小牧山城(こまきやまじょう)

小牧山城の基本情報

通称・別名

小牧城

所在地

愛知県小牧市堀の内1-1

旧国名

尾張国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

織田信長

築城年

永禄6年(1563)

主な改修者

主な城主

織田氏、徳川氏

廃城年

永禄10年(1567)

遺構

曲輪、石垣、土塁、井戸

指定文化財

国史跡(小牧山)

再建造物

城郭風建造物(小牧市歴史館 小牧城)、石碑、説明板

周辺の城

岩倉城(愛知県岩倉市)[3.8km]
小折城(愛知県江南市)[4.0km]
上末城(愛知県小牧市)[4.3km]
溝口城(愛知県西春日井郡)[4.9km]
楽田城(愛知県犬山市)[5.2km]
小口城(愛知県丹羽郡)[5.4km]
宮後城(愛知県江南市)[6.2km]
下奈良城(愛知県一宮市)[6.8km]
大草城(愛知県小牧市)[7.0km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[7.0km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)149 小牧山城

設置場所

小牧市歴史館[地図
れきしるこまき[地図

小牧山城の解説文



小牧山(こまきやま)は、愛知県小牧市にある標高86mの山。

かつて織田信長の居城であった、小牧山城(日本の城)があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。

なお現在、山頂にある天守閣風建物は、1967年(昭和42年)に建てられたものである(小牧市歴史館(小牧城)を参照)。

概要 

平野の真中にある為、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができる。

山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートルである。

山全体の総面積は、約21ヘクタール。

かつてこの山の頂上には、織田信長の命令により、山城が建てられていた。この城は、後に徳川家康が小牧・長久手の戦いで使用した事で有名である(この城については、下記の「小牧山城」参照)。

公園内には、かつての城跡や、曲輪(くるわ)や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されている。

桜の名所としても、有名である。

北部に、タブノキがある。タブノキは、この地方では小牧山のみに自生している。

全国にある城下町の嚆矢といわれる。

小牧山城 

小牧山城(こまきやまじょう)は、日本の城。織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城となった。

濃尾平野の独立峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかった。このため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見された。これにより小牧山城は戦時急造の城ではなく、清洲城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる。

南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている。途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の安土城の縄張りとの類似性が指摘されている。

構造

標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固め、中腹も削平して数多くの曲輪を構築している。

平成17年度(2005年)に行われた第2次試掘調査で現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された。永禄期の大手道は、山側谷側にもそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。道幅は約5mで、道に並行して幅 20cmの排水溝を設置していた。この構造は安土城の正面にある大手道と構造的に似通っており、安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されている。

小牧・長久手の戦いの際には、陣城として大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、要所には防衛用の虎口を設けた。

歴史 

小牧山城築城以前

小牧山築城以前は尾張村を開拓した尾張氏の地であった。元々天照国照の神聖な場であった事が確認されている。現代の発掘結果等から、寺院などの宗教関係の施設も存在していたと考えられている。また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある。また、間々観音は正式には「飛車山龍音寺」であるが、この「飛車(ひくま)山」は小牧山の古い呼び名のひとつであるとされる。

信長による築城と廃城

織田信長は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。

信長家中の小牧山移転の際のエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現在の愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。当然、清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転に変更することを申し渡した。すると今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したという[1]。この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため真偽は不明であるが、文明年間以来、約80年間にわたって守護所として栄え、家臣らが各々の屋敷を持つ清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことが推測される。

平成22年(2010年)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣、佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」と墨書された石垣の石材が出土した。奉行の丹羽長秀一人が築城の全てを取り仕切ったわけではなく、家臣団にそれぞれ資材調達や作事の分担があったことがわかる。また、信長が家臣を競わせ築城を進めさせたと推測する説がある。

従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、従来は「美濃攻略のための(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」と考えられていたが、平成16年(2004年)からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。

その後

家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止された[2]。奮地を敬いこの山の下に舘舎を営み、小牧御殿と名づけられた。[3]小牧山碑も建てられたが、今は残っていない。現在残っている曲輪、井戸跡が御殿敷地内にあったと思われる。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。元和9年(1623年)には、尾張徳川家が上街道を整備する為、山の南側にあった町を東に移転させた。中山道木曾路の宿驛(うまや)として賑わいを見せた。小牧村の中の小牧驛(うまや)で、現在の小牧駅から真西に数100mの場所である。

明治維新後も尾張徳川家の所有地であったが、昭和2年(1927年)に、時の当主徳川義親によって国に寄付された。同年、国の史跡に指定される。現在でも山中の各所に石垣、土塁、空堀、井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、往時を偲ぶことができる。

なお現在、小牧山山頂にある「小牧城(小牧市歴史資料館)」は、昭和42年(1967年)に建設されたものである。また昭和22年(1947年)から平成9年(1997年)までは、山の東側の現在の史跡公園の位置に小牧中学校(建設の際に調査前の土塁や曲輪、虎口の一部が壊された)があったが、現在は別の場所に移転している。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(149番)に選定された。

平成30年(2018年)6月6日、小牧市が大手道周辺の木を伐採したのち文化庁の許可を得ずに桜などを植樹するため掘削し、遺構を破壊していたことが発覚。[4]

平成31年(2019年)4月25日、小牧市により「れきしるこまき 小牧山城史跡情報館」が開館した[5]

年表

  • 1563年(永禄6年) - 織田信長が、美濃国(岐阜県南部)を領する斎藤氏攻略のために、小牧山に城を建築。
  • 1563年7月 - 織田信長が、本拠地を小牧山城に移転。
  • 1567年(永禄10年) - 織田信長が、稲葉山城を攻略。「岐阜城」と名前を改め、小牧山から居城を移す。
  • 1584年(天正12年) - 小牧・長久手の戦いの時に、徳川家康が小牧山城跡地に大規模な改修を行ない、自陣とする。
  • 江戸時代 - 尾張徳川家の領地として保護を受ける。一般人の入山は禁止に。
  • 1623年(元和9年) - 小牧山の南側にあった町と寺院が、東に移転される。
  • 1872年(明治5年) - 一時民間に売却されるが買い戻され、「愛知県立小牧公園」となる。一般公開。
  • 1889年(明治22年) - 土地を交換する形で、再び徳川家所有となる。一般公開禁止に。
  • 1927年(昭和2年) - 徳川義親が、小牧山を国に寄付する。太平洋戦争期には軍の施設が置かれ、再び一般人の入山は禁止となった。
  • 1927年(昭和2年)10月26日 - 国の史跡に指定される。
  • 1930年(昭和5年) - 徳川家が小牧町(現在の小牧市)に、小牧山を寄贈。
  • 1967年(昭和42年) - 平松茂が小牧城(現在建っている城)を建設。完成後、小牧市に寄贈。
  • 1968年(昭和43年)4月1日 - 小牧市歴史館(小牧城)が開館。
  • 1987年(昭和62年)10月 - 小牧山公開60周年記念事業開催。
  • 1998年(平成10年) - 山の東側にあった小牧市立小牧中学校が移転。
  • 2006年(平成18年)11月 - 小牧市歴史館(小牧城)の改装工事着工。
  • 2007年(平成19年)3月31日 - 小牧市歴史館(小牧城)リニューアルオープン。
  • 2009年(平成21年)9月5日・9月6日 - 織田信長サミット開催。
  • 2013年(平成25年)1月1日~12月31日 - 「織田信長築城450年記念事業」として、1年をかけて織田信長に関する様々なイベントが開催された[6]
  • 2017年(平成29年)4月6日 - 続日本100名城(149番)に選定された。
  • 2018年(平成30年)2月〜3月 - 小牧山を管理する小牧市みどり公園課が大手道周辺の桜の老木など約250本を倒木の恐れを理由に伐採。その後新たに桜やモミジなどの苗木70本を植えた。。
  • 2018年(平成30年)6月6日 - 大手道周辺の植樹が文化庁の許可を得ていなかった事が発覚。。
  • 2019年(平成31年)4月25日 - 「れきしるこまき 小牧山城史跡情報館」が開館。

