福島城(ふくしまじょう)
福島城の基本情報
通称・別名
- 木曽福島城、向城
所在地
- 長野県木曽郡木曽町福島
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 木曽義康
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 木曽氏
廃城年
- 慶長3年(1598)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- 町史跡(福島城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
殿島城(長野県伊那市)[24.8km]
福与城(長野県上伊那郡)[28.0km]
赤須城(長野県駒ヶ根市)[28.0km]
飯島陣屋(長野県上伊那郡)[28.6km]
上ノ平城(長野県上伊那郡)[28.9km]
妻籠城(長野県木曽郡)[31.4km]
高遠城(長野県伊那市)[33.3km]
船山城(長野県下伊那郡)[33.4km]
武居城(長野県東筑摩郡)[33.6km]
大島城(長野県下伊那郡)[37.1km]
福島城の解説文
[引用元:Wikipedia「福島城」の項目]
福島城(ふくしまじょう)は、信濃国筑摩郡(のち木曽郡)福島[1](現・長野県木曽郡木曽町)にあった日本の城(山城)。他の地域の同名の城との混同を避けるため、「木曾福島城」とも呼ばれる。
概要
戦国時代、木曾義康により築かれた。平時は、上の段城を館とし、山城を詰の城とした。木曾義昌も居城とした。
本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し(天正壬午の乱)、義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曾福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束された。岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった将達に森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。
乱に際して義昌は徳川家康に通じて盟約を結び、安曇・筑摩・木曾の安堵を得たが、家康と豊臣秀吉が対立すると盟約を反故にし秀吉に恭順した。このため家康は天正12年(1584年)9月、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを差し向けて妻籠城の義昌を攻めたが、撃退されている。これに先立つ同年8月、小笠原貞慶が贄川又兵衛を調略して木曾福島へ侵入し、義昌は興禅寺に逃れた。
その後、義昌は秀吉の麾下となった家康とともに関東に移封され、城は廃城となった。
遺構
- 土塁、堀、石垣
交通
- JR中央本線・木曽福島駅から40分
参考文献
- 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年
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福島城の口コミ情報
2024年08月25日 弾正忠Snow
林道入り口[福島城 その他]
代官屋敷と小学校の境目を進むと入り口です。
2023年12月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
中原兼遠居館[福島城 周辺城郭]
さて、今回の口コミはおいらの推し武将、木曽義仲様の乳母夫にして育ての親、中原兼遠の物件、義仲様は恩人の居するこの地で幼少期を逞しくお過ごしになられていた訳だ。正に義仲様の聖地の一つ、感動で胸が張り裂けそうだったが、それよりも腹ぺこだった事の方がよく思い出される。
中原兼遠居館は福島城の東北東約3.0km、木曽川東岸(左岸)、正沢川南岸(左岸)、洞ヶ川北岸(右岸)、三川に囲われた標高約818mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。居館地の東側を南北にJR中央西線が掘り割って通っているが、現在でも訪ねるのに少し困ったりもする要害地である。
行き方はGoogleマップに「中原兼遠屋敷跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。詳細は先人の城友さんの口コミを参照するとよい。簡単に行けそうな気もするんだけど、該地へはJR中央西線の軌道敷を跨ぐ鉄橋を渡る以外に道は無いので注意っす。誰でも平場の居館跡を訪ねるのに直登とかしたくないでしょ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは中原兼遠です。但し、そうではない可能性も含まれる。信濃国の目代であったと推測される兼遠が国府から遠く離れた該地に居する事が不自然だからだ。
中原兼遠の出自は不明、推測出来るものを掘り起こそうとすると諸説あって果てしない。「本朝世紀」には、「十一月十六日大原野祭右小史中原兼遠参行之」、「仝十九日今夕新嘗祭右小史中原兼遠等参仕」、「同十二月廿三日國忌也右小史中原兼遠一人参仕」等と右小史である兼遠の名が書かれた条が幾つか見られる。「吾妻鑑」、治承四年(西暦1180年)九月七日の条には、「于時義仲為三歳嬰児乳母夫中三権主兼遠懐之遁下于信濃伝々」とあり、久寿二年(西暦1155年)、権守であった乳母夫、中三兼遠が三歳の義仲(駒王丸)を懐に抱いて信濃国に逃れ匿った旨が書かれている。中央官人としての活動が見られる他、後には地方官人として転出した兼遠は朝廷からも知られた存在である。兼遠が何処の国の権守であったのかは不明だが、信濃国の目代であったとする説が有力だ。
「中三」とも呼ばれる訳だが、同時代には木曾中太(保元の乱において源義朝、為朝に従った。「中太」は中原氏の長男を意味する。)、彌中太があって、兼遠とは兄弟であったと推測されている。二人の兄は当然木曽に住していたと思われるのだが、兼遠自身は武蔵国との繋がりが深い人物でもある。即ち、駒王丸を託した齋藤別当実盛は武蔵国長井庄に住した人物、兼遠の人柄をよく知る者であったろう。又、兼遠の妻は武蔵国、兒玉氏の息女であり、武蔵国にあって既に駒王丸の乳母であったとも推測される。兼遠の信濃国の目代説と矛盾が生じるが、信濃国に逃れる(推測として兄を頼ったとは言えないんだろうか。)以前は武蔵国の目代等であったとすれば疑問は解消される。
居館の現況は水田、耕作地、耕作放棄地、空地等となっていて見るべきものは特に無い。推定居館敷地内には、「兼遠塚の碑」、「義仲元服の松」が残る。碑は石碑であり、かつて何らかの塚が此処に存在していたて事を示すだけのものなんだろうか。塚の中身を知りたいところだが、少なくとも現在は塚としての土盛は見られない。松の方は三代目…だが、決して疑ってはならない。伝言で疑問をぶつけてもらっても一向に構わないが忠告しておく。伝言する方は義仲様の狂信的ファンクラブ、「朝日将軍」の右翼的下部組織にして闇の実行部隊、「旭」が考案した再教育プログラム、「火牛の計」の牛役として倶利伽羅峠を走り回される事になるのを覚悟しておくように。頭髪が焼け焦げた状態で己れの不明を詫びる事になるであろう。
…木曽義仲の「仲」は「中原」の「人」を意味するんだろうか。通字の「義」に+してこの字を選んだのは烏帽子親の影響と言えるのかもしれない。義仲の旗挙げを見送った兼遠は治承五年(西暦1181年)が没年と推測される。その子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平は義仲の腹心となり四天王の内である。義仲伝承、伝説を彩る巴御前は兼遠の息女とされ、自身も数多くの伝承、伝説を生み出した。真偽はともかく、それに比定される程の人物があった事は間違い無い事だと考える。
※兼遠は史料がそれなりに探し出せる人物だが、纏め上げるのに苦労する人物、同名異人が存在するようにも思える。
※写真①は近景、てっきり水路橋から行けるもんだと思ってた。
※写真③の鉄橋を渡る以外に道は無い。
※写真⑤には「義仲元服の松」が見える。根本には居館の説明板が立つ。
※写真⑧は「兼遠塚の碑」、矢竹に埋もれている。
※同志の城友さん、スポット登録ありがちょです。
2023年12月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽義仲居館[福島城 周辺城郭]
さて、今回の口コミはおいらの推し武将、木曽義仲様がお住まいになられていた物件、もう思わず地面に寝転がってごろごろして義仲様への尊崇の念を表現したいところだがやらないです。ただの阿保でしょ…汚れるだけじゃないの…
木曽義仲居館は福島城の北東約7.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約883mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。但し、居館の正確な位置は不明であり、旗挙げ伝承が残る旗挙八幡宮の周辺一帯が概ねの該地と推測されている。
