大垣城(おおがきじょう)

大垣城の基本情報

通称・別名

麋(び)城、巨鹿城

所在地

岐阜県大垣市郭町2-52

旧国名

美濃国

分類・構造

輪郭式+連郭式平城

天守構造

複合式層塔型[3重4階/1594年築・1620年改/焼失(空襲)]、複合式層塔型[3重4階/1959年再/RC造外観復元]

築城主

竹腰尚綱?

築城年

明応9年(1500)?

主な改修者

氏家直元、伊藤祐盛

主な城主

竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、松平氏、戸田氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣

指定文化財

市史跡(大垣城跡)

再建造物

天守、乾櫓、艮櫓、門、塀、石碑、説明板

周辺の城

長松城(岐阜県大垣市)[4.3km]
御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[4.4km]
曽根城(岐阜県大垣市)[4.6km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[6.5km]
福束城(岐阜県安八郡)[6.8km]
軽海西城(岐阜県本巣市)[8.3km]
垂井城(岐阜県不破郡)[8.3km]
竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)[8.9km]
相羽城(岐阜県揖斐郡)[10.6km]
北方城(岐阜県本巣郡)[10.8km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)144 大垣城

設置場所

大垣城天守内[地図

大垣城の解説文



大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。

概要 

宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない。宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。戦国時代になると氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭としての整備された。伊藤祐盛が4重4階の天守閣を加え、石川氏によって総堀が加えられ、久松松平氏により天守が改修されている。1649年(慶安2年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治に至る姿となった。

歴史 

中世

1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる[1]。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている[2]。牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであった。

戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わった。1544年(天文13年)に織田信秀の攻撃により落城し、織田播磨守(※造酒丞ではない)[3]が5年間城主を務めた。その後、1549年(天文18年)、斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となる。

1559年(永禄2年) に桑原直元(氏家直元)が城主となり、1563年(永禄6年)に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。

近世

賤ヶ岳の戦いの後、この地域の支配権を獲得した羽柴秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が城主とされた。所領は15万石とされる。池田氏以後、大垣城は近世城郭としての整備が進んだ。翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、翌年の1585年(天正13年)には輝政は岐阜城主に転じた。

代わって、1585年(天正13年)には秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の家老の1人[4]に任命された一柳直末が、大垣城に配されて3万石を領した。

大垣城は1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震の被害をうけて全壊焼失した。

1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時の改築で天守閣が築かれたとされる[5]

1590年(天正18年)の小田原の役で一柳直末が戦死したため、この戦いで功を挙げた伊藤盛景が城主とされ、1599年(慶長4年)に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗が跡を継いだ。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯(三成の義弟)らが守将となって残ったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りにより窮した福原は、やむなく西尾光教の仲介で降伏勧告を受け入れて落城した(大垣城の戦い)。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。

江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にした。

1613年(慶長18年)には石川忠総によって総堀が加えられ、さらに後に松平忠良が天守を改修した。『関ヶ原合戦図屏風』(津軽本)や『正保城絵図』には、現在の復元天守とは異なる3重天守が描かれている。

1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった。戸田氏の改修後は、並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。また、東総門から西総門にかけて、総堀の中の郭を美濃路が抜けていた。

近現代

1873年(明治6年)に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。

天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。2008年8月、市民検討委員会が大垣市に木造再建案を提言している[6][7]

2005年、大垣市は、戦後に総堀が水門川や用水路として残る以外の堀が埋められ、計画性の無い開発により主要道路や大垣駅からは天守より高い建物によって見えなくなってしまったとして、昔の大垣城を復活しようと「大垣城郭整備ドリーム構想」という計画を立ち上げた。2006年以来、検討委員会がたびたび開催されているが、計画は具体化していない[8]

2006年(平成18年)、指定管理者制度を導入し公益財団法人大垣市文化事業団が管理運営を開始[9]

2011年(平成23年)2月22日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了した。この工事で、戦後の再建時に改変された外観が、史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された(工事最終完了は3月4日)[10][11]

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(144番)に選定された。

2019年(平成31年)4月、指定管理者制度を廃止、大垣市直営施設に戻す。

歴代城主 

出典:【書籍】「岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第4回」

遺構 

開発により多くの遺構は失われたが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。

移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残る。また、大野町西方の民家に、どこの門かは定かではないが城門が移築され現存する。

各務原市蘇原町野口の野口城に、伝加納城移築鉄門とされていた門が各務原市に譲渡され解体調査の結果、大垣城の鉄門であることが分かった。現在修理され各務原市鵜沼宿に展示されている。

大垣公園

本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されている。1880年(明治13年) に旧本丸敷地に中学校が設置される計画があったが中止された後に公園として整備された。

復興天守には、関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービー(各約30分)など様々な動画コンテンツを閲覧できる。火縄銃や槍、弓を実際に触ることができる展示コーナーもある。2000年(平成12年)に開催された、決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用された。入場料は100円である。