施設 

小牧市歴史館(小牧城)

概要

現在ある小牧城の建物は、1962年(昭和42年)に名古屋市に住んでいた実業家の平松茂が、自身の財産を投じて建設し、小牧市に寄贈したものである。西本願寺の「飛雲閣」(伝聚楽第の遺構)をモデルとしており、1968年(昭和43年)に開館した。中世から現代にかけての小牧市の歴史的資料が各階に展示されているほか、最上階は展望施設となっている。入場料は一般200円(団体30名以上100円)、ふもとにある小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)と共用。18歳以下無料。なお1階部分は無料。開館時間は午前9時から午後4時30分。休館日は毎月第三木曜日(祝日の場合は、翌日)と年末年始。施設の管理運営者は一般財団法人こまき市民文化財団。

施設の老朽化とアスベストの使用の問題から、2006年(平成18年)11月に改装工事が始められた。そして展示物の追加や変更なども行なわれ、2007年(平成19年)3月にリニューアルオープンした。また夜間にはライトアップが行なわれている。

県営名古屋空港およびその航路に近いため(約4km)、航空障害灯が設置されている[7]

館内案内

1階
  • 小牧山コーナー - 小牧山城や小牧山周辺から出土した様々な歴史的資料やそれを説明するパネルが、展示されている。
  • 商家コーナー - 江戸時代末期から明治時代初期にかけて小牧市内に実在した商家(商人が使っていた家)の一部が、再現されている。
  • 小牧の祭・小牧の民俗・近代~現代の小牧・平松茂氏コーナー

2階
  • 小牧・長久手合戦コーナー - 小牧・長久手の戦いの様子を表した模型やビデオ映像などが、展示されている。
  • 原始・古代~近代コーナー - 小牧市内で発掘された古代の遺物から近代の小牧市にまつわる歴史的資料など、様々な歴史的資料が展示されている。

3階
  • 情報コーナー - 小牧市内の文化財やお祭りなどを紹介した映像を、見ることができる。

4階
  • 展望室 - 濃尾平野を見渡せる展望室。有料の双眼鏡が設置されている。

利用者数

1年間で約3万人の利用者があった(2006年(平成18年)度)[8]

その他の施設・史跡等

催事 

  • 小牧山マラソン大会
  • 小牧山さくらまつり - 毎年3月~4月の桜の開花時期に行われる祭り。毎年桜の馬場で野点や写生大会が行われる他、様々な催しが行われる。
  • 小牧山お月見まつり
  • 小牧山初日の出を拝む集い
  • 小牧市民まつり

無許可植樹による遺構破壊 

2018年(平成30年)2月〜3月にかけて小牧山を管理する小牧市みどり公園課が、大手道周辺のソメイヨシノの老木など約250本を「倒木の恐れがある」として伐採。ヤマザクラやイロハモミジなどの苗木70本を植えていた事が同年6月6日に発覚した。文化財保護法に基づき本来であれば史跡の現状変更には文化庁の認可が必要だが、同課は伐採に関しては小牧市教育委員会には申請していたが、植樹やそれに伴う掘削に関しては「4年前に樹木を更新していく方針を示していたので問題ないと考えた」「約30cm掘削したが、軽微なものとして対応した[9]」として何の申請もしていなかった。また同市教委もこれは「日常の樹木管理の一環だ」と主張した。

これに対し文化庁は「植樹は作業の詳細や図面などを示して許可を申請するのが一般的」と指摘。また愛知県教育委員会は「遺構への影響がないと独断で判断すべきでなかった」と非難した[10]。さらに奈良大学の千田嘉博教授は「明らかな国史跡の毀損行為で管理者である小牧市が自ら史跡を毀損した責任はきわめて大きい[11]」「史跡では厳密な調査を行い、文化庁の指導のもと専門家による委員会が審議伐採する木を決定し、植栽計画を立てるのが原則[12]」「小牧市みどり公園課の行為は不適切で、絶対にくり返してはいけない。市教委も遺構を破壊した植樹を「日常の樹木管理の一環」とするなら、とんでもない[13]」「植樹によって毀損した小牧山城の遺構は、永久に失われた。猛省して史跡を大切にする整備・活用をしてほしい[14]」と強い調子で非難した。

これに対し同年6月19日に山下史守朗小牧市長は市議会の一般質問で「許可を得る現状変更とは認識していない」と非難を一蹴。しかし「文化庁の判断を待ちたい」などと主張した[15]

所在地 

  • 愛知県小牧市堀の内1-1、山頂に二等三角点が設置されている。 

交通手段 

  • こまき巡回バス(こまくる)・ピーチバス・とよやまタウンバス・名鉄バスの「小牧市役所前(こまくるは小牧山前)」停留所を下車。

周辺 

関連書籍 

以下、右にある[表示]をクリックすると一覧表示される。

小牧山城の口コミ情報

2024年03月09日 濱大膳亮
小牧山城



山頂の小牧山城周りは整備中ですが、城内には入れます。3歳の子供と一緒に登り山城からの眺めは最高に良い所です。

2023年12月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
虎口a[小牧山城  碑・説明板]