行き方はGoogleマップに「木曽義仲公館跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。おいらぐらいの義仲様ファンになるとナビ設定しなくても何かに導かれるように辿り着ける。ちなみに義仲様の居館跡は別に長野県上田市御嶽堂にも存在するので注意っす。こっちの方はインスタにはアップしてある。既に今年だけで新規口コミストックがたぶん350件位+されているので城めぐで口コミするとしたら数年先の話になると思う。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽義仲です。源義仲て言うべきなんだろうか。義仲様の生涯については、「吾妻鑑」、「源平盛衰記」、「玉葉」、「平家物語」等を誦じれるまで読んで下さい。一応説明しておくと、清和源氏の一流、河内源氏、源為義の二男、東宮帯刀先生、義賢の二男が駒王丸、父である義賢が甥である鎌倉悪源太義平に討たれた際、長井齋藤別当実盛に庇護され中原兼遠に託された。即ち、後の義仲である。
義仲は一次史料に恵まれず、現存する自筆花押の書かれた書状は唯一通のみである。「市河文書」中に残る、治承四年(西暦1180年)十一月十三日付、藤原(中野)資弘宛源義仲下文がそれで、「下 資弘所知等 可早如旧令安堵事 右、件所、如元可致沙汰之状如件、」とあり、当時、無位無官の義仲が北信濃の国人領主である中野資弘に所領安堵を行っている事が判る。書状の年月日は「市原合戦(義仲は北信濃の源氏方勢力に合力している。)」の後、上野国から信濃国に戻り、小県郡依田庄において挙兵した時期と時を同じくしており、同様の書状は当時連発されたと考えるが、後には鎌倉を憚ってその多くは焼かれたものと推測する。大したバックグラウンドを持たない義仲の挙兵は信濃武士に支えられたものであり、信濃の源氏方勢力にとっては一大ムーブメントでもあった。
居館の現況は…そもそも論で正確な位置は不明なのでこの辺りて感じ…現在はその殆どが耕作地、耕作放棄地、空地等となっており見るべきものは特に無い。中原氏に養育された義仲元服後の居館地て事になるんだろう。思春期を迎えると兄妹とは別の部屋を求めたりするもんだ。周辺地域には義仲様や巴御前の伝承、伝説地が数多く存在するが、義仲様関連物件を丁寧に廻るかずりは例え隣接地であっても個別に口コミしようとする狂った考えを胸に抱いている。
前述の駒王丸の庇護者となった長井齋藤別当実盛だけど、悲しい事に後には老齢なるも義仲追討を指図され、寿永二年(西暦1183年)六月一日、「篠原の戦い」において最期を迎える。即ち、御味方総崩れの最中、覚悟を決めて殿軍となりて奮戦するも義仲の郎党、手塚太郎光盛が為に討ち取られた。実盛の討死は「平家物語」の巻第七、「実盛最期」として一章を成すが、義仲様の心中と相まって涙無しには読めないや。能の修羅物、三修羅の一つ、世阿弥の傑作、「実盛」は正にこの事を演じる。義仲様の生涯にはドラマがあるなぁ…
※生年が正しければ元服から27歳までの居館地て事になる。
※義仲の生涯は最後の4年間に全振りしている。それ以前の事跡は謎でしかない。
※木曽郡の各町村誌の歴史編は義仲抜きにしては話が進まないのだが、何れも二次史料を元にせざるを得ず精彩を欠く。選ぶなら「村誌 王滝」が読み易くて最も良い(内容的にはどの町村誌も似たり寄ったりだ。)。
※ちなみに「平家物語」は義仲様のパートしか読んだ事が無い。能の「実盛」はようつべで見ようとしたが冒頭で挫折…
※同志の城友さん、スポット登録ありがちょです。
2023年11月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
桟城[福島城 周辺城郭]
以前からそうなんだけど、まともな紹介例が存在しない物件に挑戦する事がおいらの使命だと勝手に考えてる。あらゆる困難を克服して城域に辿り着いた時の達成感は何物にも替え難い。これに関しては城めぐら〜てよりはむしろ登山家のそれに近い。何でそんな所に登るのかって?「そこに山城があるからさ〜」
桟城は福島城の南方約5.0km、木曽川東岸(左岸)、標高1274.4mの山塊山頂から南南西へ伸びる尾根中段、標高980mの尾根ピーク上平場を中心に立地する狼煙台か物見台の類いです。西麓の国道19号線からの比高は255m位でしょか。名称のとおり中山道最大の難所の一つ、「木曽の桟」後背の山稜に位置し、城域の北方には木曽古道に至る間道が通っていたと推測される。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…誰も行かないと思うんで詳細は割愛しやす。
ネットを検索すれば理解出来ると思うんだけど、木曽谷の城砦は本当に未開だ。兎に角、取り付きさえ判らない…木曽谷のお山に入るのには慎重を要する。谷筋から見上げる山塊は崖地に近い急峻さ、木曽川に流れ込む大小河川が障壁となって進退極まる事も十分考えられる。「ちょとこの辺りから直登してみよかな…」等の様子見が簡単には出来ない(やってみると徒労に終わる。)のだ。
今回は国道19号線脇にお山に入るスリットを見付けたので激藪をかき分けて直登を試みる…頑張ったけど無理っすわ…足を踏み外したら本当に死ぬわ…大体にして急傾斜地崩落危険区域じゃねーか。城域には送電線の鉄塔が建っているのでこの保安道に通じるものかと安易に考えてたけど全くの見当違い。仕方ないので距離はあるけど城域西方の沢沿いを遡上し北東へ巻きながら該地を目指す事にした。
西麓の沢の手前には耕作地が広がり畑の主が作業中、目的と目標を話すと、「そこまでは行った事無いけど、自分とこの山を登って行けば頂上辺りで保安道にぶつかるからそれを辿れば大丈夫だろ…」とのお答え。結果としては城域までしっかりとした道がちゃんと付いていたし巻く必要も殆どなかった。但し、距離的には結構あるので苦労する事には変わりはない。畑の主は、「熊が山を下りて来る事は無いけど、頂上付近には幾つも足跡があるんで気ぃ付けてな。」と忘れかけてた注意も促してくれた。
お城の現況は…殆ど地山、縄張図を見ると主郭と主郭から派生する三方の尾根上に城域が展開、主郭からの南方尾根と南西尾根の末端部には何れも送電線の鉄塔が建っている。両尾根鞍部の緩斜面上には不明瞭ながらも段の付いた平場が確認出来る他、湧水が今も流れ出ている。それらしい地形の全てを人工の跡と判断するのは極めて困難、木曽氏の狼煙台ネットワークの一つなんだろうけど、これを城跡とするのかさえ少し微妙な感じだ。
…堀切と土橋が残るとされる主郭からの北東尾根を下るとびっくり仰天、物凄〜く立派な堀切と物凄〜く明瞭な土橋が確かに残っている。殆ど地山の縄張に違和感でしかない。おいらは後世のものと仮に判断するけど、土橋はともかく、それじゃ何の為に堀切を掘ったのかと問われると頭を抱えてしまう。堀切に道筋は付いていないので尾根の乗り越しでもないし、そもそも論で土橋に行く手を塞がれてしまう。又、土橋の先の山道は地蔵が残る山尾根の乗り越しに通じているらしいが確かめるにはかなりの勇気が必要そうだ。
…下山すると畑へ通じる道筋の藪が綺麗に刈られている。「ついでだったから綺麗にしといてやったぞ〜」と草刈り機の整備をしながら畑の主が笑顔で待っていてくれた。話す事1時間余り、お返しにお城の写真を見せると、「こんな風になってんだ〜全然知らなかったよ、ありがとう。」と喜んでくれた。こちらこそ本当にありがとう。「また来てくれよ〜」と肩を叩かれ見送りされる。おいらは大した事を返せなかった。おいらは今日一日このお爺さんの息子だった筈だ。一期一会の交流に胸が締め付けられる。
※写真は①、②登城中の光景、島崎藤村は代表作である「夜明け前」で、「木曾路はすべて山の中である。」と書いたけど本当だ。山塊中段を通る木曽古道はこんな感じだったろう。ちなみにこの小説を読んだ事は一度も無い。
2023年11月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
義仲館[福島城 その他]
「夜明け始めるよ♪朝日は昇る♪」…
義仲館は福島城の北東約7.1km、木曽川西岸(右岸)、標高約852mの河岸台地上平場に立地する史料館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。義仲様ファンなら目を瞑っても辿り着ける筈…但し、やらないで下さい。ちなみに義仲館は長野県木曽郡木曽町日義に建つ。新設合併前は日義村、朝日将軍、義仲色で染め上げられた村名だった。そして正に義仲の居館地だった事が当地に建つ理由に他ならない。
義仲館は平成四年(西暦1992年)に開館、令和三年(西暦2021年)にリニューアルオープン、郷土の英雄である義仲様を称え敬う史料館、義仲様ファンなら3回は訪ねて当たり前の施設なのれすっ!義仲愛と巴愛に溢れまくった展示内容!両人への後世のネガティブな評価等を全く受け入れる気が無い程の愛に満ち溢れているっ!