艮隅櫓

本丸を取り囲んだ腰曲輪の櫓。本丸とともに旧国宝になったが、戦災で焼失した。戦後鉄筋コンクリート造で復興した。

乾隅櫓

鉄筋コンクリート造で復興。鯱瓦が当時の復元に変更された。野面積の石垣は、石灰岩で作られている。

脚注・出典 

大垣城の口コミ情報

2023年12月02日 テムジン
大垣城

車で行く人は大垣城北側の有料駐車場が便利です。1時間100円です。南側の大垣城ホールの駐車場は空いていれば無料で停められます。

2023年08月25日 RED副将軍
大垣城



関ヶ原の戦いにおける石田三成が率いる西軍の本拠地🏯

続日本100名城

築城年代は不詳。1500年に竹腰尚綱により築かれた牛屋城が始まりとも、1535年に宮川安定により築かれたのが始まりとも云われますが定かではありません。
1544年、織田信秀の侵攻により大垣城は落城。家臣の織田信辰が入城。
しかし、1547年に斎藤道三が攻め寄せて落城。家臣の竹腰尚光が入城しました。
1559年には美濃三人衆のひとりである氏家卜全が城主となり、1567年に織田信長の家臣となりました。この頃に大規模な改修が行われたとされます。
1571年の長島一向一揆との戦いで氏家ト全は討死。嫡男の氏家直昌が承継するも、1583年には氏家直昌も没し、弟の氏家行広が承継するも三塚城へ転封となり、羽柴秀吉家臣の池田恒興が大垣城主となりました。
1584年の小牧・長久手の戦いで池田恒興は討死。家督を継いだ池田輝政は岐阜城へ転封、代わって羽柴秀次、羽柴秀長、加藤光泰、羽柴秀勝が入城するも、いずれも在城期間は僅かでした。
1590年に伊藤祐盛が入城し、この頃に改修され天守が築かれたとされます。
1600年の関ヶ原の戦いの際には、家督を継いだ伊藤盛宗は西軍に属し、石田三成の西軍主力部隊が入城し根拠地として機能しましたが、関ヶ原で西軍本隊が敗北すると東軍に攻囲され落城。
1601年には譜代大名として石川康通が入城。
その後、城主は入れ代わり、石川忠総により総堀が築かれ、松平忠良により天守が改修されたとされます。
1635年に戸田氏鉄が入城すると、その後は戸田氏が代々続いて明治に至り、1873年の廃城令により廃城となりました。
1945年の大垣空襲により国宝であった四重の天守や艮櫓などは焼失しました。

見所
市街化により城域の大半が消失し、本丸周辺が残る程度です。大垣公園が二の丸跡で水堀も埋め立てられています。
内柳門が東門として移築されているものの唯一残る現存建物で、概観復元された天守の他に艮隅櫓、乾隅櫓、西櫓門が復元されています。

2023年08月15日 やまてつ伊予守
大垣城



御城印をいただくために、行きましたが、火曜日は休館日だったので、購入できず!確認することは大事です。

2023年08月01日 やしち三河守
大垣城



駅から徒歩圏内で、昭和を感じるアーケード街を進んで行くと到着。夏の暑い日でしたが、一階はエアコンが効いていて涼めます。関ヶ原前夜に西軍が入城した為、西軍よりの関ヶ原合戦に至る資料が多いですね。お土産に、金蝶園の水まんじゅうがオススメです。

2023年05月02日 修行尼
大垣城



月曜日が休館日で百名城スタンプの設置が近くの大垣市役所でした。空襲にて消失する前は国宝だったようです。ここら辺で食事しようと思っておりましたが、お城周辺はお店はあるものの寂れたシャッター街で食事できず。

2023年03月17日 播磨屋蔵人頭
大垣城

平城かつ城郭主要部の堀が埋め立てられてしまったので、大垣駅から訪問すると近くまで寄らないと城の存在に気付けません。一方で街の至る所に水路があり、かつて何重もの水堀に守られた姿を彷彿とさせられます。

2022年12月17日 尼崎城大膳大夫一口城主
大垣城



12月11日、大垣駅から徒歩にて登城。大垣城は戸田氏鉄公が尼崎から移っていかれた所ということもあり勝手に親近感を抱きながら登城。今まで色んなお城の石垣を見てきたなかでも大垣城の石垣は白いなと思っていたら、地元赤坂の石灰岩が使われているとのことでした。また、石垣周りには明治29年の大洪水時の石碑があり、石碑後方の石垣に洪水位のラインが刻まれていました。(城内で手にした資料に記載)入城して展示を見ましたが資料や映像コーナーなど充実していたと思います。最上階からは四方が見渡すことができ、南宮山、伊吹山が見えたので山の合間が天下分け目の関ヶ原なんだなと思い西側を眺めていました。
お城を出て天守南側に進むと辰巳櫓跡や滝がありました。大垣城と共通券で入館出来る郷土館も展示が充実していました。
下城後、おあむの松を眺めて👘おあむさん👵🏼今からお迎えに伺いますと気合を入れて地域限定巡りの輪中の城巡りにレンタサイクルで出陣🚲💨

