福島城(ふくしまじょう)
福島城の基本情報
通称・別名
- 木曽福島城、向城
所在地
- 長野県木曽郡木曽町福島
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 木曽義康
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 木曽氏
廃城年
- 慶長3年(1598)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- 町史跡(福島城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
殿島城(長野県伊那市)[24.8km]
福与城(長野県上伊那郡)[28.0km]
赤須城(長野県駒ヶ根市)[28.0km]
飯島陣屋(長野県上伊那郡)[28.6km]
上ノ平城(長野県上伊那郡)[28.9km]
妻籠城(長野県木曽郡)[31.4km]
高遠城(長野県伊那市)[33.3km]
船山城(長野県下伊那郡)[33.4km]
武居城(長野県東筑摩郡)[33.6km]
大島城(長野県下伊那郡)[37.1km]
福島城の解説文
[引用元:Wikipedia「福島城」の項目]
福島城(ふくしまじょう)は、信濃国筑摩郡(のち木曽郡)福島[1](現・長野県木曽郡木曽町)にあった日本の城(山城)。他の地域の同名の城との混同を避けるため、「木曾福島城」とも呼ばれる。
概要
戦国時代、木曾義康により築かれた。平時は、上の段城を館とし、山城を詰の城とした。木曾義昌も居城とした。
本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し(天正壬午の乱)、義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曾福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。 岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった将達に森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。
乱に際して義昌は徳川家康に通じて盟約を結び、安曇・筑摩・木曾の安堵を得たが、家康と豊臣秀吉が対立すると盟約を反故にし秀吉に恭順した。このため家康は天正12年(1584年)9月、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを差し向けて妻籠城の義昌を攻めたが、撃退されている。これに先立つ同年8月、小笠原貞慶が贄川又兵衛を調略して木曾福島へ侵入し、義昌は興禅寺に逃れた。
その後、義昌は秀吉の麾下となった家康とともに関東に移封され、城は廃城となった。
遺構
- 土塁、堀、石垣
交通
- JR中央本線・木曽福島駅から40分
参考文献
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
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福島城の口コミ情報
2022年04月04日 ほりーないと
徳音寺[福島城 寺社・史跡]
徳音寺は木曽義仲の菩提寺です。義仲、義仲の母小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平のお墓があります。昭和50年に義仲像が奉納されています。
「巴淵(木曽川)」に棲む竜神が巴御前に神通力を与えたという伝説があります。徳音寺には、巴御前が馬に乗って駆け回り、川(木曽川?)を飛び越えた時に馬の蹄が石にめり込んでくぼみができたという「巴の貫き石」があります。
義仲館(資料館)のすぐ近くなので、セットで訪ねてみて下さい。
2022年04月03日 ほりーないと
義仲館[福島城 その他]
木曽義仲の資料館(有料)です。1992年に建設され、2021年7月にリニューアルオープンしました。
義仲館がある木曽町には、木曽義仲居館(旗挙八幡宮)、義仲の義父の中原兼遠居館などがあります。兼遠の娘は巴御前です。木曽町は幼なじみの義仲と巴御前が育った地です。
