小川野氏屋敷

小川野氏屋敷([妻籠城  周辺城郭])

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小川野氏屋敷の口コミ情報

2023年10月21日 内記かずりヾ(・ε・。)


小川野氏屋敷は妻籠城の北東約6.7km、下出沢北岸(右岸)、与川南岸(左岸)、小川野平の台地上、標高約628mの緩斜面上平場に立地した屋敷です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小川野氏です。「木曽考」によれば、木曽氏当主、兵部少輔家豊の代に舎弟の左京亮家範を三留野に、その舎弟の右馬助家益を野路里(野尻)に封じたとされる。小川野氏の祖、次郎左衛門は右馬助家益の分流とされ、時代的には子、もしくは孫の代に当たると思われるが根拠を欠きはっきりしない。

小川野次郎左衛門は与川を知行し、三留野家範の系累である与川俊範を招き入れて古典庵の住僧とした(古典庵とその僧については同じ妻籠城のリア攻めマップにある与川古典庵館を参照して下さい。)。その知行地は現在の小川野平、坂本平の一帯と推測され、近世の与川道は該地の北側を通って野尻へ抜ける。

木曽代官、山村氏は「関ヶ原の戦い」の後に、池口平と小川野平の約半分を小川野氏から取り上げ、これ等を功のあった島崎与右衛門に与えて与川村の庄屋とした。裏を返せば小川野氏は「関ヶ原の戦い」において山村氏に合力しなかったとも言える。

屋敷の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。例によってその敷地範囲すら不明だが、武士の住まう屋敷地としては小川野平の最上段に当たり適地である。北側の丘陵頂部には同じ妻籠城のリア攻めマップにある与川中山砦が立地する。又、該地には小川野氏の末裔、平尾さんが今もお住まいだ。

…庭先に平尾さんがお見えだったので突撃お宅訪問、来訪した理由を告げると、「何でそんな事知ってるんだ。見てもらいたい物があるから家に入ってけ。」とのお言葉を頂く。

見せて頂いたのは、「正應四辛卯年(西暦1291年) 正源院殿昴翁鐵心大居士 三月十三日」の銘が刻まれた御位牌、聞けば木曽氏中興の祖とされる木曽家仲の物で、自宅の裏手にかつて建てられていた旧古典庵の位牌堂を取り壊す際に仏壇に安置したんだそう。他にも経文、兜鉢、槍の穂先が伝わっているそうだが、後日に再会を約して今回は遠慮させて頂いた。位牌は裏面に、「小川殿先祖源家仲」とあるが、こちら側の銘は後に刻まれたものであろう。小川野氏の発祥は早くても室町時代後期と推測されるし、本来藤原姓の木曽氏が木曽義仲の後裔を意識して源姓を名乗るのは、文正元年(西暦1466年)、興禅寺に寄進した梵鐘銘中の「源朝臣家豊」が最初とされるからだ。

宿題も頂いた…平尾さんの御子息は与川を離れて久しいそうだが、子孫に伝えるために我が家の来歴を纏めて欲しいと依頼された。その気持ちは痛い程よく解る。誰でも自分の代で不明としたくはないものだ。史料、伝承が殆ど伝わらない小川野氏…疑問は疑問とするも、せめて話の辻褄が合う読めるものにだけは何とかしたい。図書館で紹介してもらった地元の郷土史家の方と連絡を取りながら現在鋭意作成中…この先生が平尾さんの菩提寺の過去帳を探し出してくれる事を切に願う…

見返りなんて何も無い。人生意気に感ず…ただそれだけの理由で引き受けた。この初対面の異邦人を信頼して大事を託したんだ。それだけで行こうじゃないか。山城好きが高じて信濃の地方史にどっぷり浸かる常時沼状態のおいらだけど、最近は何やってんだろうね。

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