2022年11月19日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
長沢城[大垣城  周辺城郭]



築城時期、築城主等は不明。
天文年間(1532〜1555)の頃、氏家常陸介直元が、しばらく在城していたとされ、その後、種田某が居城としたとされるが、詳細は不明。

城跡は、福乗寺辺りにあったとされるが、長沢城を検索すると、福乗寺の西側にある白髭神社の東側に案内されるので、福乗寺〜白髭神社にかけて城跡があったと思われる。

2022年11月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小野城[大垣城  周辺城郭]



築城時期は不明。
大垣城主 氏家常陸介直元(氏家卜全)の家臣である、横幕帯刀信兼の居城とされる。

専勝寺寺誌
当寺は、保元二年(1157)大野郡古橋(現巣南町)に叡山の僧了空 天台宗毘沙門堂 専勝寺を建立せしが創始なり。
十一代目了然 本願寺三世 覚如上人に帰依し、浄土真宗に改宗せり。
大永三年(1523)大洪水に見舞われ、安八郡小野に転住せり。
蓮如上人頃より、当地にても末寺建てる者多く、美濃国惣末寺支配頭を勤めし十ヶ寺の一つなり。
慶長五年(1600)本願寺十二世(東本願寺開基)教如上人、関ヶ原戦争に遭難せられ当寺に御避難あり、住待了栄御守護申せり。
慶長七・八年本願寺東西分派の折の労を多とし、慶長十九年西美濃触頭に任せらる。
其の後、明暦年間大垣城主 戸田氏信公より砦の一つ(旧小野城跡)を、黒印地として寄進せられ、ここに(現在地)寺坊を構成せり。
明治二十四年 濃尾震災にて伽藍皆無に帰し、現堂宇は大正二年再建せるものなり。
山門前の石碑碑文より。

専勝寺の北側、岐大バイパス建設の為に、寺の敷地が削られたらしいが、発掘調査されなかったのかな?
参詣者用駐車場あり。
 

2022年11月08日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
直江城[大垣城  周辺城郭]



直江(すぐえ)城の、築城時期は不明。
城主は、種田彦七郎とされ、今宿城主 種田助之丞正元の弟で、後に丸毛三郎兵衛と改めた。
三塚城主 種田信濃守兼久、今宿城主 種田助之丞正元と同じ、種田一族であり、氏家氏の旗本として仕え、戦功を立てたという。

城跡は、八幡宮の南側辺りにあったとされるが、詳細は不明。

2022年10月30日 RED副将軍
三塚城[大垣城  周辺城郭]



氏家卜全の家臣であった種田兼久の居城跡🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。大垣城城主で美濃三人衆のひとりである氏家卜全の家臣であった種田兼久の居城。
1571年、種田兼久は伊勢長島一向一揆の鎮圧のため氏家ト全とともに出陣しましたが、撤退の際に殿をつとめ、氏家ト全とともに討死。
その後、氏家ト全の嫡男の氏家直重が大垣城主となり、弟の氏家行広が三塚城主となりました。
その後、1590年の小田原征伐で氏家行広は戦功をあげて桑名へ加増移封となった際に三塚城は廃城となった様です。

見所
現在は、真徳寺の境内と幼稚園の敷地となり遺構は消失。
まこと幼稚園の脇に城跡碑が立っています

写真
城跡碑①
真徳寺の脇に流れる川は堀の名残り?②
真徳寺の山門と本堂③④
門扉には六条藤紋⑤ということは本願寺大谷派

2022年10月25日  蔵人頭 毛呂モロ就
大垣城



専用の駐車場はありません。ただし近くのコインパーキングは比較的安価で助かります。

2022年10月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
高札場跡[大垣城  寺社・史跡]



本町の北隅、札の辻と呼ばれた。この地に、幕府からの禁制や通達事項などを、板札に書いて揚げる高札場が設けられていた。各宿場間の里程測定の基準になり、移転はもとより文字が薄くなったときでも、許可なく墨入れなどはできなかった。明治六年(1873年)に廃止されたが、この高札場は昭和になっても、掲示板として使用されていたようである。
説明板より。

脇本陣跡北側、小橋口門跡東側から、東総門跡へ向かう途中に説明板があるのみです。

2022年10月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
大垣宿脇本陣跡[大垣城  寺社・史跡]



脇本陣は、本陣が補助的役割を果す休泊施設である。大垣宿では、本町大手北側にあって、もと関ヶ原の戦いで大垣城二の丸を守った七騎の一人 松井喜右衛門によって、創立されたといわれてきたが、成立は戸田家の大垣入封に随従した、上田家が勤めるようになった元禄頃である。
この脇本陣は、「本町本陣」とも呼ばれ、間口12間半余、奥行き16間半余で、坪数127坪半余もの格式ある建物であった。
説明板より。

大垣城東口大手門跡から、少し東側のポスト横に石碑と説明板があるのみです。

2022年10月11日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
飯沼慾斎邸跡[大垣城  寺社・史跡]