…史料館とは便宜上分類したものの…ありっ?史料が一つも無いや…義仲様や巴御前への想いは理解出来るんだけど、史料館としては正直物足りない。但し、義仲館が決して悪い訳ではなく、これは当人達の事情によるものだ。
源義仲は河内源氏、清和源氏為義流、東宮帯刀先生、源義賢(頼朝の異母兄、源鎌倉悪源太義平にアプリの登録城でもある武蔵国比企郡、大蔵館を襲われ討たれている。)の二男、源頼朝、義経等とは従兄弟に当たる。寿永三年(西暦1184年)一月十五日、征東大将軍にまで登り詰めたが、その六日後には粟津で敗死している。その興隆から滅亡までが一瞬である事から一次史料に恵まれず、「吾妻鑑」、「玉葉」、「源平盛衰記」、「平家物語」等に事跡の大半を頼っている。
つまりは確実な史料が無いに等しいのだ。旗挙げ以前の義仲は文書が必要な人間ではないし、中央の歴史から抹殺されていた人物でもある。上記の書を展示物のメインに据えても仕方ない。義仲館の展示物のあり方については関係者も大いに悩んだところだと思う。
秀逸なのは全国各地に数多く残る義仲関連の伝承、伝説地を纏めた資料群だ。総計約600箇所に及ぶが、それ程までに追慕された人物であった事を理解出来るし、何よりも観光地として個別に紹介される事が当たり前のこれ等物件を丁寧に地域別に纏め上げた事の意義は大きい。義仲は少なくとも民間レベルではその早過ぎる死を惜しまれた人物なのだ。頼朝には特に何も抱かず、義経、義仲に己れの心情を重ねる。勝者ではなく敗者に肩入れする判官贔屓の精神は日本人のDNAに確実に存在する事も自然と知れるだろう。
映像資料も力作だ。義仲の生涯を味のある美しいアニメーションに昇華、LAID-BACKしたHIP-HOPに乗せてRAPで視聴者に語りかける。このトラックが実に素敵、マリンバとかもサンプルされてる解ってる人達の音、制約が多いとはいえ時折韻を踏むLYRICにも唸らされる。貸切状態だったので立て続けに3回も見ちゃいましたわ…
「旭将軍義仲も♪仁科の五郎信盛も♪」…そういえば県歌でありながら「信濃の国」に登場する二人の武士は何れも敗者だ。判官贔屓の精神は長野県人の血に特に色濃く残っているのかもしれない。その土壌は鎌倉時代から近世にかけての争乱の歴史が築き上げたものなんだろうか。
※かずりは武蔵の国の人っす。
※写真①〜③は三脚無しの人力で平衡感覚の限界に挑む真正面からの写真群、たぶんこの3枚を撮るのに20分位時間掛かってるw
※同志の城友さん、スポット登録ありがとう。
2023年11月18日 ほりーないと
福島城
木曽川からの標高差270m。写真①は木曽川から見た福島城、電波塔の奥にあります。コンパクトな山城ですが、遺構がよく残っています。城山自然遊歩道として整備されています。木曽には海外から観光に来る人が多く、福島城にもハイキングに訪れていました。
駐車場は興禅寺の隣の御料館(旧帝国林野局)を利用しました。登城口までは生活道路のため路上駐車禁止です。登城口〜紅葉ヶ丘までの林道は未舗装道ですので、車の乗り入れはおすすめできません。
登城口から紅葉ヶ丘(写真②)までゆっくり歩いて20分くらい、電波塔のすぐ近くです。見晴らしが良く、ベンチも設置されています。ガイドマップによると紅葉ヶ丘から本丸まで20分です。
電波塔の横には写真③「クマが突然、面会に現れることがあります。事前にノックして知らせてあげて下さい」と看板が設置されていますので、しっかりお知らせして下さい。福島城にはクマの痕跡はありませんでした。
私事ですが、城めぐを始めてから木曽福島に山城がある事を知りました。木曽福島には縁があり訪れる事が多く、福島城にいつか登りたいと思っていました。木曽の険しい山を1人で登る勇気は無かったです。その時に城友さん達が一緒に登る事を考えてくれました。残念ながら天候により城友さん達とは登れなかったです…。今回は同志の城友さんが一緒に登ってくれました。ありがとうございました!
城めぐの繋がりは良いなと思いました。
2023年11月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
沓掛馬頭観音[福島城 寺社・史跡]
さて、おいらは木曽義仲推しのJr.アイドル、事務所の名前が変わったり社長の交代があったりして今は色々大変な時期なんだけど、義仲役だったらノーギャラでも構わないて公言している。でも美少年過ぎるので義仲のイメージにはちょと合わないねとも言われている。「鎌倉殿の13人」の時も求められているのがワイルドな義仲のイメージだったので青木崇高さんに譲ってしまった…今は激しくこれを後悔している。
城館の口コミばかりしてると正直飽きてくる。趣味なんで苦ではないんだけどねぇ…別にそればかり廻ってる訳じゃないし単なる城馬鹿でも終わりたくない。…そんな訳で今回から新たなシリーズを始めようと思う。題して…
⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎
全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…
沓掛馬頭観音は福島城の南南西約4.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約764mの河岸台地上平場に立地する御堂です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は近い場所に捨てられる。
義仲様の馬は人の言葉を解する程の名馬、ある日の事、「木曽の桟」の絶壁に差し掛かった義仲様は谷の幅を目算で七十三間(132.727m…)と見積もったとです。そこで乗ってる馬に、「七十三間飛べっ!」とかなりの無茶を申されやした。でも実際は何と七十四間!義仲様外しまくりっ!が〜んっ!義仲様は九死に一生、馬の方は川底へ落ちて絶命!でも義仲様優しいんで金の観音像を作って一堂を建立、これこそがこの沓掛馬頭観音なのれすっ!
…どうです、( •´ω•` )ﻭ…皆さんも一気に義仲様ファンになった事でしょう。義仲様は己れの見積もりのみを信じてそれに命を懸ける事が出来る真の勇者、そして多少の見立て違いにもくよくよせず誤差の範囲内として許容してしまう懐の大きさ、亡くなった馬の供養もちゃんとする義理堅さ、正に真の英傑でしょう〜
「木曽の桟」は中山道最大の難所の一つ、「桟」は橋梁ではなく、桟道(侵食崖の岩盤層に片持ち式の梁を穿ち、その上に板を渡して道としたもの。)の事、えっ?義仲様の時代にこの場所に桟道があったのか?て…あったのれすっ!義仲様が証人じゃないすかっ!な、何言っちゃってんだよっ!
