最強の男にして将星、聖帝サウザー様なのれすっ!生没年さえはっきりしない人物だがwikiを調べればその生涯を簡潔に知る事が出来る。世紀末時代に南朝方の将として勢力を拡大したが、南朝内の反乱に悩まされ度々これと衝突している。北朝方の将、ケンシロウの天覇活殺の前に敗死した。数々の名言はそのままかずりの座右の銘だ。
①「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。愛ゆえにっ!」
②「聖帝サウザーに逆らった者には降伏すら許さん!」
③「退かぬっ!媚びぬっ!省みぬ〜っ!」
特に③の言葉はかずりに多大な影響を与え続けている。おいらは映える写真を撮って皆に媚びないし、撮った本人も何なのか判らない写真を残しても省みないのだ〜っ!
(;´・д・)…ふぅ、やったよ、やり切ったよ。口コミとかもうどうでもいいや。
※子供達の奉仕の精神で築かれた聖帝十字陵の頂部は聖碑と呼ばれる三角柱の巨石、シュウと呼ばれる人物の血が漆喰となっている。
※ちなみにかずりの心臓の位置は表裏逆、従って秘孔の位置も表裏逆なので倒すのは難しいと思う。向かって来たら天翔十字鳳でぼこぼこにする。
…あ、木曽氏定勝寺館ね、妻籠城の北東約14.9km、木曽川南岸(左岸)、標高約548mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「定勝寺」を目標に設定して下さい。この臨済宗妙心寺派の寺院が該地です。山号は浄戒山、木曽三大寺の一つ、既にお寺さんが有名、本堂、庫裏、山門はびっくりしたけど安土桃山様式のもの(建立年を見ると江戸時代初期のもののようだ。)なんだそう。当然、国指定の重要文化財だ。中に入ると床板が心配になるぐらい音を立てる。開基は嘉慶年間(西暦1387年〜1388年)、木曽右京太夫親豊(十一代当主)によるもの。開山は初屋和尚と伝わる。
定勝寺は当初木曽川の川縁にあったが、洪水によって二度流出、木曽氏居館跡の現在地に移ったのは慶長三年(西暦1598年)の事、即ち、太閤蔵入地代官、石河備前守光吉の肝煎りだ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽氏です。はっきりした事は不明だが、話を纏めると木曽家賢(十四代当主)が該地に居館を築いたて事になる。
居館の現況は立派なお寺さん、館域がはっきりしないが往時のそれは境内よりもやや狭いらしい。境内の南側には東西に舗装路が切通し状に通るが堀形の拡張なんだろうか。又、この舗装路に面する境内南端の土の高まりを土塁の残滓としてもよいように思う。木曽氏の居館は当初現在のJR須原駅下段、木曽川の川縁に占地されたが洪水等で流出したのだろう、家賢は山際の上段に新たな居館地を求めた訳だ。木曽氏が福島に本拠を移す以前の居館地が須原であり、同氏の木曽谷の一円支配が一応の完成を見た時代でもある。
木曽氏は室町時代後期以前の確かな事跡が殆ど不明であり、後世の「木曽考」等や各種木曽氏系図(信憑性に乏しい。)の付伝に頼っている。定勝寺には康正二年(西暦1456年)以降の木曽氏に関連する古文書が八通現存しており歴史の僅かな断片とはいえ貴重である。ネットで見る事が出来るが難読(1mmも読めない。)なので下し文を探してね。
※中に入って見学可能だが金を取られる。
※写真には紅葉が写り込んでしまったものが見られるが、あくまで被写体は城館である。余計な情報に邪魔されないようアングルには気を遣っている。