わが国、植物学の創始者 飯沼慾斎(1783〜1865)は、文化〜天保のころ蘭方医として、ここで医業に従事していた。
石碑裏面の碑文より。

この石碑の、北西に位置にある俵町薬木広場には、飯沼慾斎の銅像があるらしい。

大垣城柳口門跡から、京口門跡へ向かう途中の交差点近くに、石碑があるのみです。

2022年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
西総門跡(京口門跡)[大垣城  碑・説明板]



三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来から町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた、西方に位置する西総門は、京都方面にあることから京口門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。
この門を設け、総堀に橋を架けることによって、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには、二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。
説明板より。

大半の堀が埋められてしまったが、この辺りの水路の感じは、往時の姿を残していると思います。
近くに、大垣宿船町道標があり、更に南側に船町港跡、奥の細道むすびの地記念館があります。

2022年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
東総門跡[大垣城  碑・説明板]



大垣城東総門跡の石碑と、美濃路大垣宿散策マップがあるのみで、門についての説明板は無かったと思われる。

貴船神社由来
祭神 高龗神(伊弉諾大神の御子)
家津御子大神(素盞鳴尊)
高龗神は龍神にして、時に祈雨止雨の御神徳があり、古来より朝廷の尊信厚く、水神信仰として庶民の間に一大流行をなした、また男女の縁結び、疫病封じにも霊験あらたかなり。
家津御子大神は、熊野本宮の祭神にして、古く伝わる茅の輪伝説の悪疫鎮守の神であり、外に夫婦和合、家内安全、商売繁盛等の御神徳あらたかなり。
貴船、熊野の両社は、大垣藩主 戸田家が摂州 尼ヶ崎時代からの鎮守の神七社中の二社にして、明治四年本町が戸田公に下附を願い、同年九月、遮那院より東惣門櫓台へ二神を合祀して遷座をなし、爾来本町の氏神として崇敬なすものなり。
貴船神社由来より。

近くの貴船神社の由来に、「東総門の櫓台跡」とあるので、この辺りに東総門があったと思われる。

2022年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
小橋口門跡[大垣城  碑・説明板]



大垣城七口之門跡の一つで、大垣城の北東にあり、美濃路を東総門(名古屋口)から入ると、町家から六兵衛丸(袋丸)等へ通じる、総郭への最初の門です。
説明板より。

商店街となり遺構は残っていないが、説明板の裏の水路は、東口大手門跡まで続いているので、堀の名残りかもしれない。

2022年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
東口大手門跡(大手門跡)[大垣城  碑・説明板]



大垣城東口大手門跡(史跡 大手門跡)
大垣城七口之門の一つで、大垣城の東にあり、大垣城の正門でした。町家の本町に通じていました。現在、廣嶺神社が建てられており、神社の東の水路が、かつての堀です。氏家直元が城主の時、松之丸の地に住んでいた松井喜右衛門に替え地させ、この地の警護を命じています。
説明板より。

もう一枚の説明板には、〜境内東側の石垣は、往時のものといわれており〜と記されているので、大垣城の遺構かもしれない。

2022年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
南口大手門跡[大垣城  碑・説明板]



大垣城南口大手門跡
大垣城七口之門の一つで、大垣城の南にあり、町家の俵町に通じていました。氏家直元が元禄六年(1563)、松之丸まで大垣城を拡張したとき、松之丸に住んでいた沼波玄古に替え地をさせ、この地の警護を命じています。
説明板より。

説明板があるのみで、遺構などは残っていない。

2022年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
柳口門跡[大垣城  碑・説明板]



大垣城柳口門跡
大垣城七口之門の一つで、大垣城の南面にあり、美濃路に通じていました。現在、この内側にあった内柳口門が、大垣城の東門として移築され、往時を偲ばせています。

大垣城七口之門
大垣城は、南と東を大手(城の正面)、北と西を搦手(城の裏)とする要害堅固な城郭であり、総郭(堀に囲まれた内部)には、東口大手・南口大手・柳口・竹橋口・清水口・辰之口・小橋口の七つの門がありました。
説明板より。

大垣市役所の駐車場の南側に、説明板が残るのです。無料駐車場なので、此処から、他の門跡(遺構はありません)を巡って、大垣城に向かっても良いと思います。

2022年09月23日 千葉相模守早雲
大垣城



車の場合は、大垣城の北西、戊亥櫓のすぐそばにコインパーキングがあります。戊亥櫓の右手の城西広場には戸田氏鉄公像があります。定番だけど、自分にとってはオンリーワンの一枚を撮りましょう☝️

天守、戊亥櫓・丑寅櫓が再建されていますが、石垣が遺構として残っています。辰巳櫓付近の石垣は見どころだと思います。大垣城の曲輪入り口は七つ(東口大手、南口大手、柳口、竹橋口、清水口、辰ノ口、小橋口)あり七口之門と呼ばれ、そのうち柳口の内柳門が現在の東門として移築・整備されたそうです。