…該地の「沓掛」の地名は特別なものではなく全国各地で散見される地名だ。意味はコトバンクによれば、「旅人などが、道中の無事を祈願して道祖神、庚申、山の神などに、草鞋(わらじ)や馬沓の類を掛けて手向けること。また、その掛けたもの。」とあり、他に宿場以外の休息地の意味を持つ。桟道を通るのは命懸けだったし、祈りたくもなる旅人の気持ちもよく解る(Google様で「桟道」を画像検索してみてね。)。御堂は馬頭観音なのだ。桟道を踏み抜いて谷底へ落下する馬も多かったろう。そう、義仲様は自らを教訓として数百年後に多発するであろう馬事故を既に予見して観音堂を建立されたのだっ!反省の態度を明らかにする謙虚さ、且つ、先見の明をもお持ちであらせられる。
戦国時代好きが多いめぐら〜さんにとっては今後2年間は楽しみが無くなる大河ドラマな訳っすけど、どうすっか、義仲様を大河ドラマの主人公にしたくなったでしょう。生涯の短さでドラマには成り立ち難いとか言わないでっ!「粟津の戦い」の後も生きて暴れまくてた事にしちゃえばいいんだし、そこはおいらの演技力で何とか誤魔化すからさ〜
※平安時代末期の僧侶、歌人である西行法師は、「波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る 木曽の桟底も見えねば」の一首を残している。義仲の時代にも桟が存在していた事は間違い無いが中山道の桟とは別の位置(南方、桟沢の滝付近、山塊中段を通る木曽古道の道筋に当たる。)が推測されている。
※沓掛馬頭観音は現在位置よりやや南方の観音坂から移築されている。
※写真④は擬態しちゃって判り難いけど中山道の沓掛一里塚、観音堂はこの上段に建っている。
2023年11月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
興禅寺[福島城 寺社・史跡]
最近のおいらが城館ばかり訪ねていると思ったら大間違い。個人的な話、近世以前の歴史を調べる上で寺社の存在を無視する事が全く出来なくなっている。宗教施設としての寺社への興味は無いに等しいんだけど、歴史遺産としては興味深々、ましてや既知の武家の開基や創建ともなれば言わずもがな。
おいらにも推し武将てのがいるんすわ。難しい事抜きにしてこの人好きー、みたいな。戦国時代の武将だったら秋山虎繁、真田幸綱、真田昌幸、依田信蕃等々…それ以前の武将だったら何と言っても木曽義仲一択なんす。今回御紹介する興禅寺は義仲様の宝篋印塔が残るお寺さん、かずりは義仲様関連物件は丁寧に廻ってる人なんで訪ねるだけでも感動の嵐、これ等物件に関しては伝承、伝説の類い(99.9%はそうだと思う。)であっても気にしない。好きな人の事なら盲目になれるのだ。むしろ疑う方が間違っちょるっ!この現実主義者の捻くれ者共が〜っ!義仲様と巴御前なら信じ難い事も当たり前に出来るのじゃっ!
…興禅寺は福島城の西南西約0.8km、木曽川西岸(右岸)、黒川南岸(右岸)、標高約784mの河岸台地緩斜面上平場に立地する臨済宗妙心寺派の寺院です。山号は萬松山、永享六年(西暦1434年)、木曽信道(十二代当主)が木曽義仲の供養のために開基し、鎌倉建長寺五世、円覚大華を招いて開山したと伝わる木曽三大寺の一つ。後背の東西に伸びる山尾根は興禅寺尾根と呼ばれ福島城に通じている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。義仲様ファンなら目を瞑っても辿り着ける筈…但し、やらないで下さい。
文正元年(西暦1466年)には、木曽家豊(十四代当主)が興禅寺に梵鐘を寄進している。鐘銘には、「壇心離有作々 金匠到無切功 鐘聲廣大 伽藍興隆 群生睡破 利濟無窮 美濃州 慧那郡 木曾庄 萬松山 興禅々寺 住持比丘大壇那 源之朝臣家豊 于時文正元年 丙戌霜月一日」とある。
何言ってんのか知らんけど後世重要となる。即ち、文献上存在が確認出来ない「木曾庄」が登場する事、更には同庄が「美濃州 慧那(恵那)郡」に属しているとの認識が見られる事、藤原姓を名乗っていた木曽氏が突如として「源之朝臣」を称した事である。
木曽は北部の大吉祖荘と南部の小木曾荘、二つの荘園で構成されていた(諸説あり。)と推測される。あえて「木曾庄」としたのは小木曾荘地頭職、真壁氏を逐い、その支配領域が両荘の荘域に及んだ事への自負であろうか(木曽氏は家豊の代には室町幕府からも認められる存在に成長している。)。又、代々通字に「家」を用いてきた木曽氏が「義」を通字とするのは家豊の子、義元(十六代当主)が最初である。
義仲の宝篋印塔の実際は供養塔なんだろう(遺髪が埋物らしいが…)。向かって右側には信道、左側には義康(十八代当主)の墓塔が建っている。墓地には木曽義昌(十九代当主)、木曽家代々の墓石の他、興禅寺を菩提寺とした木曽代官、山村甚兵衛家代々の立派な墓塔が建ち並ぶ。境内には看雲庭と呼ばれる日本最大の枯山水庭園、別に万松庭は江戸時代前期の茶人、金森宗和(重近)の作庭とも伝わる。又、義仲手植えの枝垂れ桜(二代目)が健在、義仲様と巴御前は本当によく木を植えられたり馬の蹄跡を残されたりする方達だが決して疑ってはならない。眉唾だと思うあなたは心が荒んでおるぞよ…
※庭園は見学可能だが金を取られる。
※写真②は勅使門、治承四年(西暦1180年)、謂わゆる以仁王の令旨を源行家がこの門を通り観音堂において義仲に伝えたとされる。城山にあったものを移築したとしているが…何れにせよオリジナルは木曽大火により焼失、現在の門は昭和29年(西暦1954年)に再建されたもの。
※写真⑤は「巴塚の巴松」、本家は富山県南砺市にある。従って移植樹である。
※同志の城友さん、スポット登録ありがとう。
2023年11月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
相図峯狼煙台(相図峯・天ヶ峯)[福島城 周辺城郭]
相図峯狼煙台(相図峯・天ヶ峯)は福島城の北東約1.8km、木曽川西岸(右岸)、黒川北岸(左岸)、標高1198mの天ヶ峯山頂部に立地する狼煙台です。南麓の黒川渡ダムからの比高は425m位でしょか。木曽郡福島町では最も目立つ山陵の一つだ。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登城は南麓の県営住宅黒川渡団地の最上段からで、急な斜面を直登して山頂からの南東尾根に取り付く。人が入るお山ではあるので尾根筋には山頂部手前までのしっかりとした道が付いている(想像していたよりもなだらかである。)。ちなみに車の捨て場所に困るので高度を稼げない。徒歩で登る比高は405m位になる筈だ。
築城年代は不明、築城者は木曽氏です。木曽氏の狼煙台ネットワークの一つ、黒川の谷筋、西方域の連絡を担う狼煙台だと推測される。木曽氏の要害、福島城とは南北に黒川を挟んで相対する。比高425mは相当な高所だが、木曽川の谷筋から黒川の谷筋を西行すれば山塊自体が徐々に高度を上げるので致し方ないんだろう。狼煙が見えなきゃ困る訳だ。
登城てよりは低登山(写真撮りながらで約70分…)っす。辛いてよりは山登りが大嫌いなんでモチベーションを維持する方が大変、登山トランス状態に自分を追い込もうとするんだけど、尾根下から常に聞こえてくる爆竹?の炸裂音(こり何なんすかねぇ、人が実際に鳴らしてるとも思えないんすけど…)が邪魔をする。
更に言えば、前衛山塊とはいえ初秋の時期に木曽谷のお山を奥へ奥へと進んで行く事は精神的にも嫌なものだ。一見すれば熊さんの餌となる物が少ないお山ではあるんだけど…ねぇ…鳥の羽ばたきにすらビビる大木…目の前で枯木の枝が落下した時なんかハートビートがBPM240位に爆上がり、そのまま脈有りVTに突入するんじゃないかと思ったわ…