義仲・巴にまつわる一次史料は限られていますので、600以上の伝承地があるそうです。リニューアル後の義仲館にはパネルタッチの伝承地マップがあります。義仲伝絵巻や巴御前伝説の展示作品があり、すべて撮影OKです。
木曽谷の伝承地については受付の方が丁寧に教えてくれますので、伝承地巡りの前にぜひ行ってみて下さい。
【木曽馬】
義仲軍の時代から武士の馬として使用され、義仲館にその活躍の展示作品があります。義仲館から車で30分程の開田高原に「木曽の里」があり乗馬体験ができます。木曽馬は働く馬なので重いものを乗せて歩く事が大切だそうです。乗馬体験そのものが木曽馬の保存活動に繋がるとのことです。
2022年03月31日 ほりーないと
手習天神[福島城 寺社・史跡]
木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲や子供たちの為に建てた神社です。近くには中原兼遠居館や義仲元服の松などがあります。(向かいの公民館の駐車場をお借りできます)
目の前の道は旧中山道で、福島宿と宮ノ越宿の間に位置します。訪ねた日には旧中山道の歩き旅をしている方がいました。
国道19号線沿いの相撲場から木曽川方面に少し入った所です。木曽路の旅で少し寄り道…オススメです。
2022年03月31日 ほりーないと
中原兼遠居館[福島城 周辺城郭]
木曽義仲の養父の中原兼遠の屋敷が、北に正沢川、西に木曽川、南に洞ヶ川によって囲まれた段丘の先端部にあったと伝承されています。田畑として耕作されていて屋敷地としての遺構は全く見ることはできませんが、「義仲元服の松」「兼遠塚の碑」があります。
吾妻鏡には「中三権守兼遠は義仲を抱えて信濃国木曽へ」とあり、義仲は十三歳の元服をむかえるまで過ごしたといいます。兼遠の子である樋口次郎兼光と今井四郎兼平はともに義仲の忠臣となりました。兼遠の娘は巴御前です。
中原兼遠居館へは義仲の学問所とされる手習天神を目指して下さい。向かいに公民館があり駐車場をお借りできます。手習天神から看板に従って旧中山道を数百メートル歩き、木曽川方面へ少し進み、JR線を橋で渡ると到着します。
義仲と巴御前が共に育った木曽谷には色んな伝承が残っています。旧中山道をぶら~りとトライブや散歩しながら訪ねる旅もオススメです。
2022年03月22日 ほりーないと
福島宿[福島城 その他]
木曽福島は中山道37番目の宿場です。昭和2年の大火によってそのほとんどが焼失し、唯一免れた上の段地区には宿場町の面影(写真①)が残っています。上の段の中ほどにある蔵にはさまれた「寺門前小路」(写真②)の先に「大通寺」があります。
昭和時代の家並みになりますが、木曽川沿いの「崖家づくり」(写真③)は迫力があります。短時間で散策できますので、木曽福島のぶらり歩きもオススメです。
【大通寺】
武田信玄の三女・真理姫が嫁いだ木曽義昌の居城(上之段城の館)があった場所です。境内には真理姫の供養塔があります。
【崖家づくり】
木曽川沿いのわずかな土地を利用し、崖に沿うように建築された家並みです。その横の親水公園には足湯があります。
【木曽川と中乗りさん】
木曽節の歌詞に登場する「中乗りさん」は木曽の材木を筏に組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を舳乗り(へのり)、後ろを艫乗り(とものり)、真ん中を中乗りと言います。
城山(福島城)は明治4年に伊勢神宮の御用材等として1万本が伐採されたそうです。
2022年03月20日 しげしげ主税頭信繁
福島城
対向車が来たらアウトの檄狭で落石ゴロゴロの林道を突き進み登城口の所まで突撃すると2台程が停められるスペースがあります。
登城口から山城にしては歩きやすい道幅で緩やかな登り坂をゆっくりと登る事約20分程で主郭まで行けました。
帰宅して車の下が凹んでる事が判明しました、出来れば下の方に車は停めて下から歩きのがオススメです。
2022年03月16日 ほりーないと
興禅寺[福島城 寺社・史跡]
永享6年(1434年)、木曽家十二代信道が木曽義仲の菩提を弔うために創建しました。裏にある城山から義仲の御影観音堂や足利時代の建造物の勅使門なども移してきたといわれています。木曽家代々、福島関所代官山村家代々の菩提寺です。義仲お手植時雨桜(二代目)、日本一広い石庭(有料)などがあります。