天守は廃城令による破却を免れ、一度は国宝になったものの、残念ながら戦争時に空襲で焼失しました。
NO MORE WAR

1.戸田氏鉄公像と天守。
2.西門。
3.天守。
4.辰巳櫓跡。
5.辰巳櫓石垣。
6.鉄門。脇の石垣が残っている。
7.東門。
8.戊亥櫓と天守。

2022年09月18日 釆女正佐吉。
大垣市郷土館[大垣城  関連施設]



大垣城西側の大垣市郷土館では現在「大垣の城館めぐり」が絶賛発売中です。
戦国時代に造られた城や屋敷、砦など約30の城館が紹介されています。
A5判オールカラー194ページで1000円でお値打ち。

地域限定城めぐり第十八弾と第二十弾のスポット対象のお城も一部掲載されておりますので、イベントで大垣城を攻略した際はぜひ!リア攻めして(大垣城と大垣市郷土館両方入館できて入館料はなんとたったの200円!!続100名城が実質100円て…良いのでしょうか?良くない!でもこの際いいんです!)隣の大垣市郷土館へもぜひ足をお運びいただければ幸いです。

以上「大垣の城館めぐり」発売中のお知らせでした。
限定1000部、急いでね。

2022年08月20日 【城郭道】たっきー
東門(柳口御門移築)[大垣城  遺構・復元物]



【東門の噺】
大垣城には総構えがあり、7つの虎口の門がありました。七口之門と呼ばれ、そのうちの一つである柳口門がこの東門で、天守が復元された際に本丸の東に移築されました(本来ここに門はない)。櫓門形式。下見板張がまた良い。

2022年07月18日 
大垣城



大垣城は水の城。歴史資料館にあるジオラマでよく分かると思います。大垣宿を取り込んだ城下町。祇園祭のような大垣祭があります。戦災がなければ、戦前の国宝が残ってるのでしょうが、リアルのまま再現されてると思います。展示物も綺麗に整理されていて勉強になりました。

2022年06月15日 佐々木刑部大輔久慶
大垣城



関ヶ原古戦場跡を見る為に関連する大垣城に行きました。先の大戦の戦火に焼かれる前の写真があり、国宝だった大垣城は凛々しい姿でした。

2022年05月07日 くまなみ
大垣城



駅前大通り商店街からすぐ
周辺に堀はあるが本来の堀はさらに広域にあるので歩き回ることをお薦めします

2022年05月05日 KMAX加賀守
大垣城

公園が隣にあり、大勢の子供達が遊んでました。お城が見える公園はいい環境ですね。

2022年03月20日 宇都宮参議則綱
大垣城

別名、巨鹿城もしくは麋城。続百名城。
駅から大通りを歩いてきて右折すると、天守が突然見えます。復元されたものですが立ち姿が美しく、戦災で焼ける前の姿は、郡上八幡城を復元する際にモデルとされたそうです。

内部は資料館になっており、藩主の戸田氏の治政や大垣の産業について知ることができます。近くには大垣市郷土館があり、観覧券がセットになっています。

2021年11月28日 miyax摂津守しろひげ
KOYOEN駐車場[大垣城  駐車場]

大垣城の北西角に有る駐車場です。30分100円でした。大垣城に一番近いと思います。

2021年10月16日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
三塚城[大垣城  周辺城郭]



築城時期は不明。
大垣城主 氏家ト全の家臣、種田信濃守兼久の居城とされる。
種田信濃守は、元亀二年(1571)伊勢長島の一向一揆攻めに、氏家ト全と共に出陣したが、撤退の際、殿戦しつつ石津郡太田郷安江村にて、氏家ト全と共に討死した。
その後、ト全の嫡子、氏家直重が大垣城主となり、その弟、氏家行広が三塚城主となった。
その後、行広は「小田原征伐」で功をあげ、伊勢桑名城へ、加増移封となり三塚城は、廃城になったと思われる。

三塚城は、真徳寺から、まこと幼稚園辺り一帯に築かれていたとされるが、宅地化が進み遺構等は残っていない。
幼稚園入口付近に、城址碑が立っているだけでも有り難い。

2021年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
加賀野城[大垣城  周辺城郭]

城跡は、八幡神社となっている。神社の周囲は、水路が巡っているが、遺構らしいものは、確認出来ない。水を汲みに来る方が多く、城址碑の前に路駐されている時もあります…。

大垣城周辺には、意外と多くの城跡がある。

2021年09月12日 釆女正佐吉。
大垣城



ライトアップされた大垣城。初めて見ると、ギョッとする色合いの赤。

これはもしや‼︎迫り来る関ケ原合戦後の大垣城落城と、大垣空襲による【旧国宝】大垣城焼失のイメージ=赤色ライトアップか⁉︎
と、一人頷き納得していましたが、大垣市HPで確認したところ「新型コロナウィルス感染拡大防止への意識を高めてもらうため、警戒色の赤色にライトアップ」との事。想像してた理由と違った…。違ったけど一瞬「趣味悪…不気味…」と思った赤色ライトアップも、「コレが大垣城のイメージカラーや‼︎」と思い込んで、改めて眺めるとカッコいいではないか‼︎

