楽田城
楽田城([大垣城 周辺城郭])
大垣城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「楽田城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
楽田城の口コミ情報
2026年04月30日 猫耳尾張守メイド萌
永享(1429〜40)嘉吉(1440〜43)の頃、その昔美濃国石津郡高須郷の地頭職であった、氏家重国の末裔である氏家内膳盛国が居城していたが、盛国は嘉吉三年(1443)七月十一日に没したので、その子志摩守泰国が、父の跡を継ぎ城主となった。
泰国の後は、彼の孫で石津郡牧田の城主 氏家行隆の子、常陸介直元(入道卜全)が、楽田城に居を構えていたが、永禄二年(又は、三年とも四年ともいい不確実である)大垣城主となり移り住んだ。
天正三年(1575)氏家卜全の子、氏家左京亮直重が楽田城主となり、同八年(1580)に大垣城主となり、移り住んだと伝えられる。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の時は、西軍の島津隊が一時、楽田城跡に布陣したといわれます。
楽田城は、八幡神社付近にあったとされ、八幡神社から宗休寺周辺が、城跡と推定されている。
2026年04月29日 猫耳尾張守メイド萌
大垣東部の城館の多くは、氏家氏に関連した一族のものである。楽田城には、氏家直元(卜全)が入り、その後大垣城に移っている。また、周辺部の三塚城、今宿城、直江城は、いずれも氏家氏の旗下にある種田一族が居住した。小野城も氏家旗下の横幕氏である。
ただ、これらの城館は、元亀二年(1571)の長島の戦いにより、氏家直元と共に種田信濃守や種田助之丞が討死して、その勢力は衰えた。
楽田城の推定地は、宗休寺の周辺と考えられているが、周囲より目立つて高い場所は無い。
過去の工事において、付近から五輪塔が多数出土したという言う伝えがあるが、楽田城との関係は明らかではない。
創立五十周年記念
大垣の城館めぐりより。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の時、西軍の島津隊が一時、楽田城跡に布陣していたと言われています。
楽田城推定地の一つ、宗休寺周辺の道路は狭いが駐車場がある。









