中原兼遠居館
中原兼遠居館([福島城 周辺城郭])
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中原兼遠居館の口コミ情報
2023年12月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回の口コミはおいらの推し武将、木曽義仲様の乳母夫にして育ての親、中原兼遠の物件、義仲様は恩人の居するこの地で幼少期を逞しくお過ごしになられていた訳だ。正に義仲様の聖地の一つ、感動で胸が張り裂けそうだったが、それよりも腹ぺこだった事の方がよく思い出される。
中原兼遠居館は福島城の東北東約3.0km、木曽川東岸(左岸)、正沢川南岸(左岸)、洞ヶ川北岸(右岸)、三川に囲われた標高約818mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。居館地の東側を南北にJR中央西線が掘り割って通っているが、現在でも訪ねるのに少し困ったりもする要害地である。
行き方はGoogleマップに「中原兼遠屋敷跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。詳細は先人の城友さんの口コミを参照するとよい。簡単に行けそうな気もするんだけど、該地へはJR中央西線の軌道敷を跨ぐ鉄橋を渡る以外に道は無いので注意っす。誰でも平場の居館跡を訪ねるのに直登とかしたくないでしょ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは中原兼遠です。但し、そうではない可能性も含まれる。信濃国の目代であったと推測される兼遠が国府から遠く離れた該地に居する事が不自然だからだ。
中原兼遠の出自は不明、推測出来るものを掘り起こそうとすると諸説あって果てしない。「本朝世紀」には、「十一月十六日大原野祭右小史中原兼遠参行之」、「仝十九日今夕新嘗祭右小史中原兼遠等参仕」、「同十二月廿三日國忌也右小史中原兼遠一人参仕」等と右小史である兼遠の名が書かれた条が幾つか見られる。「吾妻鑑」、治承四年(西暦1180年)九月七日の条には、「于時義仲為三歳嬰児乳母夫中三権主兼遠懐之遁下于信濃伝々」とあり、久寿二年(西暦1155年)、権守であった乳母夫、中三兼遠が三歳の義仲(駒王丸)を懐に抱いて信濃国に逃れ匿った旨が書かれている。中央官人としての活動が見られる他、後には地方官人として転出した兼遠は朝廷からも知られた存在である。兼遠が何処の国の権守であったのかは不明だが、信濃国の目代であったとする説が有力だ。
「中三」とも呼ばれる訳だが、同時代には木曾中太(保元の乱において源義朝、為朝に従った。「中太」は中原氏の長男を意味する。)、彌中太があって、兼遠とは兄弟であったと推測されている。二人の兄は当然木曽に住していたと思われるのだが、兼遠自身は武蔵国との繋がりが深い人物でもある。即ち、駒王丸を託した齋藤別当実盛は武蔵国長井庄に住した人物、兼遠の人柄をよく知る者であったろう。又、兼遠の妻は武蔵国、兒玉氏の息女であり、武蔵国にあって既に駒王丸の乳母であったとも推測される。兼遠の信濃国の目代説と矛盾が生じるが、信濃国に逃れる(推測として兄を頼ったとは言えないんだろうか。)以前は武蔵国の目代等であったとすれば疑問は解消される。
居館の現況は水田、耕作地、耕作放棄地、空地等となっていて見るべきものは特に無い。推定居館敷地内には、「兼遠塚の碑」、「義仲元服の松」が残る。碑は石碑であり、かつて何らかの塚が此処に存在していたて事を示すだけのものなんだろうか。塚の中身を知りたいところだが、少なくとも現在は塚としての土盛は見られない。松の方は三代目…だが、決して疑ってはならない。伝言で疑問をぶつけてもらっても一向に構わないが忠告しておく。伝言する方は義仲様の狂信的ファンクラブ、「朝日将軍」の右翼的下部組織にして闇の実行部隊、「旭」が考案した再教育プログラム、「火牛の計」の牛役として倶利伽羅峠を走り回される事になるのを覚悟しておくように。頭髪が焼け焦げた状態で己れの不明を詫びる事になるであろう。
…木曽義仲の「仲」は「中原」の「人」を意味するんだろうか。通字の「義」に+してこの字を選んだのは烏帽子親の影響と言えるのかもしれない。義仲の旗挙げを見送った兼遠は治承五年(西暦1181年)が没年と推測される。その子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平は義仲の腹心となり四天王の内である。義仲伝承、伝説を彩る巴御前は兼遠の息女とされ、自身も数多くの伝承、伝説を生み出した。真偽はともかく、それに比定される程の人物があった事は間違い無い事だと考える。
※兼遠は史料がそれなりに探し出せる人物だが、纏め上げるのに苦労する人物、同名異人が存在するようにも思える。
※写真①は近景、てっきり水路橋から行けるもんだと思ってた。
※写真③の鉄橋を渡る以外に道は無い。
※写真⑤には「義仲元服の松」が見える。根本には居館の説明板が立つ。
※写真⑧は「兼遠塚の碑」、矢竹に埋もれている。
※同志の城友さん、スポット登録ありがちょです。
2022年03月31日 ほりーないと
木曽義仲の養父の中原兼遠の屋敷が、北に正沢川、西に木曽川、南に洞ヶ川によって囲まれた段丘の先端部にあったと伝承されています。田畑として耕作されていて屋敷地としての遺構は全く見ることはできませんが、「義仲元服の松」「兼遠塚の碑」があります。
吾妻鏡には「中三権守兼遠は義仲を抱えて信濃国木曽へ」とあり、義仲は十三歳の元服をむかえるまで過ごしたといいます。兼遠の子である樋口次郎兼光と今井四郎兼平はともに義仲の忠臣となりました。兼遠の娘は巴御前です。
中原兼遠居館へは義仲の学問所とされる手習天神を目指して下さい。向かいに公民館があり駐車場をお借りできます。手習天神から看板に従って旧中山道を数百メートル歩き、木曽川方面へ少し進み、JR線を橋で渡ると到着します。
義仲と巴御前が共に育った木曽谷には色んな伝承が残っています。旧中山道をぶら~りとトライブや散歩しながら訪ねる旅もオススメです。