HPによると9月12日までのライトアップですが、緊急事態宣言延長により、もしかすると30日まで延長されるかもしれません。

東側からのライトアップも撮りたかったのは山々ですが、石段に数匹の蠢く物体が!何やらコオロギでは無い模様…。Gちゃん的な…。一応女子の私は元来た石段を駆け降り逃げ帰りました。

2021年08月26日 乱会
大垣城

わりと典型的な鉄筋コンクリート城です。内部に天守型ガイダンス施設があります。ガイダンス施設はやたらと映像機器が充実していて、死ねほどVTRが見られます。なんで?
城内にある戸田氏鉄の騎馬像はやたらとカッコ良く、戸田氏鉄像が入る画角で写真を撮ると、誰が撮ってもいい写真になります。

2021年06月04日 青コアラ美濃守
沢渡 石田三成陣跡[大垣城  寺社・史跡]



大垣観光協会発行のパンフレットによると、揖斐川右岸、幕末に建てられた常夜灯のあるこの辺りが、関ヶ原合戦の直前に石田三成が小西行長とともに大垣城から出て一時陣を敷いた場所とされています。
ここから長良川右岸の河渡に守備隊を派遣し東軍の進攻に備えるも敗退。さらに岐阜城も陥落したことで三成らは大垣城へと撤退。一説にはこの時、墨俣に布陣していた島津隊を置き去りにしたことで禍根を残し、関ヶ原本戦での島津隊の消極的参戦に繋がったとも言われています。

案内等はありません。説明板は常夜灯のものです。

2021年05月05日 yassann195
大垣城

国宝指定からの消失は残念です。関ヶ原の戦の前哨戦の舞台 戦略的にも重要だと言う事がわかります 領主の戸田家の当主の立派な銅像 歴史資料館の領主称賛には違和感を感じてます 合戦図は見応え有りますね

2021年02月26日 【城郭道】たっきー
おあむの松[大垣城  その他]

関ヶ原の戦いで大垣城籠城戦が行われた際、石田三成の家来山田去暦の娘おあむが、父母らと一緒にこの松から西堀のたらい舟へ乗り移って、城から逃れたと伝えられる。 ディアゴスティーニ日本の城61巻より

2021年02月18日 【城郭道】たっきー
西門[大垣城  関連施設]

1985年戸田氏入国350年を祝って復元した門。西門と呼ばれ、本来はこの地に門は無かったが櫓門形式で天守西に建つ。

2021年02月04日 在来線男右京進
大垣城

駐車場があまりありません。大手門の横にコインパーキングがありますが10台は停めれません。他にも小さめのコインパーキングがところどころにあります。

2020年12月13日 能登守さとみっくす
撮影スポット[大垣城  その他]

ここから見上げる大垣城天守はとても立派です。ここから撮影するといい写真が撮れると思います。

2020年11月07日 【城郭道】たっきー
天守[大垣城  遺構・復元物]



大垣城天守の受付にて一枚300円で購入することができます。日付は入っています。大垣城リア攻めの記念におすすめです。

2020年09月08日 (株)在五右近衛中将業平ちゃん
大垣城

上州高崎から岐阜城攻めのついでに攻城!街並みに埋もれ、路駐禁止、一方通行↓城門に天守は良きです。大人200円で天守内の資料が観覧ですます。関ヶ原前哨戦や追討戦、おあむ物語、城や城下町や武器が少ないながら満載です。天守からの眺めは×。戸田氏鉄像○。別に歴史資料館もあります。関ヶ原古戦場に行くなら是非とも立ち寄るべきだと思います。

2020年09月02日 とんかつおやじND
加賀野城[大垣城  周辺城郭]



加賀野城は、現在の加賀野八幡神社付近にあった、鎌倉時代~戦国時代の城である。1317年(文保元年)に後藤基直が築城したといわれ、代々後藤氏が城主を務める。後藤氏は代々美濃国守護土岐氏に仕えていた。1561年(永禄4年)、大垣城城主氏家直元(卜全)の家臣である三塚城城主種田信濃守に攻められ落城し、廃城される。

後藤氏出身の後藤祐乗は、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた後、刀装金具の彫刻の名人として活躍した。後藤祐乗の子孫は刀装金具や大判小判の鋳造にも関わり、明治時代初期まで活躍した。

加賀野八幡神社自噴井の水は無色透明のおいしい水として評判となり、遠方より水を汲みに来ている。1986年に「岐阜県の名水50選」に選定されている。2008年には環境省の「平成の名水百選」に選定された。
現在の自噴井は1988年(昭和63年)に掘られた井戸で、深さ136mの地下から毎分400ℓ、水温14℃の水が湧き出ている。
ウィキペディアより

お邪魔した日、早朝6:00位でしたが
十人以上の方々が水汲みにお見えでした
城跡の遺構らしきは見つかりませんでした

2020年08月22日 【城郭道】たっきー
杭瀬川古戦場跡[大垣城  寺社・史跡]