守りの要衝 虎口a
大手道から頂上の主郭(曲輪001)に到る。主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。
平成18年度の第3次試掘調査では、主郭地区と西側曲輪地区を隔てる堀I(説明板の南側の堀)その東側に位置する土塁A、西側の土塁E、及び北側の土橋(この付近)の状況を把握すべく、ここ虎口aの調査を実施しました。堀Iは、土橋によりここが北端部となっており、幅は約6.5㍍を測ります。堀底は平坦で、堀底からの高さは、土橋までは2.5㍍〜3㍍、土塁Aまでは約6.5㍍、土塁Eまでは約2.3㍍あり、堀の法面は40〜50度に作られ、ここが土塁と堀で堅固に防御された守りの要衝であることがわかりました。この虎口は、織田信長築城時(永禄期)に築かれましたが、小牧・長久手合戦(天正期)には、土橋が封鎖されました。江戸時代に作られた小牧山模型を見ると、高い土塁が曲輪の北側まで続くように表現されています。現在、曲輪003(土橋を上がった所の平坦地)の縁にある土塁Aは、わずかな高まりを残す程度ですが、これは明治時代に小牧山が一時期県立公園となり、曲輪003に「創垂館」を建設するために土塁Aを削平し、現在の園路も通されたと考えられます。削平された土が曲輪内に敷均され、土橋、堀I、土塁Eにも押し出されたようで堀Iでは、2.6㍍の厚さで土砂の堆積がみられたどころがありました。
小牧市教育委員会

説明板より。

2023年12月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大手口[小牧山城  遺構・復元物]



城下町から小牧山城へ向かう大手道
織田信長が小牧山城にいた時、山の南側には城下町がありました。正面にある小牧市役所を建てる前に、城下町の跡(小牧池田遺跡)の発掘調査をしたところ、城の表口(大手口)であったここへ向かう道(大手道)の跡が見つかりました(写真1)。市役所から続く細長い線は、その道の場所が分かるようにしたもので、市役所の1階の床へと続いています(写真2)。道は、2.7m〜3.6mの幅がありました。

説明板より。
階段を登った所に、複数の説明板があります。

2023年12月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小牧池田遺跡[小牧山城  寺社・史跡]



小牧池田遺跡は、戦国時代から江戸時代にかけての城下町の遺跡。

永禄六年(1563)七月、織田信長が居城を清洲城から小牧山に移した時、山の南側に整備された。
永禄十年(1567)、織田信長が岐阜城に居城を移すと小牧山城は廃城となり、町は縮小された。
元和九年(1624)、尾張藩によって残っていた町が、東側に移転されて小牧宿が誕生した。

小牧市役所及び駐車場となり、特には何も無い。

2023年12月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
土塁と空堀[小牧山城  遺構・復元物]



ここから見える土塁と堀
天正十二年(1584)におきた、小牧・長久手の合戦という戦いで、織田信雄と徳川家康は小牧山城に来て、小牧山城の北東側にいた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と戦いました。この時、小牧山城の麓に二重の土塁(土を積み上げて造ったかべ)と、その間に堀(地面を掘って造った大きな溝)を造って山を囲んだり、山の東側の入口には深さ5.5mもある深い堀を造ったり、山の中にも新しく土塁を造るなどして、敵が入ってこられないようにしました。
この下に見える堀が、二重に造られた土塁の間の堀で、堀の南側にある土塁が外側の土塁で、ここにあった市役所を建てる時に、壊れてしまったものを、造り直したものです。ここから堀の底までは約6mの深さが、土塁の南側の裾から土塁の頂上までは約8mの高さがあります。内側の土塁は東側から延びてきて上の曲輪(平らな場所)のところに繋がっていました。

桜の馬場の一段下の曲輪に設置された説明板より。

2023年12月02日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大手道[小牧山城  遺構・復元物]



ここは、小牧山城の表口(大手口)です。現在は東側から階段を上って城の中に入って行きますが、本来はこの階段はなく、南側から城の中に入っていました。ここから入って城の中心である山の頂上まで行く道が大手道で、江戸時代に描かれた『春日井郡小牧村古城絵図』には赤線で書かれており、現在もほぼ同じところを通っています。
大手道は、ここから150mぐらい真っ直ぐに上り、そこで右に曲がって70mぐらい真っ直ぐ進むと途中からヘビのようにクネクネと曲がった道になり、山の頂上へ続きます。ふつうは、城の道は敵が入りにくいように折れ曲がった道にしますが、真っ直ぐな大手道は小牧山城の特徴で、大手道の両側に曲輪(平らな場所)が階段のように段々と並んでいることと共に、天正四年(1576)に織田信長が造った安土城(現在の滋賀県近江八幡市)と同じです。
織田信長が小牧山城を造った時から、江戸時代までの大手口近くの大手道の変化は、次のとおりです。
【永禄六~十年(1563〜67)織田信長が小牧山城にいた時】
大手口から山の途中まで、真っ直ぐな大手道と道の両側に曲輪が造られる。
【天正十二年(1584)小牧・長久手の合戦の時】
織田信雄と徳川家康が小牧山城に来て、山のまわりに新しく二重の土塁(土を積み上げて造ったかべ)と堀(地面を掘って造った大きな溝)を造る。大手口周辺では、土塁を互い違いにして大手道を曲げる(図1)。
【江戸時代初め『春日井郡小牧村古城絵図』が描かれた頃】
大手口の土塁を壊して、曲がっていた大手道を真っ直ぐに戻す(図2)。

説明板より。

この説明板の西側の土塁は、往時のものだろうか?

2023年12月01日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
桜の馬場[小牧山城  遺構・復元物]



小牧城下町
小牧山に城を造った織田信長は、山の南側に城下町を造りました。当時は、ここから町の様子が見えたことでしょう。町は南北1.3km、東西1kmの広さで、東西、南北に道が通り、町の南側に造った土塁(土を積み上げて造ったかべ)と堀(地面を掘って造った大きな溝)により、町が囲まれていたと考えられています。(写真1)町の中は身分や仕事の種類によって住む場所が分かれており、町の中央から西部には、染物をする人や戦いの時に着る鎧の部品や刃物などを作る人などが、町の東部には武士が住み、寺がありました。
城下町の東部にあたる新町遺跡の発掘調査をしたところ、土塁と堀で囲まれた屋敷地の中に建物や井戸が見つかりました。(写真2)屋敷のある場所の全部は調査できませんでしたが、その大きさは南北19m、南北45mの広さと考えられます。
城下町の西部にあたる上御園遺跡の発掘調査をしたところ、南北6〜7m、東西55〜65mの細長い敷地に道に面したところは建物、その奥に井戸などがあり、その奥は畑か庭で、一番奥に溝があるという様子が分かりました。(図1)溝は、町を区切る境にもなっていました。

桜の馬場の南側に設置された説明板より。

写真②:商業施設の奥に見える体育館の屋根が、新町遺跡の位置する「小牧市立小牧中学校」
写真③:小牧市役所敷地が小牧池田遺跡で、市役所奥の南西方向辺りが上御園遺跡。

2023年11月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
徳川源明公墓碑[小牧山城  碑・説明板]



尾張藩中興の祖といわれた、尾張徳川家九代藩主 徳川宗睦源明公の墓碑である。元々は、尾張徳川家の菩提寺である、名古屋市東区の建中寺にあったが、昭和二十八年に行われた区画整理のため、移転を余儀なくされ、徳川家に縁が深い小牧山のこの場所に移設されたものである。
小牧市教育委員会
説明板より。

大手道の途中にあります。
墓碑の真正面に賽銭箱は位置的にどう?

