小丸山城
小丸山城([福島城 周辺城郭])
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小丸山城の口コミ情報
2023年11月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
小丸山城(八沢城)は福島城の南南東約0.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約812mの河岸段丘台地丘陵上平場に立地する要害です。西麓のJR中央西線軌道敷からの比高は35m位でしょか。該地は福島城と南北に木曽川を挟んで相対する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。日本放送協会長野放送局の木曽福島ラジオ送信所(立入禁止)と長野県木曽青峰高等学校の全てを含む一帯とその周辺が概ねの該地です。車は送信所南側の舗装路に路駐出来る。
築城年代は応永年間(西暦1394年〜1427年)、築城者は木曽親豊(十一代当主)、その子てある信道(十二代当主)が小丸山城に入ったとされる。永享六年(西暦1434年)には信道の開基で福島に同じ福島城のリア攻めマップにある興禅寺が創建されている。当時の木曽氏は須原を本拠としているが、黒川の谷筋を控える他、王滝川に沿って西行すれば飛騨口にも通ずる福島が次第に重要とされてきたのであろうか。木曽義元(十六代当主)も城主の一人と伝わり、弘治元年(西暦1555年)八月、武田勢の福島来攻に際しては木曽義康(十八代当主)が同じ福島城のリア攻めマップにある上之段城に、その子、義昌(十九代当主)が小丸山城に籠ったとされる。基本的には当主に次ぐ一族の者が配される居館城を兼ねる要害だと思う。
お城の現況は…まず全山改変著しく旧態を見ない。大正四年(西暦1915年)の「西筑摩郡誌」によると、「…本丸 二の丸 出丸の遺址皆存す…」とあるが、今は耕作地、一般住宅地、送信所、高等学校とそのグラウンド等となっている。主郭は送信所の場所で微高地を形成している。太平洋戦争終結まで主郭の東側には二段の腰郭、西側斜面には二段の帯郭、西南斜面には横矢掛りが残っていたんだそう。城域が判り辛いが体育館の裏手に堀形の様なものが確認出来る。たぶん気のせいだと思うけど…又、現在のJR木曽福島駅の場所が「牛越」の字地名が残っていた居館地だったそうで、後には木曽義昌が家中の亀子半兵衛正仲に賜ったんだそう。
全国一踊り易い盆踊り、「木曽踊」は、城主の一人、木曽信道が「風流陣」の踊りを郷民に舞わせた事が始まりらしい。信道開基の興禅寺には「木曽踊発祥之地」の石碑が建ってたりする。
リア攻めは休日を選んだ方が無難、プライベートだったので変装してたけど直ぐにバレてしまいJKに追い掛け回されてマネージャーが体を張って止めに入る事態に。住宅地でもあるので犬にも吠えられまくり…極東ツアーの初日、台北公演を明日に控えてたけど大変な1日だった。
写真①、②は要るのか知らんけど近景、結構な要害地ではある。
※写真⑧は別日に小丸山城から見た福島城の遠景っす。
2021年11月17日 青コアラ美濃守
木曽福島に残る山城で最も古い城で、木曽義仲から数えて11代親豊が応永年間に築いたもの。
木曽清峰高校の北にあるNHK中継所が主郭(写真1)、高校のグラウンドの辺りが二の曲輪の跡と言われています。主郭は立ち入り禁止なので遺構があるかはわかりませんでした。主郭の方が少し高くなっていますが、二の曲輪の方は完全に消滅している為、実際にどれほどの高低差があったかは不明です。
グラウンド側に説明板が建っています。
駐車場はありません。道が狭いので路駐も不可ですが、説明板を読んで写真を撮るだけなので、NHK中継所の門の前のスペースに一時的に停めさせていただきました。