苦労して辿り着いた狼煙台の現況は…殆ど地山、てか地山だよ。縄張的には南北に細長い山尾根の山頂部をフル活用したって感じ…山頂の狭小な平場にはびっくりする事に小祠が鎮座、これを参拝する人はもういないだろう。狼煙台ではあるんだけど展望は木々に遮られて殆ど無い。又、山頂部の狼煙は流され易いので少々立地に疑問も抱く、信濃のお城の神は南東尾根中段の平場にその答えを求めている。
狼煙台ネットワークといえば武田氏が有名だが、見通しの悪い険阻な谷中の連絡を重要視する木曽氏のそれは密度が高い。現在把握されているもの以上の狼煙台が存在していた事は確実なところだ。外勢を防ぐのはあくまで軍勢の通過が困難な峠や山道であり、要害の籠城に発展させる事は望外だったろう。鳥居峠は木曽氏御用達の必殺の陣場、根本的に木曽谷自体が要害なのだ。現在整備されている谷中下段の国道19号線や中山道、JR中央西線等を無視して考えれば理解し易いだろう。
…結果は判ってたんすけどね…登りますよ、登りますとも。おいらは縄張図がどうだろうがリア攻めしなきゃ気が済まないタイプのめぐら〜なのだ。選り好みせず他人の評価も気にしない。実際に自分の眼で確認してなんぼの世界だと思う。日本全国の中世城館で優れたものなんてほんの僅かでしかない。史跡にも指定されず誰にも気付かれないまま風化する城砦の方が圧倒的に多いのだ。無視せず丁寧に現況を楽しむ事こそが歴史遺産に対する最大の敬意だと思う。
※神本以外でのまともな紹介例は無い。Googleマップには物好きな遠州の城友さんが位置登録している。
※写真①は登城1分後の光景、登るの止めようかと思う。
※写真②は南東尾根中段の平場、縄張図にも描かれる。
※写真③は山頂部手前の光景、道筋が不明瞭となったので急登直登した。
※写真⑧は黒川渡ダムからの遠景、真ん中のぽこりんがそれだ。山麓には「抗の原」の地名が残る。
2023年11月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
火燃山狼煙台(根井山)[福島城 周辺城郭]
火燃山狼煙台は福島城の西方約1.7km、木曽川東岸(左岸)、八沢川北岸(右岸)、標高972mの火燃山(根井山)山頂部に立地する狼煙台です。西麓のJR中央西線軌道敷からの比高は190m位でしょか。但し、南麓の登山道入口は既に高度を稼いでいるので徒歩で登る比高は125m位となる。ちなみに「火燃山」は「ひともしやま」と読ませる。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。南麓の団地の奥に沢沿いを辿る冠木門が目印の登山道が付いてます。車も此処で捨てられる。
築城年代は不明、築城者は木曽氏です。木曽氏の本拠、同じ福島城のリア攻めマップにある上之段城は火燃山(根井山)の尾根末端部に主郭が位置する。木曽氏の狼煙台ネットワークの起点でもあり重要である。
山名は年中山火事を起こしていそうな感じだし、狼煙台跡に因むものなのかなとも思ってたけど違うらしい。「長野県町村誌」には、「…永享六年(西暦1434年)七月十四五両夜、木曽信道炬火を此山に点じ夫れより興禅寺に入りて遠祖義仲を祭り、人民に風流踊を行わしむ 爾来慣例となり居民毎年七月十四五夜火を此山に燃して文字の形を造れり 因りて火燃山の称起る…」とある。風流て言えば聞こえはよいけど信道はお祭り野郎だったんすかね。そしてこれが「木曽踊」の起源でもある。又、町村誌が源義仲をこの時期の藤原流木曽氏の遠祖と書く事には甚だ疑問を感じる。但し、小木曾荘から地頭職、真壁氏を逐い木曽谷最大の実力者として郷土の名門、義仲を意識し始めた事は充分に考えられる。
登城路入口は藪ってて不安しか感じないが、沢沿いの道は少しのガレ場があるぐらいで登り易い。が、城域の全て、特に縄張図における通称1郭と通称2郭は熊笹の激藪と化しているので探索は非常に難儀する。
狼煙台の現況は…前述のとおり熊笹の激藪、写真なんかとても無理な感じだ。悩ましいのは木曽谷の狼煙台としてはスペシャルな縄張を持っており肉眼ではそれがはっきりと確認出来る事…せめて遺構が判別出来るぐらいの写真を撮ろうとして熊笹を踏み倒しまくるが無駄な努力に終わる。熊笹は数十年に一度しか根枯れしないので冬場でも無理な狼煙台…全周土塁囲みの主郭に3条の堀切…諦め切れないけれど諦めるしかない。堀切の1条が何とか写真に出来たのがせめてもの救いだった。
帰りは何かありそうな感じがして山頂部からの北尾根を下りてみた。尾根筋の小さな平場の全てが狼煙場か物見場に見えてしまう。最近のおいらはどうかしているのかしらん…それっぽい地形に釣られて結構な急崖を滑り落ちたら戻れなくなったのでそのまま崖地を下る事に…そして辿り着いた先はJR中央西線の軌道敷、頑張っても高過ぎるフェンスを越えられないので山際をぐるっと半周して関山公園を目指す。直線距離にして約1.0km、途中から送電線の鉄塔用保安道にぶつかったから何とかなったけど崖地の斜面横移動で疲労困憊、数メートル先の谷側には国道19号線が見えているてのにね…阿保っすわ…
※ 城域内の写真の全ては堀切とか土塁を撮ったものなんだろうけど撮った本人も何なのか判らない。チャクラが開いてないと無理、狼煙台の現在の様子て事で勘弁…
※写真⑦は登山道入口、だ、大丈夫なんか…
※写真⑧は別日に同じ福島城のリア攻めマップにある小丸山城から撮った遠景っす。
2023年11月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
上之段城[福島城 周辺城郭]
上之段城は福島城の南東約1.0km、木曽川東岸(左岸)、八沢川北岸(右岸)、標高972mの火燃山(根井山)から西南西へ伸びる尾根端部上、標高約839mの小ピークに立地する要害です。西麓のJR中央西線軌道敷からの比高は65m位でしょか。お城はこの小ピークを主郭とする木曽氏三代に亘る本拠にして居館城でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。長野県青峰高等学校第二グラウンドとその周辺が概ねの該地です。
築城年代は永正六年(西暦1509年)、築城者は木曽義在(十七代当主)とされる。木曽氏は須原を本拠地としていたが福島が本拠地となるのはこれ以降の話だ。義在の代は木曽支配が一応の完成を見た時代でもあり、木曽谷を縦断する道筋が整備され後の宿駅に相当する集落の形成が進められた時代でもある。
福島は木曽谷の中部に当たり交通の要衝でもある。黒川の谷筋を控える他、南方、王滝川に沿って西行すれば飛騨口に至る。北東方、宮越は境峠を控え、鉢盛山西麓等の山塊山中を南北に抜ける律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」が木曽川を東岸(左岸)に渡る渡渉場(木曽川を渡るのは一度だけ。)だったとも推測されている。
上之段城は戦火に晒されている。即ち、天正十二年(西暦1584年)八月五日、保科越前守(正直)宛徳川家康書状には、「今度小笠原右近大夫、至木曾谷中被相挌、悉放火之由候、然者、被任菅沼小大膳指図、各有調談、彼表へ被打出、此時木曾被逐對治之様、於被励戦功者、可為欣悦候、恐々謹言、」とあり、この度、小笠原右近大夫(貞慶)が木曽谷に至り悉くを放火した。然らば、菅沼小大膳(定利)の指図に任せてかの表(妻籠)へ打出し、戦功に励んで木曽退治を遂げられるならば喜ばしいと言っている。
「岩岡家記」によれば、小笠原貞慶が木曽義昌に逆心した贄川又兵衛の案内にて福島に打入り上之段城を焼き払い、結果として義昌は興禅寺に籠城したんだそう。小笠原勢の勢いは木曽谷の狼煙台ネットワークを機能させない程急だった訳だ。又、興禅寺籠城を福島城籠城に解釈(福島城は興禅寺の裏山である。)する事も可能だろうが、要害堅固の福島城はこの期に及んでも利用されなかった事になる。
