太田氏の屋敷
太田氏の屋敷([妻籠城 周辺城郭])
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太田氏の屋敷の口コミ情報
2023年10月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
太田氏の屋敷は妻籠城の西北西約4.0km、木曽川北岸(右岸)、長谷川東岸(左岸)、標高約413mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される屋敷です。該地は長谷川の蛇行点へ向けて張り出す緩やかに下る狭小な舌状台地でもあり、同じ妻籠城のリア攻めマップにある観音山砦とは長谷川を挟んで相対する。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築かれた年代は不明、お住まいに成られていた方は太田氏と推測されている。周辺一帯は「太田垣外」と呼ばれ、該地の東側約50mに位置する「太田垣外遺跡」からは縄文土器、室町時代の住居跡、陶器片等が出土したんだそう。太田氏は太田代官と伝わるが、その時代も誰の代官だったのかも不明、別に観音山砦の南側に建つ曹洞宗の寺院、禅東院を寛永二年(西暦1625年)に開山させた小幡弥兵衛に力添えした太田六郎左衛門の名が伝わる。土豪と呼ぶのも憚れる田立の地侍の一氏なんだろう。
屋敷の現況は耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。信濃のお城の神は「館跡と思われる所」として該地を説明している。あくまで「太田垣外」とその周辺(太田の垣の外なのだ。)から選び出した比定地なので屋敷地はこの辺りだったとしか言い様が無いんだろう。長谷川の谷筋を自然の堀としそれなりの要害性は伴っているが…
田立は縄文時代から人の定住のあった地域だった訳だけど、近世以前の歴史については殆ど不明だ。天正五年(西暦1577年)五月廿四日、山村三郎左衛門尉(良利)宛、土屋右衛門尉(昌忠)奉之、武田勝頼朱印状案には、「定 信濃境目田立口出合事、一月六ヶ度定日限可令会合、背法度濫不致出入様、厳重可被申付之由、所被仰出也、仍如件、」とあり、勝頼は信濃口である田立の市を月に六度と定め、法度に背き濫りに出入りを致さぬよう厳重に申付けている。書状からは当時の田立が信濃国の内だとの認識が窺える他、陪臣の立場にある山村良利が武田氏との書状の取次を行える人物であった事が判る。同氏が武田氏から重用されていた事の証左でもあるんだろう。又、書状で述べられている「会合」とは木曽谷で産出される材木の商いの事ではないだろうか。莫大な利益を生み出す木曽ブランドの材木(木曽谷の山々は近世初頭には既に禿山と化していた。)、ひょっとしたらこの時期、木曽における材木の商売が武田氏の専売事業と位置付けられており、山村氏が武田氏にとっての木曽代官の役割を担っていた(形式上、書状は直接山村氏に発給されている。)との推測も成り立つが別に史料が見付からない。
木曽は広大な面積を持つが耕作面積は少なく殆どは山林である。その一方で太閤蔵入地時代には周辺地域も含んで十万石の蔵入地と呼ばれた。太閤検地が行われたのかも定かでない地域だが、江戸時代の正保年間(西暦1644年〜1648年)から作成が命じられた「正保郷帳」によれば、木曽は郷数三十、総石高は僅かに約千六百八十三石でしかない。何故であろうか。
※写真⑤は要るのか知らんけど遠景っす。
※写真⑥は長谷川の流れ、山地から流れ出る水が綺麗だった。