2023年11月14日 小太郎左衛門督南海道22國守
小牧山城



標高86メートルの小牧山は、濃尾平野を一望できる戦略上の要地である。山の南側の無料である小牧市役所駐車場から、史跡情報館であるねきしるこまきは、目の前で5分程度であり、ここで、石垣等学び、近道の階段で急勾配ながら5分~10分余りで模擬天守である小牧山歴史館に至る。

2023年11月05日 しおん
小牧山城



駐車場2時間無料。でも、市役所側駐車場から上がった方がいいかも

2023年10月27日 よさく$♯$木を切る
小牧山城

小牧長久手の戦いを、模型と語りで、10分で語ってくれる!何年か前に模型がリニューアルで立派になったのがかんどうした。
入場料も100か200円と何十年も変わらないこともとても嬉しい。信長が美濃と駿府の挟まれて、ここに作った事もやはり素晴らしい!

2023年10月16日 武蔵坊❖遠江守⚔️
小牧山城

登る際、急な近道と緩やかな遠回りの道があります😅城の中には、写真スポットや続日本100名城スタンプも設置されていますので是非!(^^♪帰りの際はお気をつけて〜😊

2023年09月09日 久松胆振守西門左衛門
小牧山城

本丸の歴史館は入館受付終了が16:15と早いです。大手口から登ると大きな堀に時間を費やしがちですが、スタンプ押す方はご注意ください。

2023年08月21日 いかにも信玄
小牧山城

08/20放送、大河ドラマ[どうする家康]において、本編と紀行で登場。もとは織田信長の二番目の居城。羽柴秀吉対徳川家康、唯一の直接対決[小牧・長久手の戦い]における家康拠点陣地。

小牧山城の見どころは、今も残る空堀と土塁。秀吉軍の岡崎奇襲を察知した家康軍が、深く掘った空堀から出陣、見事、迎撃に成功する。戦闘戦略的には家康の勝利、戦後外交における戦術的には秀吉の勝利。

よって、引き分けという、近年の考察検証があります。

2023年08月14日 やまてつ伊予守
小牧山城



御城印をいただくためにリア攻めしました。信長時代の石垣の修復の様子が見学でき、良かったです。

2023年06月10日 賢王
小牧山城



榊原康政の土塁積み上げが良く分かります。中の展示もシアターも沢山あり見応えありました。

2023年06月03日 駿河守スーさん
小牧山城



何年かぶりに小牧山城に行ったら、発掘された信長時代の石垣が積み直されていました。3段積みだったことがよくわかります。また家康が小牧長久手の戦い時に5日間で榊原康政に作らせたという土塁の見本が展示されていたりして、その頃の様子がよくわかるよう整備されていました。小牧のコミュニティバスは65歳以上は無料です。市外の人もです。 高齢者に優しい街です。

2023年03月12日 ふみえ雅楽頭
小牧山城



れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)の様々な解説動画が面白く、小牧山城に対して俄然興味が湧いてきました!金額からは想像できない情報量とクオリティです。

お城(歴史館)は改装中でした。4月から入れるようです。

2023年02月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小牧山稲荷神社[小牧山城  寺社・史跡]



小牧山吉五郎 稲荷社縁起
天正の昔より、小牧山は樹木鬱蒼と茂り、数万羽の五位鷺の棲息地で、又、附近一帯は森林竹林が続き、狐狸が多く棲息していた。そして、小牧山には古狐 吉五郎。又、山中薮には藤丸郎。お林山のお梅。下津山の助五郎。岩崎山の勘八。二子山の文治郎。下原山の銀九郎。等々色々面白い名のついた狐がいた。就中小牧山の吉五郎は、尾北一圓の大親分格で魅力妖力、霊力ともに勝れ。近在の里人も、その神通力に心服す。さきに郷党の人人相計り、小牧山 吉五郎稲荷社を創建し、これを祀る。事後霊験あらたかに崇敬するもの更に多く、参拝者日々絶えることなく、今日に至る。
稲荷社縁起より。

2023年02月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
観音洞(間々乳觀音出現靈場)[小牧山城  碑・説明板]



観音洞(かんのんほら)
明応の頃─。
乳の出ない妻に食わせようと、子孕み鹿を撃ちに小牧山に登った麓の狩人が、七匹の子鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、子鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化した。
狩人はこれを見て殺生を悔い、その地に草庵を結び、観音像をねんごろに祭った。
後に、観音を祭る草庵は間々に乳観音として移転したが、草庵の跡地は観音洞と呼び親しまれ、現在に至っている。
説明板より。

織田信長の命令によって、現在地に移されたとも言われています。

2023年02月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
虎口[小牧山城  遺構・復元物]



虎口gは、小牧・長久手の戦いの際、土塁に幅1.5㍍の切れ目をつくり出入口としたものです。虎口付近で、土塁をL字形に屈曲させることにより、内部を見えにくくしています。また、虎口fと同様、虎口の前面に深い堀SD09を配置した堅固な造りですが、江戸時代初めに堀を利用して木津用水が築かれたため、全体の構造は明らかにできませんでした。
説明板より一部抜粋。

2023年02月23日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
曲輪403[小牧山城  遺構・復元物]



史跡 小牧山遺構分布図 解説文
堀SD13は、曲輪403bと曲輪404を区画しています。織田信長が、小牧山に城を築いたときに掘られ、小牧・長久手の合戦で虎口や土塁を築いたときに、堀の一部が埋められました。
曲輪404は、織田信長の小牧山城の時代、小牧山東麓に配置された武家屋敷の一つとみられ、北側も堀で区画されています。本来は一辺約45㍍の規模があったとみられます。

地面に埋め込まれた説明板より。タイルが割れていて残念な感じです。

2022年11月20日 ずば刑部卿
小牧山城



2022年11月20日に既に歴史館への大手側からのルートが通行止めになっていました。迂回ルートはわかりにくいので、先に「れきしるこまき」で地図をもらうことをおすすめします。12月からは休館になり、スタンプはれきしるこまきに移されるそうです。

2022年11月14日 直江山城守優介
小牧山城



全体が整備された公園となっています。資料館は小牧長久手の戦いの展示があり、来年の大河ドラマの予習になりました。発掘調査が進められているので数年後に来るともう少し違う姿が見れるのではないかと期待してます。

2022年09月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
宇田津砦(哥津砦)[小牧山城  周辺城郭]



