木曽義仲居館
木曽義仲居館([福島城 周辺城郭])
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木曽義仲居館の口コミ情報
2023年12月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回の口コミはおいらの推し武将、木曽義仲様がお住まいになられていた物件、もう思わず地面に寝転がってごろごろして義仲様への尊崇の念を表現したいところだがやらないです。ただの阿保でしょ…汚れるだけじゃないの…
木曽義仲居館は福島城の北東約7.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約883mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。但し、居館の正確な位置は不明であり、旗挙げ伝承が残る旗挙八幡宮の周辺一帯が概ねの該地と推測されている。
行き方はGoogleマップに「木曽義仲公館跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。おいらぐらいの義仲様ファンになるとナビ設定しなくても何かに導かれるように辿り着ける。ちなみに義仲様の居館跡は別に長野県上田市御嶽堂にも存在するので注意っす。こっちの方はインスタにはアップしてある。既に今年だけで新規口コミストックがたぶん350件位+されているので城めぐで口コミするとしたら数年先の話になると思う。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽義仲です。源義仲て言うべきなんだろうか。義仲様の生涯については、「吾妻鑑」、「源平盛衰記」、「玉葉」、「平家物語」等を誦じれるまで読んで下さい。一応説明しておくと、清和源氏の一流、河内源氏、源為義の二男、東宮帯刀先生、義賢の二男が駒王丸、父である義賢が甥である鎌倉悪源太義平に討たれた際、長井齋藤別当実盛に庇護され中原兼遠に託された。即ち、後の義仲である。
義仲は一次史料に恵まれず、現存する自筆花押の書かれた書状は唯一通のみである。「市河文書」中に残る、治承四年(西暦1180年)十一月十三日付、藤原(中野)資弘宛源義仲下文がそれで、「下 資弘所知等 可早如旧令安堵事 右、件所、如元可致沙汰之状如件、」とあり、当時、無位無官の義仲が北信濃の国人領主である中野資弘に所領安堵を行っている事が判る。書状の年月日は「市原合戦(義仲は北信濃の源氏方勢力に合力している。)」の後、上野国から信濃国に戻り、小県郡依田庄において挙兵した時期と時を同じくしており、同様の書状は当時連発されたと考えるが、後には鎌倉を憚ってその多くは焼かれたものと推測する。大したバックグラウンドを持たない義仲の挙兵は信濃武士に支えられたものであり、信濃の源氏方勢力にとっては一大ムーブメントでもあった。
居館の現況は…そもそも論で正確な位置は不明なのでこの辺りて感じ…現在はその殆どが耕作地、耕作放棄地、空地等となっており見るべきものは特に無い。中原氏に養育された義仲元服後の居館地て事になるんだろう。思春期を迎えると兄妹とは別の部屋を求めたりするもんだ。周辺地域には義仲様や巴御前の伝承、伝説地が数多く存在するが、義仲様関連物件を丁寧に廻るかずりは例え隣接地であっても個別に口コミしようとする狂った考えを胸に抱いている。
前述の駒王丸の庇護者となった長井齋藤別当実盛だけど、悲しい事に後には老齢なるも義仲追討を指図され、寿永二年(西暦1183年)六月一日、「篠原の戦い」において最期を迎える。即ち、御味方総崩れの最中、覚悟を決めて殿軍となりて奮戦するも義仲の郎党、手塚太郎光盛が為に討ち取られた。実盛の討死は「平家物語」の巻第七、「実盛最期」として一章を成すが、義仲様の心中と相まって涙無しには読めないや。能の修羅物、三修羅の一つ、世阿弥の傑作、「実盛」は正にこの事を演じる。義仲様の生涯にはドラマがあるなぁ…
※生年が正しければ元服から27歳までの居館地て事になる。
※義仲の生涯は最後の4年間に全振りしている。それ以前の事跡は謎でしかない。
※木曽郡の各町村誌の歴史編は義仲抜きにしては話が進まないのだが、何れも二次史料を元にせざるを得ず精彩を欠く。選ぶなら「村誌 王滝」が読み易くて最も良い(内容的にはどの町村誌も似たり寄ったりだ。)。
※ちなみに「平家物語」は義仲様のパートしか読んだ事が無い。能の「実盛」はようつべで見ようとしたが冒頭で挫折…
※同志の城友さん、スポット登録ありがちょです。
2022年03月13日 ほりーないと
木曽町日義の国道19号近く、木曽川の左岸段丘上「旗挙八幡宮」の一帯に木曽義仲の居館があったと伝わっています。木曽川から比高23m、実際に見上げると高さをしっかり感じます。館跡の範囲・境界等は全く不明です。
木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形である木曽谷は隠れ住むには良い場所であったと思います。古代官道の東山道は伊那谷を通るので木曽谷を通りません。北と南の出入り口を守ると木曽谷全体が守られます。
【旗挙八幡宮】
居館をかまえた際に八幡宮を祭ったと伝えられています。義仲27歳の治承4年(1180年)、この地で平家打倒の旗挙をして、以降「旗挙八幡宮」と呼ばれています。
御神木の大欅は樹齢800年、義仲の元服を祝って植栽されたといわれています。近年樹勢が衰え、そのままの姿をとどめておくことが困難となり、現在の姿にかわることとなりました。初代大欅の子として生育された二代目大欅(樹齢150年)が後継御神木として、義仲を後世に伝え、地域を守っています。