観光案内所で教えてもらった福島城の登城コースの駐車場は興禅寺の隣にある御料館(旧帝室林野局)です。私事ですが、天候などのタイミングが合わず福島城をリア攻めしていません。興禅寺の裏が城山です。いつかリア攻めしたいです。
【勅使門】
(興禅寺パンフレットより)
元特別保護建造物(国宝)であったが、昭和2年火災にあい、昭和29年に復元した。
勅使門と称するのは、治承4年(1180年)源行家が以仁王の勅使として、平家追討の令旨を、この門を通り観音堂において義仲に伝えたからである。
2022年03月13日 ほりーないと
木曽義仲居館[福島城 周辺城郭]
木曽町日義の国道19号近く、木曽川の左岸段丘上「旗挙八幡宮」の一帯に木曽義仲の居館があったと伝わっています。木曽川から比高23m、実際に見上げると高さをしっかり感じます。館跡の範囲・境界等は全く不明です。
木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形である木曽谷は隠れ住むには良い場所であったと思います。古代官道の東山道は伊那谷を通るので木曽谷を通りません。北と南の出入り口を守ると木曽谷全体が守られます。
【旗挙八幡宮】
居館をかまえた際に八幡宮を祭ったと伝えられています。義仲27歳の治承4年(1180年)、この地で平家打倒の旗挙をして、以降「旗挙八幡宮」と呼ばれています。
御神木の大欅は樹齢800年、義仲の元服を祝って植栽されたといわれています。近年樹勢が衰え、そのままの姿をとどめておくことが困難となり、現在の姿にかわることとなりました。初代大欅の子として生育された二代目大欅(樹齢150年)が後継御神木として、義仲を後世に伝え、地域を守っています。
2022年02月07日 ほりーないと
福島関所[福島城 寺社・史跡]
中山道のほぼ中間点に儲けられた関所。50箇所にのぼる関所のなかでも、東海道の箱根・新居や中山道の碓氷などと並ぶ日本四大関所の一つでした。木曽川の断崖に望む険しく狭い場所にあります。
昭和50年に発掘調査が行われ、関所の礎石や桝形や溝の跡が見つかり、史跡公園として保存されています。
関所の建物を模した福島関所資料館(有料)には関所の道具や武具、証文などが展示されています。
「入り鉄砲に出女」
本当に関所破りはなかったのでしょうか…
江戸時代に女性が旅するには「女手形」が必要でした。簡単に発行できず、有効期間がとても短いそうです。
女性たちは善光寺を目指して旅をしました。どのように関所を通過したのでしょうか…
駒場城のリアマップ「大平宿」に口コミ投稿しましたので、良かったら読んで下さい。
2021年12月13日 青コアラ美濃守
上之段城[福島城 周辺城郭]
小丸山城築城からおよそ100年後に、木曽氏17代義在によって築かれ、19代義昌の頃まで木曽氏の居城として使われます。
木曽清峰高校の第2グラウンドが二の曲輪、その南側の小山が主郭とされていますが、二の曲輪は完全に消滅、主郭もグラウンド造成で削られているようです。一応東側の鳥居がある辺りから登ってみましたが、痩せ尾根があるのみで特に見るべき遺構はありませんでした。説明板によると鳥居のある辺りが堀切の跡っぽいです。
説明板はグラウンドの南側の道沿いにあります。駐車場はすぐ近くの関山公園が利用できます。
2021年11月17日 青コアラ美濃守
小丸山城[福島城 周辺城郭]
木曽福島に残る山城で最も古い城で、木曽義仲から数えて11代親豊が応永年間に築いたもの。
木曽清峰高校の北にあるNHK中継所が主郭(写真1)、高校のグラウンドの辺りが二の曲輪の跡と言われています。主郭は立ち入り禁止なので遺構があるかはわかりませんでした。主郭の方が少し高くなっていますが、二の曲輪の方は完全に消滅している為、実際にどれほどの高低差があったかは不明です。
グラウンド側に説明板が建っています。
駐車場はありません。道が狭いので路駐も不可ですが、説明板を読んで写真を撮るだけなので、NHK中継所の門の前のスペースに一時的に停めさせていただきました。
2019年06月01日 しげぽん
福島城
街の中心にある駐車場に車を停めて登城します。興禅寺の脇の道をあがり1200mで、国有林の入り口に着きます。そこから800mで福島城までいけます。林道も整備されてるので歩きやすいと思います