宇田津(うたづ)砦は、天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いの際に築かれた、信雄・家康連合軍の連砦の一つ。
規模は、東西三十四間、南北三十八間で、総構は二町四方のかなり大きな平城であったとされる。
秀吉方の二重堀砦に近く、最前線に位置したことから、家康は北外山・宇田津・楽田をつなぐ新たな軍道を整備した。

工場敷地内に、石碑や説明板がある為に、見ることが出来ないが、敷地外からは、木の根元に石碑のようなものと、説明板の裏面が確認できる。(敷地外から写真を撮っていると、不審者過ぎるので早々に撤退。)
この地域に残る地名の、不発(うたず)は、小牧・長久手の戦いに、由来するとのではないかとされている。

2022年07月09日 
小牧山城



北側の駐車場を利用すると2時間まで無料。市民の方々の憩いの場としては良き計らいだと。きちんと隅まで見る人にはもっと必要ですね。木々が高くなったからかもしれませんが、視界よく見渡せるとも言い難しですが。岐阜への繋ぎ当番としてだけ見るには少し勿体ないです。家康の陣地としての方が有名ではありますが、安土の構想の基礎部分の遺構が発見されることに期待して。

2022年05月23日 いのちゃん吉法師
小牧山城

小高い山に模擬天守があり、地元の歴史館として利用されています。信長、秀吉、家康とも縁のある歴史あるお城です。

2022年05月08日 天照うにむら
小牧山城

小牧市役所の真前にあります。中はキレイで新しい歴史資料館。JAF会員証を提示すれば割引になります。スタンプラリーもあるよう。

2022年05月01日 右京大夫ゆーき
小牧山城



春に訪問しました。北駐車場から山頂?までは徒歩で15〜20分程度かと思います

2022年04月12日 爺々大宰少弐
小牧山城

お車で行かれる方は山の北側に有料駐車場がありますが、南の市役所に停められると良いと思います。

2022年02月27日 もじゅ侍従もじゅ
小牧山城

小牧長久手の戦いの進展が動画とジオラマを使っての展示説明がレトロ感有りつつも、興味を持って見られたよ。展示館までの道のり、あなどることなかれ、額に汗しますの〜。

2022年02月03日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
井戸[小牧山城  遺構・復元物]



発掘された井戸(永禄期)の遺構
井戸の解説
このあたりは、織田信長の時代には、小牧山の麓を取り巻くように、武家屋敷が配置されていた。小牧・長久手の合戦では、この屋敷跡を壊して堀が掘られ、土塁が築かれた。
信長時代の武家屋敷の井戸は、土塁の下から発見された。
井戸は、素掘りで、直径約2㍍、深さは3.2㍍以上で、底に近いあたりには、曲物の井戸枠がはめられていた。井戸は武家屋敷の廃絶時に、人為的に埋められ、井戸枠材は一度引き抜いてから、井戸の中へまとめて投げ捨てられていた、井戸の上部構造は、発掘調査で明らかに出来ないため、同時代の絵図をもとに推定復元した。

何故か、井戸の解説は、地面に埋め込まれた、ブロックに彫り込まれている。

2022年01月31日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
原川の落し石[小牧山城  碑・説明板]



この石は、岩崎山の南東、年貢橋(清正橋)のすぐ下流で発見された。石には、石を切りだしたときのタガネの跡と次のような三種類、五個の刻紋がある。

同様の刻紋が名古屋城の石垣で認められており、大半が加賀 前田氏が築城工事を担当したところで発見されている。
この石は、慶長十五年(1610)の名古屋城築城のため、加賀 前田氏によって岩崎山から運ばれる途中、原川に落下し放棄された落し石と認められる。
平成十七年三月    小牧市教育委員会

説明板より

落し石は、落城を連想される事から、そのまま放棄されているので、各地に残されている。
小牧市民会館の駐車場入り口付近にあります。

2022年01月31日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
姥ヶ懐古戦場[小牧山城  寺社・史跡]



小牧・長久手の戦いで、徳川軍と羽柴軍の小競り合いが、この辺りであったと伝えられているが、詳細は不明。

石碑が小さく、文字も風化が進み読めなくなっているので、新しくして欲しいかなと思います。

2022年01月30日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
土塁[小牧山城  遺構・復元物]



小牧山の麓を取り巻く土塁は、当初は堀をはさんで二重になっていましたが、今では内側の土塁が残っているだけてす。
この土塁は、幅10㍍、高さ3㍍程の規模で、外側が急傾斜で、内側の傾斜がゆるくなっています。土塁の外側には堀がありましたので、堀の底から測ると土塁の高さは5㍍にもなります。
小牧山を取り巻く土塁は、織田信長の城にはありませんでした。この土塁が造られたのは、小牧・長久手の戦いのときで、徳川家康の軍勢が短期間に築いたものです。土塁の断面土層の様子は、土塁断面展示施設で見ることが出来ます。

説明板より抜粋

御幸橋口から山北橋口にある、土塁Vは遊歩道が整備されているので、土塁の上を歩くことが出来ます。山北橋口手前で、土塁の一部が若干高くなっているが、物見櫓か何かあったのだろうか?
説明板には、特に何も記載なしだが…。

2022年01月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
曲輪402[小牧山城  遺構・復元物]



織田信長公居館跡(曲輪402)
永禄六年(1563)織田信長公は美濃攻略の新たな拠点として、清洲城から小牧山に居城を移しました。
小牧山城では、後の安土城に見られるような、山頂に向かって直線に伸びる大手道や、山頂部に近世城郭のルーツとなる石垣を築くなど、斬新で先進的な城造りを行いました。
また、近年の研究や発掘調査により、小牧山の東から北の麓に、山を取り巻くように武家屋敷を、配置していたことが明らかになりました。中でも、城の南東部にある曲輪402は、北側に続く他の曲輪が45㍍四方の規模の武家屋敷であるのに対し、75㍍四方と小牧山城の中で最も広い面積を持つため、信長公の居館跡ではないかと推定されています。城の麓に居館を持つスタイルは、岐阜城に先駆けるものとして注目されますが、中学校の運動場造成の際に削平を受けたため、発掘調査では堀などの深い掘り込みの跡しか見つかっておらず、どのような建物があったかは明らかになっていません。
説明板より

説明板が劣化している為、ちょっと読み難くなっているので直して欲しいです。

2022年01月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
石碑『小牧山』と説明板[小牧山城  碑・説明板]