お城の現況は…まず全山改変著しく旧態を見ない。特に主郭の西半分はすっかり削り取られているらしい。グラウンドの辺りが縄張図における通称2郭、「五領」の地名で呼ばれる。居館地は西麓、現在の臨済宗妙心寺派の禅宗寺院、大通寺の辺りである。よって居館地とは別に考え、上之段城を純粋な要害として捉えた方がよいのかもしれない。又、主郭の東西には堀が入っていたそうだが、現在は埋め立てられ遺構は消滅したに等しい。後には木曽代官、山村氏の家臣団屋敷が二十軒近く建っていたんだそう。ちなみに「木曽福島町史」の絵図を見ると現在の関山公園の一帯も城域として捉えているようだ。
現在は木曽郡の中心地である木曽町福島だが、木曽氏十一代当主、親豊が同じ福島城のリア攻めマップにある小丸山城(八沢城)を築く以前の歴史が殆ど伝わらない。肝心の藤原氏流木曽氏の事跡が家豊(十五代当主)以前で殆ど不明となるからだ。義在が本拠とするまでこの地が何と呼ばれていたのか(岩郷か。)すらはっきりしない。
2023年11月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
小丸山城[福島城 周辺城郭]
小丸山城(八沢城)は福島城の南南東約0.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約812mの河岸段丘台地丘陵上平場に立地する要害です。西麓のJR中央西線軌道敷からの比高は35m位でしょか。該地は福島城と南北に木曽川を挟んで相対する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。日本放送協会長野放送局の木曽福島ラジオ送信所(立入禁止)と長野県木曽青峰高等学校の全てを含む一帯とその周辺が概ねの該地です。車は送信所南側の舗装路に路駐出来る。
築城年代は応永年間(西暦1394年〜1427年)、築城者は木曽親豊(十一代当主)、その子てある信道(十二代当主)が小丸山城に入ったとされる。永享六年(西暦1434年)には信道の開基で福島に同じ福島城のリア攻めマップにある興禅寺が創建されている。当時の木曽氏は須原を本拠としているが、黒川の谷筋を控える他、王滝川に沿って西行すれば飛騨口にも通ずる福島が次第に重要とされてきたのであろうか。木曽義元(十六代当主)も城主の一人と伝わり、弘治元年(西暦1555年)八月、武田勢の福島来攻に際しては木曽義康(十八代当主)が同じ福島城のリア攻めマップにある上之段城に、その子、義昌(十九代当主)が小丸山城に籠ったとされる。基本的には当主に次ぐ一族の者が配される居館城を兼ねる要害だと思う。
お城の現況は…まず全山改変著しく旧態を見ない。大正四年(西暦1915年)の「西筑摩郡誌」によると、「…本丸 二の丸 出丸の遺址皆存す…」とあるが、今は耕作地、一般住宅地、送信所、高等学校とそのグラウンド等となっている。主郭は送信所の場所で微高地を形成している。太平洋戦争終結まで主郭の東側には二段の腰郭、西側斜面には二段の帯郭、西南斜面には横矢掛りが残っていたんだそう。城域が判り辛いが体育館の裏手に堀形の様なものが確認出来る。たぶん気のせいだと思うけど…又、現在のJR木曽福島駅の場所が「牛越」の字地名が残っていた居館地だったそうで、後には木曽義昌が家中の亀子半兵衛正仲に賜ったんだそう。
全国一踊り易い盆踊り、「木曽踊」は、城主の一人、木曽信道が「風流陣」の踊りを郷民に舞わせた事が始まりらしい。信道開基の興禅寺には「木曽踊発祥之地」の石碑が建ってたりする。
リア攻めは休日を選んだ方が無難、プライベートだったので変装してたけど直ぐにバレてしまいJKに追い掛け回されてマネージャーが体を張って止めに入る事態に。住宅地でもあるので犬にも吠えられまくり…極東ツアーの初日、台北公演を明日に控えてたけど大変な1日だった。
写真①、②は要るのか知らんけど近景、結構な要害地ではある。
※写真⑧は別日に小丸山城から見た福島城の遠景っす。
2023年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)[福島城 周辺城郭]
木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)は福島城の南東約0.6km、木曽川北岸(右岸)、標高約765mの河岸台地上平場に立地した居館です。該地は福島城の南東麓であり、台地が山地に消える場所でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「福島小学校」を目標に設定して下さい。この木曽町立福島小学校が概ねの該地中心部、同じ福島城のリア攻めマップにある山村代官下屋敷の全ても館域だと推測される。
築かれた年代は不明、お住まいに成られていたのは木曽氏です。
物件として少し反則なのだが、該地の城歴をざっくりと…まず、「長野県町村誌」には、「木曽氏竝山村氏宅跡」として、「城山の麓、木曽氏の古宅跡、山村氏之に倚住す。面積建坪一町五反九畝十一歩、外郭厩六畝二十七歩、馬場二反一畝、城山新建林一町、総計二町八反七畝八歩、木曽氏之を築くや、義元と云ひ、義康と云ふ。古記證すべきなし。但殿宇楼櫓の宏壮、木曽氏の建築ならむ。明治四年山村氏采地返上、悉皆破毀し田園と為す。…」とある。
つまりは、木曽義元か義康が築いて居館地(木曽氏居館)の一つとし、後には木曽代官、山村氏が代官屋敷(山村代官屋敷)とした物件なんす。
又、「西筑摩郡誌」には、「向城は弘治元年(西暦1555年)八月武田氏の諸軍福島城に在る義昌を攻むるが為来りて陣営を敷ける所故に上ノ段に向ける方面木曽川に臨みて塁柵を設け後方の山上に望台を築く遺跡歴然と徴すべし 只上ノ段なる福島城に向へる陣址城形なき事明なり 向城といひ城山と称するが故に古城址と見るは誤れり 但し武田氏と和睦の後義昌館を築きて居るよりて向城の名をなせり…」とある。
つまりは、同じ福島城のリア攻めマップにある上之段城を木曽川対岸に臨む(向かう)武田勢の木曽攻めの際の陣所であり、古城の跡とするのは誤り、何言っちゃってんだよ、木曽義昌が陣所跡に館を築いて居したから向城て呼ばれるだけだよと言っている。…但し、郡誌の記述も根拠を欠き誤りが見られる。
両誌の記述からハイブリッドな物件て事は確かなんだろう。居館の現況は殆ど小学校、館域が不詳だが広大な事は間違い無い。代官屋敷としても下屋敷の一部を除けば遺構は消滅したに等しいので往時を偲びようが無い。ちなみに文政十一年(西暦1828年)の代官屋敷絵図によると庭園数は20箇所!その内、築山泉水の庭が5箇所(1箇所は現存する。)、木曽代官、山村甚兵衛家の権勢を物語る場所でもあった。
個人的な話になるけど、立派なお宅を見るとつい、「何か裏では悪い事でもやっているんだろうか…脱税ぐらいは当たり前なんだろうな…数年の間は親孝行するんで養子にしてくれないだろうか。」等と思ってしまうんすけど不健全でしょか。きっとおいらだけの考えじゃない筈…
※山村代官下屋敷は一部が現存している。別に該当位置にスポット登録しているので下屋敷についてはそちらを参照して下さい。あくまで中世城館である木曽氏居館(向城)をメインとする口コミとした。
※女子校の次にリア攻めが難しいのが小中学校だ。体育?の授業が終わるのを待つ事約50分…もはや怪しい人でしかない。開き直って自分を捨てよう。但し、納得させられるだけの言い訳は常に用意しておこう。縄張図を携帯する事で殆ど解決出来る。
※写真⑤は木曽川に架かる大手橋から撮影した木曽氏居館の方向、橋を渡れば「上町」から「大手町」となる。大手橋は世界初の鉄筋コンクリートローゼ橋、そのうち文化財にでも指定されるかもしれない。現在は何が凄いのか知らんけど建築土木遺産に指定されている。
※写真⑥は同じ福島城のリア攻めマップにある小丸山城から撮影した長ネギ…いや、木曽氏居館の遠景、写真向かって左側の山稜はアプリの登録城である福島城、右側背景の一際高いぽこりんは同じ福島城のリア攻めマップにある相図峯狼煙台(インスタにはアップしてある。)、比高は420m位、凄くだるい物件、木曽谷の城砦廻りとは基本的に苦労するだけの薄い狼煙台廻りの事っす。