1600年(慶長5年)9月14日。島左近は西軍の士気を上げるために石田三成に東軍への奇襲を提言し、実行しました。
杭瀬川付近の森林がに明石全登隊を待機させ、残りの兵は苅田をさせて東軍に挑発しました。すると、中村一栄隊がこれに対し西軍に攻撃、有馬豊氏隊も参戦し、乱戦となりました。ある程度戦ったところで負けを装った島左近隊は退却。これにつられた東軍は島左近隊を追いかけると森林にいた明石全登隊に鉄砲などで攻撃され、一栄の家老、野一色義助が討死するなど40名ほどが討死し、西軍が勝利しました。
この次の日、関ヶ原で天下分け目の戦いが始まり、決着がつきました。
現在は実際の古戦場はどこかわかっていませんが、日吉神社のあたりに説明板が設置されています。


2020年08月08日 まいける能登守【桔梗】
大垣城



旧大垣城鉄門(移築)
中山道鵜沼宿町屋館の向かいに移築されてます。各務原市にお越しの際は見にいらしてください。

蘇原の安積家の門として使われてきたものをここに移築したものです。高麗門と呼ばれる型式の門で、正面には短冊状の筋鉄(すじがね)が張られています。このような種類の門を鉄門と呼びます。幅約5.6メートル、高さ約3.6メートルの大きさです。移築に伴う解体調査の結果、土台に墨書が発見され大垣城本丸の門であったことが分かりました。各務原市指定重要文化財です。

各務原市ホームページより

2020年08月06日 【城郭道】たっきー
天守[大垣城  遺構・復元物]



1588年に一柳直末によって、若しくは 1596年頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされました。
1873年に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年に天守等が国宝(旧国宝)に指定されました。しかし1945年7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失しました。その空襲はB 29爆撃機が90機飛来し、二万発を大垣市街に落としました。その結果、50人程が亡くなったとのことです。

天守は1959年に、乾櫓は1967年に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなさました。2008年8月、市民検討委員会が大垣市に木造再建案を提言しています。
2011年2月22日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了。この工事で戦後の再建時に改変された外観が史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修されました。(工事最終完了は3月4日)以後、天守は大垣市のシンボルとして今もそびえ建っています。



2020年08月01日 【城郭道】たっきー
鉄門跡[大垣城  遺構・復元物]

大垣城本丸の入り口として存在した鉄門。
今はありません。看板が建っています。

2020年07月15日 釆女正佐吉。
大垣城

大垣城では、〜2021年1月11日まで、関ケ原合戦420年特別展示「石田三成〜幻の大垣城決戦〜」特別展を開催しています。

石田三成の大垣城入城から関ケ原合戦までの両軍の動きと、関ケ原での西軍敗退後も続いた大垣城籠城戦、その大垣城籠城戦の様子を描いた「おあむ物語」について紹介しています。
小規模ながら、大垣城に入城する経緯や、周辺での小規模な争い、西軍敗北後の大垣城開城までの流れなども展示されています。


8月10日に入城した石田三成は、9月15日の関ケ原合戦までの約1ヶ月、ここ大垣城で各地の武将の動きや書状などを見聞きし、何を思い日々を過ごしたのか。
どこで何が間違ったのか。
西軍ファンならずとも、大垣城を後にする頃には、つい溜息一つ溢し、西の関ケ原方面へ目を向けることでしょう。

道を挟んで西の郷土館には大垣城の再現ジオラマが展示してあります。
今は見る影もない大垣城周辺ですが、往時は水堀に囲まれた立派な水の城だったことがよく分かります。

ちょっとおセンチになった後には、北西へ5分程歩いた先にある「すいぎょく園」のグリーンソフトで気分一新、涼を味わって下さい。大垣市民のソウルフードです。

くれぐれも、「明智十兵衛光秀伝説」「東西両軍激闘の軌跡」絡みで入城せずに、あポチッとな♪
「次行こ、次!!」って先へと急がないでーーー。

2020年05月17日 【城郭道】たっきー
トイレ[大垣城  トイレ]



大垣城東門付近にあります。城の外からこのトイレが見えます。

2020年05月16日 【城郭道】たっきー
トイレ[大垣城  トイレ]



大垣公園の遊具の方に入り口があります。かなり大きいです。

2020年02月29日 青き巨星弾正少弼かみ
大垣城

登城記念メダルを売っています。2種類で1枚400円です。表はどちらも大垣城の絵ですが城を見た角度が違います。

2019年04月30日 兵部大輔あきまろ
大垣城

もし車で訪れるのであれば専用駐車場はないので、道路挟んではす向かいの大垣丸ノ内駐車場がお薦めです!1時間2分停めて¥200でしたので安いと思います!