江戸時代初期に描かれた、春日井郡小牧村古城絵図によれば、この辺りの小牧山の南東符もは二重の土塁の間に堀が配置されて、外敵の侵入を防ぐようになっていました。
現在右側に見える堤防のような土の盛り上がりが、土塁で堀を掘った土を積み上げたもので、天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦の
時に、徳川家康の軍勢が築いたものです。
正面の低い部分が堀ですが、堀は左側の県道の下まで伸びていて、幅12㍍程だったものと推定しています。堀の底は平坦で、道のようになっていました。内側の土塁との比高は5㍍を超えますが、整備にあたっては、排水の関係上、本来より1㍍程浅くしています。堀は、水を貯めない空堀でした。堀のさらに左側には、内側の土塁よりも低い外側の土塁がありましたが、これは江戸時代のうちに削られなくなりました。
底が平坦で幅の広い堀に外側の土塁があることにより、堀を通路のように使用して多数の軍勢を移動させることが、出来たのではないかとも言われています。
説明板より

史跡公園南口の西側にひっそりと、空堀があります。

2021年10月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小牧代官所[小牧山城  寺社・史跡]



小牧代官所は、この地のすぐ西にありましたが、現在は民家や道路となって、その面影を偲ぶものは残っていない。
天明二年(1782)小牧御殿の一角に小牧代官所(陣屋)が設けられました。これは、尾張藩の財政窮迫に伴う改革策として、農政に力を入れる為、地方に十二ヶ所の代官所を設けたうちの一つです。
代官所は、藩の御触れの伝達や各村の庄屋・組頭などの監督、年貢や賦役の徴収を行うほか、治安・警察の仕事や様々な訴訟を扱ったり、その職務は多岐に渡っていました。小牧代官所は、尾張国 丹羽郡127村、尾張国 春日井郡125村、美濃国 可児郡5村という広範囲を管轄していました。代官所には、代官の下に手代、並手代、足軽(同心)、小使など、その年によって違いますが、十四名ほどの者が配置されていました。
右側の福禄寿の石像は、義直が製作され、小牧御殿に設置してあったと伝えられる石像で、江戸時代前半のものと見られます。
石像を安置する祠は、小牧代官所(御殿)の建物の一部を、転用したものと伝承されています。

説明板より抜粋

2021年10月22日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小牧御殿[小牧山城  周辺城郭]



小牧御殿趾、現在は民家や道路となって、その面影を偲ぶものは、残っていません。
尾張藩の御殿は、江戸時代初期、佐屋・津島・熱田なと、十四ヶ所に設けられました。小牧御殿は、寛永二年(1625)に江崎善左衛門の蟹清水屋敷に、初代尾張藩主 徳川義直が鷹狩りの折りに訪れ、北西に小牧山を望む景観と、蟹清水の庭園が気に入り、御殿にしたと言います。
以降、義直の別荘として、通行や鷹狩りの際に、宿泊や休憩所として使われ、普段は、江崎氏が御殿守として管理していました。
御殿の敷地は、四十六間✕五十一間(約2350坪)で十畳以上の部屋が十もありました。

蟹清水砦跡の石碑の北側、道路を挟んだ御殿龍神の片隅に小牧御殿の石碑があります。

2021年10月13日 特にありません
小牧山城



小牧山城の天守閣内の資料も整っているとは思っていたが、ふもとの「れきしるこまき」はとても初心者向きで映像中心でわかりやすい。見学者が多いと全く使用出来ないという難点があるが、チカラの入れようを強く感じる。

2021年10月11日 めい尾張守
れきしるこまき[小牧山城  関連施設]

れきしるこまき、素晴らしかったです。いろいろな制約のある中でも精一杯が伝わりました。

2021年10月03日 左京大夫むねりん
小牧山城



「れきしるこまき」では発掘調査の結果が随時模型に反映されているので、当時の様子をイメージしやすいです。

2021年09月25日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
北外山城[小牧山城  周辺城郭]



北外山城(砦)跡
北外山砦は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦で廃城となっていた、織田與四郎の居城を利用して築かれた砦で、本田忠勝、松平家忠らが守った。
東西二十七間(約49㍍)、南北二十間(約36㍍)の広さで、四方には高さ一間(約1.8㍍)の土塁があったと伝わる。現在では「城島」「城前」というこの辺りの小字名が城跡の名残りをとどめている。
尚、ここにある「北外山城趾」の碑は、ここから約50㍍北側の民家敷地内から移設したものである。
             説明板より
小さな稲荷社の片隅に小さな城址碑があります。
近くの薬局駐車場を利用させてもらいました。

2021年08月14日 やまぴぃ
小牧山城



小牧山城に行ってきました。あいにくの雨でしたが、雨のお城も味わい深いものがありました。信長四城御城印ラリーに参加し、小牧山城でゴールでし、楽しかったですよ。石垣の発掘作業が進み、信長時代の石垣が見つかったり、新たに史跡資料館(れきしこまる)も出来、見所満載となりました。ぜひに。

2021年02月27日 【城郭道】たっきー
土塁と空堀[小牧山城  遺構・復元物]

城山の外周を巡る土塁と横堀には、折れによる横矢掛と内側の土塁に犬走が備えられていることがわかる。 ディアゴスティーニ日本の城128巻より


2021年01月31日 【城郭道】たっきー
土塁断面展示施設[小牧山城  遺構・復元物]



駐車場付近にある土塁断面展示施設。土塁の層やここにある土塁についての説明がされています。れきしるこまきからは徒歩5分くらいで、土塁の断面を見れる城はなかなかないので是非、見ていってください。
ちなみにかつてここは入り口ではありませんでした。

2021年01月30日 【城郭道】たっきー
蟹清水砦[小牧山城  周辺城郭]



【信長時代】
小牧越しで丹羽長秀の居城であったと伝わる。
【家康時代】
織田、徳川連合軍が修復し、交番で守備。
【江戸時代】
小牧御殿の庭園の一角。
【現在】
砦の規模は東西46間、南北61間と伝わる。砦跡は土塁跡、堀跡等が昭和20年代まで残存していたが開発で消滅。石碑と説明板が建つ。

2021年01月04日 【城郭道】たっきー
模擬天守[小牧山城  関連施設]



小牧山城主郭にある模擬天守。最上階の展望台からは金華山(岐阜城)や犬山城、名古屋のビル群を望むことができます。この建物は1968年に寄付されたもので京都の飛雲閣がモデルとなっています。

中へは大人100円、中学生以下無料で入れます。小牧山城リア攻めの際は、登るのもそんなに大変ではないので是非、行ってみてください。

2020年12月29日 【城郭道】たっきー
虎口[小牧山城  遺構・復元物]



御幸橋口にある虎口。ここはおそらく小牧山城の中で最もわかりやすい虎口だと思います。橋が架けられていて、なかなか雰囲気が出ています。土塁で上から見ることができます。(虎口を通る城友さんを攻撃しないでくださいね。)
ここは小牧、長久手の戦いの際に徳川方によって築かれたものです。
天守ばかり目が行きがちですが是非、見て城の凄さを知って体感してください。