2023年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
山村代官下屋敷[福島城 周辺城郭]
山村代官下屋敷は福島城の南東約0.5km、木曽川北岸(右岸)、標高約764mの河岸台地上平場に立地した屋敷です。該地は福島城の南東麓であり、台地が山地に消える場所でもある。
行き方はGoogleマップに「山村代官屋敷」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。
築かれた年代は享保八年(西暦1723年)、火災による再建である。お住まいに成られていたのは木曽代官を代々世襲した山村氏(甚兵衛家)です。山村代官屋敷は上屋敷、下屋敷から成り、現在残されているものは下屋敷の一部と庭園である。
山村氏の事跡についてはネットを検索すれば腐る程ヒットするので割愛、木曽氏にも武田氏にも徳川氏にも重用された氏族、特に近世以降の木曽の歴史に大きな軌跡を残した。ちなみに山村氏は大江氏の末流を称しているが、室町時代後期以前のはっきりとした系譜が不明である。
山村氏は武田氏にとって陪臣に当たる筈だが、主家とは別に武田氏とは直接文書のやり取りが出来る立場にあり、単なる取次役には決して留まらない。即ち、元亀三年(西暦1572年)九月廿六日、山村三郎左衛門尉(良利)宛武田信玄判物案には、「定 飛州之調略、別而馳走、祝着候、因茲、於濃州之内一所可相渡候、名所等可有言上候者也、仍如件、」とあり、続いて、元亀三年(西暦1572年)拾一月九日、山村三郎左衛門尉(良利)宛武田信玄宛行状には、「定 累年別而奉公候間、濃州安弘見三百貫出置候、弥忠節可為肝要者也、仍如件、」とある。又、同日付の山村七郎右衛門尉(良候)宛武田信玄宛行状には、「定 向後可致奉公之由候之間、濃州参百貫出置候、別而忠節可為肝要者也、仍如件、」とある。一連の書状は飛騨における調略と木曽義昌の飛騨攻めにおける功を褒されたもので、父子共々美濃の内から三百貫を宛行われている。信玄から直接知行地を宛行われた事は山村氏の当時の立場が木曽氏の内を超えていた事を物語る。又、今後の忠節も併せて求められているが、武田氏に対する奉公である事は言うまでもないんだろう。
「関ヶ原の戦い」において木曽、東濃で功を挙げた山村良候は木曽代官となり、以後世襲する。二代良勝は交代寄合として格柳の間詰、江戸の金杉に屋敷地を拝領したが、元和元年(西暦1615年)に木曽が尾張藩に加封されてからは交代寄合の家格を失い尾張藩大年寄格に、別に藩から名古屋に屋敷地を拝領している。但し、福島関所の関守を幕府から嘱託される立場でもあり、三代良豊の代である寛文七年(西暦1667年)には江戸の金杉から芝増上寺南に屋敷地の替地を拝領している。又、木曽谷に権勢を保った一方、寛文五年(西暦1665年)には尾張藩の林制改革(木曽谷の山林の荒廃が理由か。)に伴い上松原畑に上松材木奉行所が置かれ、山林、川狩は共に藩の直轄とされる事態を余儀無くする。以後、代官の役割は自らの知行地(美濃国の恵那郡、可児郡、土岐郡の内にあった。)の差配と山林の取締りに限定され、純粋な木曽代官としての山村甚兵衛家の復権は元文五年(西暦1740年)の林制改革の終わりまで待たなくてはならない。
延享二年(西暦1745年)、尾張藩主、徳川宗勝は江戸からの帰路に山村代官屋敷に一泊している。随行の臣、横井也有は「岐岨郎紀行」を書き記したが、その中の一節が唯一箇所の現存石垣(山村代官屋敷東門)に刻まれている。即ち、「俎板乃那留日者起可数閑天古鳥(まないたのなる日はきかずかんこ鳥) 也有 延享二年卯月十二日」…
…綺麗に纏めたかったんだけどこの一節が何を言ってるのかさっぱり解らん…
※中に入って見学可能だが金を取られる。
※写真⑥は木曽川対岸から見た山村代官下屋敷の方向、建物は屋敷地とは無関係、この裏手に当たる。
2023年10月10日 RED副将軍
古畑伯耆守重家屋敷[福島城 周辺城郭]
木曽氏重臣である古畑重家の屋敷跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。木曽氏家臣の古畑重家の屋敷跡とされます。
古畑重家は木曽氏の一族であり、木曽義元の次男である古畑家景の嫡男にあたります。
1551年に武田信玄の支配下に入り所領を安堵。1560年には、木曽氏と敵対する飛騨の三木頼綱の家臣である檜田次郎左エ門を奈川口の戦いで斎藤丹後守ととも撃退し、戦功を挙げたとされます。
1556年の伊那衆との砂ヶ瀬の戦いにおいても、奈良井義高、千村俊政、池島一貫とともに撃退し戦功を上げました。
1590年、木曾義昌が下総国に転封するもそれに従わず帰農したとされます。
見所
木曽福島城の北西部の黒川沿いに築かれており、石垣が良好に残存しています。
特に大手門が明瞭に残っており、黒川に向かって開口しているので大手とは分かりづらいですが、かつての飛騨街道は黒川沿いであったとのことです。
ロードサイドであり御嶽山登山の帰りでも気軽に立ち寄れました。
2022年04月04日 ほりーないと
徳音寺[福島城 寺社・史跡]
徳音寺は木曽義仲の菩提寺です。義仲、義仲の母小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平のお墓があります。昭和50年に義仲像が奉納されています。
「巴淵(木曽川)」に棲む竜神が巴御前に神通力を与えたという伝説があります。徳音寺には、巴御前が馬に乗って駆け回り、川(木曽川?)を飛び越えた時に馬の蹄が石にめり込んでくぼみができたという「巴の貫き石」があります。
義仲館(資料館)のすぐ近くなので、セットで訪ねてみて下さい。
2022年04月03日 ほりーないと
義仲館[福島城 その他]
木曽義仲の資料館(有料)です。1992年に建設され、2021年7月にリニューアルオープンしました。
義仲館がある木曽町には、木曽義仲居館(旗挙八幡宮)、義仲の義父の中原兼遠居館などがあります。兼遠の娘は巴御前です。木曽町は幼なじみの義仲と巴御前が育った地です。
義仲・巴にまつわる一次史料は限られていますので、600以上の伝承地があるそうです。リニューアル後の義仲館にはパネルタッチの伝承地マップがあります。義仲伝絵巻や巴御前伝説の展示作品があり、すべて撮影OKです。
木曽谷の伝承地については受付の方が丁寧に教えてくれますので、伝承地巡りの前にぜひ行ってみて下さい。
【木曽馬】
義仲軍の時代から武士の馬として使用され、義仲館にその活躍の展示作品があります。義仲館から車で30分程の開田高原に「木曽の里」があり乗馬体験ができます。木曽馬は働く馬なので重いものを乗せて歩く事が大切だそうです。乗馬体験そのものが木曽馬の保存活動に繋がるとのことです。
2022年03月31日 ほりーないと
手習天神[福島城 寺社・史跡]
木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲や子供たちの為に建てた神社です。近くには中原兼遠居館や義仲元服の松などがあります。(向かいの公民館の駐車場をお借りできます)
目の前の道は旧中山道で、福島宿と宮ノ越宿の間に位置します。訪ねた日には旧中山道の歩き旅をしている方がいました。
国道19号線沿いの相撲場から木曽川方面に少し入った所です。木曽路の旅で少し寄り道…オススメです。
2022年03月31日 ほりーないと
中原兼遠居館[福島城 周辺城郭]
木曽義仲の養父の中原兼遠の屋敷が、北に正沢川、西に木曽川、南に洞ヶ川によって囲まれた段丘の先端部にあったと伝承されています。田畑として耕作されていて屋敷地としての遺構は全く見ることはできませんが、「義仲元服の松」「兼遠塚の碑」があります。
