木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)
木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)([福島城 周辺城郭])
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木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)の口コミ情報
2023年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽氏居館(向城・山村代官屋敷)は福島城の南東約0.6km、木曽川北岸(右岸)、標高約765mの河岸台地上平場に立地した居館です。該地は福島城の南東麓であり、台地が山地に消える場所でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「福島小学校」を目標に設定して下さい。この木曽町立福島小学校が概ねの該地中心部、同じ福島城のリア攻めマップにある山村代官下屋敷の全ても館域だと推測される。
築かれた年代は不明、お住まいに成られていたのは木曽氏です。
物件として少し反則なのだが、該地の城歴をざっくりと…まず、「長野県町村誌」には、「木曽氏竝山村氏宅跡」として、「城山の麓、木曽氏の古宅跡、山村氏之に倚住す。面積建坪一町五反九畝十一歩、外郭厩六畝二十七歩、馬場二反一畝、城山新建林一町、総計二町八反七畝八歩、木曽氏之を築くや、義元と云ひ、義康と云ふ。古記證すべきなし。但殿宇楼櫓の宏壮、木曽氏の建築ならむ。明治四年山村氏采地返上、悉皆破毀し田園と為す。…」とある。
つまりは、木曽義元か義康が築いて居館地(木曽氏居館)の一つとし、後には木曽代官、山村氏が代官屋敷(山村代官屋敷)とした物件なんす。
又、「西筑摩郡誌」には、「向城は弘治元年(西暦1555年)八月武田氏の諸軍福島城に在る義昌を攻むるが為来りて陣営を敷ける所故に上ノ段に向ける方面木曽川に臨みて塁柵を設け後方の山上に望台を築く遺跡歴然と徴すべし 只上ノ段なる福島城に向へる陣址城形なき事明なり 向城といひ城山と称するが故に古城址と見るは誤れり 但し武田氏と和睦の後義昌館を築きて居るよりて向城の名をなせり…」とある。
つまりは、同じ福島城のリア攻めマップにある上之段城を木曽川対岸に臨む(向かう)武田勢の木曽攻めの際の陣所であり、古城の跡とするのは誤り、何言っちゃってんだよ、木曽義昌が陣所跡に館を築いて居したから向城て呼ばれるだけだよと言っている。…但し、郡誌の記述も根拠を欠き誤りが見られる。
両誌の記述からハイブリッドな物件て事は確かなんだろう。居館の現況は殆ど小学校、館域が不詳だが広大な事は間違い無い。代官屋敷としても下屋敷の一部を除けば遺構は消滅したに等しいので往時を偲びようが無い。ちなみに文政十一年(西暦1828年)の代官屋敷絵図によると庭園数は20箇所!その内、築山泉水の庭が5箇所(1箇所は現存する。)、木曽代官、山村甚兵衛家の権勢を物語る場所でもあった。
個人的な話になるけど、立派なお宅を見るとつい、「何か裏では悪い事でもやっているんだろうか…脱税ぐらいは当たり前なんだろうな…数年の間は親孝行するんで養子にしてくれないだろうか。」等と思ってしまうんすけど不健全でしょか。きっとおいらだけの考えじゃない筈…
※山村代官下屋敷は一部が現存している。別に該当位置にスポット登録しているので下屋敷についてはそちらを参照して下さい。あくまで中世城館である木曽氏居館(向城)をメインとする口コミとした。
※女子校の次にリア攻めが難しいのが小中学校だ。体育?の授業が終わるのを待つ事約50分…もはや怪しい人でしかない。開き直って自分を捨てよう。但し、納得させられるだけの言い訳は常に用意しておこう。縄張図を携帯する事で殆ど解決出来る。
※写真⑤は木曽川に架かる大手橋から撮影した木曽氏居館の方向、橋を渡れば「上町」から「大手町」となる。大手橋は世界初の鉄筋コンクリートローゼ橋、そのうち文化財にでも指定されるかもしれない。現在は何が凄いのか知らんけど建築土木遺産に指定されている。
※写真⑥は同じ福島城のリア攻めマップにある小丸山城から撮影した長ネギ…いや、木曽氏居館の遠景、写真向かって左側の山稜はアプリの登録城である福島城、右側背景の一際高いぽこりんは同じ福島城のリア攻めマップにある相図峯狼煙台(インスタにはアップしてある。)、比高は420m位、凄くだるい物件、木曽谷の城砦廻りとは基本的に苦労するだけの薄い狼煙台廻りの事っす。