2020年12月28日 【城郭道】たっきー
小牧山城



岩倉駅から名鉄バスで行きました。
最初にれきしるこまきへ行って、小牧山城を予習。そこで御城印と小牧山城発掘調査の本を購入しました。ちなみに一月に小牧で千田先生の講演会があるそうですね。
そこから、国内最大級の整備された土塁と空堀を見ながら大手道へ行き、登った先にある家康時代の空堀を見ました。この空堀は見事ですね。そこから少し遠回りして、発掘調査で出てきた裏込石を見てから主郭に行きました。主郭にある石垣や転落石はもう震えるくらい最高でした。
さて、やっと着いた模擬天守。鉄筋コンクリートで作られたものですが、中は木造で造られている雰囲気が出てました。最上階からは犬山城、岐阜城、名古屋のビル群、138タワー、伊吹山などが見えました。信長もこの濃尾平野の景色を見ましたかね。
そこから下山。バス停で次のバスの時間を確認したらまだ一時間ある!よし!と、麓の曲輪を散策しました。曲輪402(伝信長公居館)は土塁と空堀が綺麗に整備されていて、感動しました。復元井戸も立派。土塁の上から小牧山城の麓を見渡して、虎口も確認していたらバスの時間がとっくに過ぎてました!楽しい時間はあっという間に過ぎるのだと改めて知りました。
小牧山城は山城初心者の方におすすめの城です。(もちろん中級者や上級者にもおすすめの城です。)是非、来てみてください。

写真
1曲輪402(伝信長公居館)の土塁と空堀
2模擬天守
3模擬天守から望む名古屋方面
4主郭付近の発掘調査で出てきた裏込石
5麓の土塁
6大手道付近の土塁

2020年12月26日 能登守さとみっくす
井戸[小牧山城  遺構・復元物]



駐車場から麓の資料館へ向かう途中に見つけました。なんか良い感じですよね。なんとなくこの井戸が好きです。
小牧山城行ったら確認してみてください。

2020年12月26日 【城郭道】たっきー
曲輪402[小牧山城  遺構・復元物]



綺麗に整備された土塁と空堀に囲まれた曲輪402。ここは永禄期小牧山城の時に信長公居館があったのではないかと言われています。
家康が本陣をおいたときには兵駐屯として使われました。
小牧山城の中で僕が一番好きなところですね。
是非、行ってみてください!

2020年12月25日 【城郭道】たっきー
れきしるこまき[小牧山城  関連施設]



れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)

入場料  一般100円、団体(30人以上)60円 
     中学生以下無料
開館時間 9時00分から17時00分(常設展へは16時30分まで)
休館日  第三木曜日、年末年始
駐車場  小牧山北駐車場(30分で100円。最初の2時間無料)


館内で小牧市教育委員会による『史跡小牧山(小牧山城)発掘調査報告書2-主郭地区第1〜8次発掘調査-』が1780円(税込)で販売されています。興味のある方は是非、購入してみてください。最初の数ページだけ読みましたが、結構面白かったです。

2020年11月23日 摂州左近衛大将ひろりん
小牧山城



北駐車場から搦手口のほうへ迂回しないと歴史館に行けません 続百名城、信長四城、秀吉とスタンプラリーが多くてわかりにくかったです

2020年11月15日 能登守さとみっくす
小牧山城

搦手にある駐車場かられきしこまるまでは10分くらいで行くことができます。行く途中に土塁や堀、曲輪などが見ることができて非常に楽しいです。

2020年11月10日 【城郭道】たっきー
れきしるこまき[小牧山城  関連施設]



れきしるこまきで一枚三百円で販売されています。徳川の家紋になっているのもあるのでリア攻めの記念にどうぞ。

2020年10月18日 ぱぱ〜ん伊豆守
小牧山城



駐車場は搦手(北側)の入口近くにあります。発掘調査の関係で通行出来ない道があります。歴史館と歴史情報館が併せてJAF割引で60円は安かった。

2020年09月25日 お〜さ加賀守
小牧山城



れきしるこまき(史跡情報館)は、入場料100円(本丸跡の歴史館と共通)で小牧山城の歴史と文化が学べます。
そこで、たくさんの資料を貰い、参考になりました。
よく整備されていて、土塁等 分かりやすく見学できます。

2020年09月21日 JC大宰大弐VD
北外山城[小牧山城  周辺城郭]

以前に私が訪城したときは、石碑が個人宅の庭にありましたが、今は宅外に移設されて、見学ができるそうです

2020年09月13日 ばらく~だ
小牧山城



公園北側の駐車場は2時間までは無料です。
ただ、自分はよくばって、あっちもこっちも回っていたら、オーバーしてしまいました😅

2020年05月15日 島津左馬允義弘
れきしるこまき[小牧山城  関連施設]

名称:れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)
所在地:〒485-0046 愛知県小牧市堀の内一丁目2番地
開館時間:09:00〜17:00
    (常設展示室への入場は16:30まで)
入館料:大人 100円 団体(30人以上)60円
    中学生以下 無料
休館日:第3木曜日(但し祝日の場合は翌平日)
    年末年始(12月29日〜1月3日)
トイレ:1階出口付近にあり
駐車場:小牧山北駐車場(終日開場)
    ・30分100円(最初の2時間は無料)
    ・50台駐車可能
    小牧市役所駐車場(終日開場)
    ・無料
その他:御城印(税込300円)
    ・織田信長・徳川家康Ver.の2種類あり
    FREE Wi-Fiあり
※れきしるこまきのチケットで小牧山城天守にも入場することができます。
※常設展示室は撮影禁止です。

2019年07月22日 無限織部正武威鉄駆
小牧山城

小牧市歴史館の方にお聞きしましたが御城印は今年の9月から発売開始予定との事でした。

2019年04月28日 紅い征夷大将軍いしじぃ
小牧山城



2019/4/25にオープンした小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)へは小牧市役所の無料駐車場をお借りして徒歩。
入場料100円(中学生以下無料)の割に資料や展示品や体験コーナーなどお城初心者にも分かりやすい展示でコスパ良し。
春風亭昇太師匠のVTRを見てから山頂を目指すと濃尾平野を一望できます。

2019年02月02日 我流尾張守クール
小牧山城

小牧山城史跡情報館
(愛称 れきしまるこまき)が2019年4月25日にオープン予定です。
入場料は大人100円で、山頂にある小牧市歴史館と共通入場券。
現在も発掘中の小牧山城、最新の調査結果や小牧長久手合戦についても展示があるようです。
お問い合わせは小牧市 小牧山課まで。