2019年04月30日 アッツ中務卿蝦夷守
大垣城

城から徒歩2分程の大垣市郷土館(大垣公園内に案内板あります。)では、大垣城の町割りの模型展示と大垣藩代々の藩主戸田氏の功績を紹介しています。こちらもあわせて拝観する事をオススメします。

2018年10月18日 但馬守せんとくん
大垣城

天守閣に入城は今時珍しく百円と安いです。
続百名城スタンプは天守閣に入ってすぐにあります。
まだスタンプが出来て半年なのに、擦れて写りが悪いのが残念です。
スタンプはその1個しかありませんでした。


2018年07月29日 中務卿一之介
大垣城

電車&徒歩で巡る方のために。
大垣駅南口から商店街をまっすぐ進み、橋(道の拡幅で分かりにくいですが)を渡って右に曲がると、突如城門が現れます。徒歩で7分ほどです。
本当に急に現れた感じだったので、思わず「おおっ」と声が出てしまいました(笑)

2017年09月15日 コナン遠江守
大垣城

御朱印(書き置き)を300円でいただくことができるようになりました。

2017年07月30日 織田上総介晃司
大垣城

大垣城の近くに駐車場は多いので駐車に困る事はないと思います。

平城で周りにビルがあるので遠望は無理です。また樹木も有り、天守の撮影ポイントは少ないです。

平成の改修で戦災前の姿に近づけたのはうれしい。

大垣城を基に木造で建てた郡上八幡城が残り大垣城が戦災で焼失したのは皮肉ともいえる。


2017年05月09日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
大垣城

駅から遠いけど歩きでも着きます。私は車で行きましたが。

小さい城ですが、展示は凝ってますよ。槍を持てたり、鉄砲持てたり。早い段階から模擬ですが、物に触れて映像を見れるを実践してる城でした。

2013年03月11日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
大垣城

大垣市内の中心にあり、駅からも近いのでアクセスはしやすいかと思います(*^o^*)
車なら日・祝日は公園西側(郷土資料館との間の道路)が公園側に寄せて駐車可能です。
自分が行った時には(朝8:20くらい)既に車は停めれず丸の内駐車場(徒歩5分くらい30分100円)の駐車場に停めました。
天守の入館料は100円とお安く郷土資料館と併せて買っても150円なんでリーズナブルです。
展示は主に関ヶ原合戦がメイン、藩主達縁の物などがちょっとで、城模型や藩主に縁品は天守ではなく郷土資料館にありますので併せて見学する事をオススメします(≧∇≦)

2010年07月23日 徳川内大臣源朝臣康武
大垣城

[武将像]戸田氏鉄像
城跡公園内に騎馬像が鎮座。

大垣城の周辺スポット情報

 戌亥櫓(遺構・復元物)

 丑寅櫓(遺構・復元物)

 東門(柳口御門移築)(遺構・復元物)

 辰巳櫓跡(遺構・復元物)

 鉄門跡(遺構・復元物)

 東埋門跡(遺構・復元物)

 水の手門跡(遺構・復元物)

 石垣に刻まれた刻印(遺構・復元物)

 天守(遺構・復元物)

 鉄砲多門櫓跡(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 石碑(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板・地図(碑・説明板)

 本丸城郭図(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 竹橋口門跡看板(碑・説明板)

 清水口門跡看板(碑・説明板)

 辰之口門跡(碑・説明板)

 東総門跡(碑・説明板)

 西総門跡(京口門跡)(碑・説明板)

 柳口門跡(碑・説明板)

 小橋口門跡(碑・説明板)

 東口大手門跡(大手門跡)(碑・説明板)

 南口大手門跡(碑・説明板)

 大垣藩校敬教堂跡(碑・説明板)

 旧水門跡(碑・説明板)

 加賀野城(周辺城郭)

 三塚城(周辺城郭)

 小野城(周辺城郭)

 楽田城(周辺城郭)

 今宿城(周辺城郭)

 長沢城(周辺城郭)

 直江城(周辺城郭)

 釜笛城(周辺城郭)

 野口城(周辺城郭)

 上笠城(周辺城郭)

 青柳城(周辺城郭)

 若森城(周辺城郭)

 杭瀬川古戦場跡(寺社・史跡)

 沢渡 石田三成陣跡(寺社・史跡)

 大垣大神宮(寺社・史跡)

 濃飛護国神社(寺社・史跡)

 大垣八幡神社(寺社・史跡)

 大垣宿本陣跡(寺社・史跡)

 大垣宿脇本陣跡(寺社・史跡)

 飯沼慾斎邸跡(寺社・史跡)

 高札場跡(寺社・史跡)

 円通寺(寺社・史跡)

 芭蕉木因遺跡(寺社・史跡)

 大垣城受付(御城印)

 大垣城天守内(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 KOYOEN駐車場(駐車場)

 奥の細道むすびの地 第二駐車場(駐車場)

 奥の細道結びの地記念館(関連施設)

 西門(関連施設)

 大垣公園(関連施設)

 大垣城ホール(関連施設)

 大垣市郷土館(関連施設)

 おあむの松(その他)

 戸田氏鉄公銅像(その他)

 撮影スポット(その他)

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