吾妻鏡には「中三権守兼遠は義仲を抱えて信濃国木曽へ」とあり、義仲は十三歳の元服をむかえるまで過ごしたといいます。兼遠の子である樋口次郎兼光と今井四郎兼平はともに義仲の忠臣となりました。兼遠の娘は巴御前です。
中原兼遠居館へは義仲の学問所とされる手習天神を目指して下さい。向かいに公民館があり駐車場をお借りできます。手習天神から看板に従って旧中山道を数百メートル歩き、木曽川方面へ少し進み、JR線を橋で渡ると到着します。
義仲と巴御前が共に育った木曽谷には色んな伝承が残っています。旧中山道をぶら~りとトライブや散歩しながら訪ねる旅もオススメです。
2022年03月22日 ほりーないと
福島宿[福島城 その他]
木曽福島は中山道37番目の宿場です。昭和2年の大火によってそのほとんどが焼失し、唯一免れた上の段地区には宿場町の面影(写真①)が残っています。上の段の中ほどにある蔵にはさまれた「寺門前小路」(写真②)の先に「大通寺」があります。
昭和時代の家並みになりますが、木曽川沿いの「崖家づくり」(写真③)は迫力があります。短時間で散策できますので、木曽福島のぶらり歩きもオススメです。
【大通寺】
武田信玄の三女・真理姫が嫁いだ木曽義昌の居城(上之段城の館)があった場所です。境内には真理姫の供養塔があります。
【崖家づくり】
木曽川沿いのわずかな土地を利用し、崖に沿うように建築された家並みです。その横の親水公園には足湯があります。
【木曽川と中乗りさん】
木曽節の歌詞に登場する「中乗りさん」は木曽の材木を筏に組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を舳乗り(へのり)、後ろを艫乗り(とものり)、真ん中を中乗りと言います。
城山(福島城)は明治4年に伊勢神宮の御用材等として1万本が伐採されたそうです。
2022年03月20日 しげしげ主税頭信繁
福島城
対向車が来たらアウトの檄狭で落石ゴロゴロの林道を突き進み登城口の所まで突撃すると2台程が停められるスペースがあります。
登城口から山城にしては歩きやすい道幅で緩やかな登り坂をゆっくりと登る事約20分程で主郭まで行けました。
帰宅して車の下が凹んでる事が判明しました、出来れば下の方に車は停めて下から歩きのがオススメです。
2022年03月16日 ほりーないと
興禅寺[福島城 寺社・史跡]
永享6年(1434年)、木曽家十二代信道が木曽義仲の菩提を弔うために創建しました。裏にある城山から義仲の御影観音堂や足利時代の建造物の勅使門なども移してきたといわれています。木曽家代々、福島関所代官山村家代々の菩提寺です。義仲お手植時雨桜(二代目)、日本一広い石庭(有料)などがあります。
観光案内所で教えてもらった福島城の登城コースの駐車場は興禅寺の隣にある御料館(旧帝室林野局)です。私事ですが、天候などのタイミングが合わず福島城をリア攻めしていません。興禅寺の裏が城山です。いつかリア攻めしたいです。
【勅使門】
(興禅寺パンフレットより)
元特別保護建造物(国宝)であったが、昭和2年火災にあい、昭和29年に復元した。
勅使門と称するのは、治承4年(1180年)源行家が以仁王の勅使として、平家追討の令旨を、この門を通り観音堂において義仲に伝えたからである。
2022年03月13日 ほりーないと
木曽義仲居館[福島城 周辺城郭]
木曽町日義の国道19号近く、木曽川の左岸段丘上「旗挙八幡宮」の一帯に木曽義仲の居館があったと伝わっています。木曽川から比高23m、実際に見上げると高さをしっかり感じます。館跡の範囲・境界等は全く不明です。
木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形である木曽谷は隠れ住むには良い場所であったと思います。古代官道の東山道は伊那谷を通るので木曽谷を通りません。北と南の出入り口を守ると木曽谷全体が守られます。
【旗挙八幡宮】
居館をかまえた際に八幡宮を祭ったと伝えられています。義仲27歳の治承4年(1180年)、この地で平家打倒の旗挙をして、以降「旗挙八幡宮」と呼ばれています。
御神木の大欅は樹齢800年、義仲の元服を祝って植栽されたといわれています。近年樹勢が衰え、そのままの姿をとどめておくことが困難となり、現在の姿にかわることとなりました。初代大欅の子として生育された二代目大欅(樹齢150年)が後継御神木として、義仲を後世に伝え、地域を守っています。
2022年02月07日 ほりーないと
福島関所[福島城 寺社・史跡]
中山道のほぼ中間点に儲けられた関所。50箇所にのぼる関所のなかでも、東海道の箱根・新居や中山道の碓氷などと並ぶ日本四大関所の一つでした。木曽川の断崖に望む険しく狭い場所にあります。
昭和50年に発掘調査が行われ、関所の礎石や桝形や溝の跡が見つかり、史跡公園として保存されています。
関所の建物を模した福島関所資料館(有料)には関所の道具や武具、証文などが展示されています。
「入り鉄砲に出女」
本当に関所破りはなかったのでしょうか…
江戸時代に女性が旅するには「女手形」が必要でした。簡単に発行できず、有効期間がとても短いそうです。
女性たちは善光寺を目指して旅をしました。どのように関所を通過したのでしょうか…
駒場城のリアマップ「大平宿」に口コミ投稿しましたので、良かったら読んで下さい。
2021年12月13日 青コアラ美濃守
上之段城[福島城 周辺城郭]
小丸山城築城からおよそ100年後に、木曽氏17代義在によって築かれ、19代義昌の頃まで木曽氏の居城として使われます。
木曽清峰高校の第2グラウンドが二の曲輪、その南側の小山が主郭とされていますが、二の曲輪は完全に消滅、主郭もグラウンド造成で削られているようです。一応東側の鳥居がある辺りから登ってみましたが、痩せ尾根があるのみで特に見るべき遺構はありませんでした。説明板によると鳥居のある辺りが堀切の跡っぽいです。
説明板はグラウンドの南側の道沿いにあります。駐車場はすぐ近くの関山公園が利用できます。
2021年11月17日 青コアラ美濃守
小丸山城[福島城 周辺城郭]
木曽福島に残る山城で最も古い城で、木曽義仲から数えて11代親豊が応永年間に築いたもの。
木曽清峰高校の北にあるNHK中継所が主郭(写真1)、高校のグラウンドの辺りが二の曲輪の跡と言われています。主郭は立ち入り禁止なので遺構があるかはわかりませんでした。主郭の方が少し高くなっていますが、二の曲輪の方は完全に消滅している為、実際にどれほどの高低差があったかは不明です。
グラウンド側に説明板が建っています。
駐車場はありません。道が狭いので路駐も不可ですが、説明板を読んで写真を撮るだけなので、NHK中継所の門の前のスペースに一時的に停めさせていただきました。
2019年06月01日 しげぽん
福島城
街の中心にある駐車場に車を停めて登城します。興禅寺の脇の道をあがり1200mで、国有林の入り口に着きます。そこから800mで福島城までいけます。林道も整備されてるので歩きやすいと思います
福島城の周辺スポット情報
木曽義仲の墓(碑・説明板)
小丸山城(周辺城郭)
上之段城(周辺城郭)
木曽義仲居館(周辺城郭)
中原兼遠居館(周辺城郭)
古畑伯耆守重家屋敷(周辺城郭)
相図峯狼煙台(相図峯・天ヶ峯)(周辺城郭)
火燃山狼煙台(根井山)(周辺城郭)
馬場重昌屋敷(周辺城郭)
桟城(周辺城郭)
上松城(愛宕山)(周辺城郭)
台ヶ峰狼煙台(周辺城郭)
上松蔵人屋敷(周辺城郭)
山村代官下屋敷(周辺城郭)
木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)(周辺城郭)
福島関所(寺社・史跡)
興禅寺(寺社・史跡)
手習天神(寺社・史跡)
徳音寺(寺社・史跡)
揚弓場(寺社・史跡)
沓掛馬頭観音(寺社・史跡)
大手町駐車場(駐車場)
木曽福島郷土館(関連施設)
福島宿(その他)
義仲館(その他)
登山口(その他)
林道入口(その他)
林道入り口(その他)
分岐(その他)
分岐(その他)