2017年12月11日 源陸中守@ポンコ2連勤残1
小牧山城

本丸虎口の石垣が見つかったそうです。
加藤理文先生の「信長の城」に登場する小牧山城、近世城郭の先駆け解明につながるといいですね。

以下毎日新聞ニュース転載

小牧山城跡の発掘調査を進めている愛知県小牧市教育委員会は、本丸西側の斜面で新しい石垣の遺構を発見したと発表した。本丸に通じる出入り口虎口の跡とみられ、織田信長が築いた初の石積みの城とされる小牧山城の特徴を示す遺構となる。

市教委によると、見つかった石垣の遺構は幅2メートルの通路の両側にそれぞれ長さ7.4メートル、1メートルで、高さは1.5~1メートル。屈曲した複雑な構造で、侵入者が簡単に通れないように工夫され、石垣の上から攻撃できる造りになっている。
虎口はこれまで東と南の斜面で発見されており、今回の西は3カ所目。本丸の西側には信長の居宅など生活の場があったとみられており、東と南の虎口が来客者の表門だったのに対し、西は信長が居宅と本丸を往復するための裏門(勝手口)だった可能性があるという。

2017年08月01日 織田上総介晃司
小牧山城

天守(小牧市歴史館)は名古屋の実業家・平松茂が私財を投じ建設。そのまま小牧市に寄贈したもの。

小牧山城は土塁で造られた城とされていたが、発掘調査の結果主郭部には石垣があったことが判明。

美濃攻略のため織田信長が築城。
小牧・長久手の戦いの時は徳川家康が陣を構えた。
ちいさなお城だが、信長・秀吉・家康とゆかりがある。

2017年01月29日 我流尾張守クール
小牧山城

発掘調査が継続中です。
尾北にポツンとそびえる孤高の小牧山…

歴史館より北西から鈴鹿、養老山脈、伊吹山、金華山、清洲、犬山、本宮山、白山、乗鞍岳、御嶽山、恵那山、中央アルプスが見渡せます。
発掘調査の過程がわかる資料やかわら版も閲覧できます。

清洲から小牧山、稲葉山、安土と続く信長公の道程に思いを馳せてしまいます。

小牧長久手合戦時には岩崎山の秀吉と対峙した家康公の本陣です。徳川四天王も来たのだろうなぁ


2016年10月11日 青コアラ美濃守
小牧山城

大手道を真っ直ぐ登ると、中腹辺りで道は左へとカーブしますが、そこで左へ行かずに真っ直ぐ土手を乗り越えるように進むと、空堀の中に入ることが出来ます。
堀は結構深く、V字に抉れていて見応えがあります。この堀を下ると大手道に復帰し、上に進むと主郭西側の土橋に突き当たります。

2016年03月25日 ドラガン尾張守店長
小牧山城

本日(3月25日)梅は満開、桜は開花始め。今年は4月1日から4月8日までが桜祭りだそうです(^^)

2015年12月31日 瀧乃道宮内卿ユズル
小牧山城

皆さんされていると思いますが…
最上階で解説の風景写真を見て、小牧山と各所の位置関係をしっかり把握すると楽しいと思います。
名古屋、清洲、岐阜(金華山)、伊吹山。
ここで尾張、美濃から京へ思いを馳せた信長の気持ちが、わかる!気になれます。
私はなりました!


2015年08月11日 土岐美濃守頼康
小牧山城

小牧山城の耐震補強工事期間は6月8日~10月15日(予定)になった模様です。
スタンプラリーの関係は小牧市青年の家でやってるようですが、木曜日は休館のため、スタンプの押印ができないとのことです。


2015年05月01日 るーみん越前守
小牧山城

小牧山城(小牧市歴史館)は、耐震改修工事のため、平成27年5月中旬〜9月中旬まで休館します(予定)
休館期間中、お城スタンプラリーのスタンプ台は小牧山城敷地内にある青年の家(木曜日休館)に設置予定との事です。

2013年03月17日 勘解由次官ぷんちゃん
小牧山城

有料の駐車場もあるみたいですが、小牧山入り口すぐ前の小牧市役所駐車場利用も良いそうで、そこに停めました。アピタもあるから買い物ついでなら良いかも。小牧山には公園もあり、小さな子ども連れでしたが、十分楽しめました。気候のよい時期はお弁当持参がオススメ


2010年09月10日 大膳大夫マイリバ
小牧山城

小牧山築城のエピソードを書こうと思ったら【歴史】に書いてありましたこのような人を動かすテクニックを「ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック」(譲歩的要請法←漢字だけ見るとダチョウ倶楽部の『どうぞどうぞ』みたいですが)と言います

信長が400年以上前に意識的にこのテクニックを用いていたとしたら、やはり日本史上最も「天才」に近い存在だったのかもしれませんね

小牧山城の周辺スポット情報

 土塁断面展示施設(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 井戸(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 曲輪405(遺構・復元物)

 曲輪403(遺構・復元物)

 曲輪404(遺構・復元物)

 曲輪402(遺構・復元物)

 大手道(遺構・復元物)

 土塁と空堀(遺構・復元物)

 曲輪401(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 御幸橋口(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 山北橋口(遺構・復元物)

 搦手口(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 大手口(遺構・復元物)

 桜の馬場(遺構・復元物)

 土塁と堀(遺構・復元物)

 曲輪023(主郭地区第4工区発掘調査現場(遺構・復元物)

 浅井氏邸址・浅井長政像(碑・説明板)

 石碑『小牧山』と説明板(碑・説明板)

 原川の落し石(碑・説明板)

 観音洞(間々乳觀音出現靈場)(碑・説明板)

 尾張名稱發源之地(碑・説明板)

 不発橋(碑・説明板)

 徳川源明公墓碑(碑・説明板)

 虎口a(碑・説明板)

 屋敷跡伝承地(曲輪305)(碑・説明板)

 太平洋戦争時の改変と暫定園路について(碑・説明板)

 小牧山のふもとに造られた二重の土塁と堀(碑・説明板)

 北外山城(周辺城郭)

 蟹清水砦(周辺城郭)

 小牧御殿(周辺城郭)

 田楽砦(周辺城郭)

 宇田津砦(哥津砦)(周辺城郭)

 姥ヶ懐古戦場(寺社・史跡)

 小牧山稲荷神社(寺社・史跡)

 小牧代官所(寺社・史跡)

 上御園遺跡(小牧山城城下町)(寺社・史跡)

 小牧池田遺跡(寺社・史跡)

 西町の稲荷堂(市指定有形文化財)(寺社・史跡)

 伊多波刀神社(寺社・史跡)

 新町遺跡(寺社・史跡)

 織田井戸遺跡(寺社・史跡)

 小牧宿本陣(寺社・史跡)

 小牧駅前観光案内所(御城印)

 小牧市歴史館(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 小牧市役所駐車場(駐車場)

 れきしるこまき(関連施設)

 模擬天守(関連施設)

 無料休憩所とトイレ(関連施設)

 小牧山城模型(その他)

 徳川義親像(その他)

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