沓掛馬頭観音
沓掛馬頭観音([福島城 寺社・史跡])
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沓掛馬頭観音の口コミ情報
2023年11月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらは木曽義仲推しのJr.アイドル、事務所の名前が変わったり社長の交代があったりして今は色々大変な時期なんだけど、義仲役だったらノーギャラでも構わないて公言している。でも美少年過ぎるので義仲のイメージにはちょと合わないねとも言われている。「鎌倉殿の13人」の時も求められているのがワイルドな義仲のイメージだったので青木崇高さんに譲ってしまった…今は激しくこれを後悔している。
城館の口コミばかりしてると正直飽きてくる。趣味なんで苦ではないんだけどねぇ…別にそればかり廻ってる訳じゃないし単なる城馬鹿でも終わりたくない。…そんな訳で今回から新たなシリーズを始めようと思う。題して…
⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎
全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…
沓掛馬頭観音は福島城の南南西約4.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約764mの河岸台地上平場に立地する御堂です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は近い場所に捨てられる。
義仲様の馬は人の言葉を解する程の名馬、ある日の事、「木曽の桟」の絶壁に差し掛かった義仲様は谷の幅を目算で七十三間(132.727m…)と見積もったとです。そこで乗ってる馬に、「七十三間飛べっ!」とかなりの無茶を申されやした。でも実際は何と七十四間!義仲様外しまくりっ!が〜んっ!義仲様は九死に一生、馬の方は川底へ落ちて絶命!でも義仲様優しいんで金の観音像を作って一堂を建立、これこそがこの沓掛馬頭観音なのれすっ!
…どうです、( •´ω•` )ﻭ…皆さんも一気に義仲様ファンになった事でしょう。義仲様は己れの見積もりのみを信じてそれに命を懸ける事が出来る真の勇者、そして多少の見立て違いにもくよくよせず誤差の範囲内として許容してしまう懐の大きさ、亡くなった馬の供養もちゃんとする義理堅さ、正に真の英傑でしょう〜
「木曽の桟」は中山道最大の難所の一つ、「桟」は橋梁ではなく、桟道(侵食崖の岩盤層に片持ち式の梁を穿ち、その上に板を渡して道としたもの。)の事、えっ?義仲様の時代にこの場所に桟道があったのか?て…あったのれすっ!義仲様が証人じゃないすかっ!な、何言っちゃってんだよっ!
…該地の「沓掛」の地名は特別なものではなく全国各地で散見される地名だ。意味はコトバンクによれば、「旅人などが、道中の無事を祈願して道祖神、庚申、山の神などに、草鞋(わらじ)や馬沓の類を掛けて手向けること。また、その掛けたもの。」とあり、他に宿場以外の休息地の意味を持つ。桟道を通るのは命懸けだったし、祈りたくもなる旅人の気持ちもよく解る(Google様で「桟道」を画像検索してみてね。)。御堂は馬頭観音なのだ。桟道を踏み抜いて谷底へ落下する馬も多かったろう。そう、義仲様は自らを教訓として数百年後に多発するであろう馬事故を既に予見して観音堂を建立されたのだっ!反省の態度を明らかにする謙虚さ、且つ、先見の明をもお持ちであらせられる。
戦国時代好きが多いめぐら〜さんにとっては今後2年間は楽しみが無くなる大河ドラマな訳っすけど、どうすっか、義仲様を大河ドラマの主人公にしたくなったでしょう。生涯の短さでドラマには成り立ち難いとか言わないでっ!「粟津の戦い」の後も生きて暴れまくてた事にしちゃえばいいんだし、そこはおいらの演技力で何とか誤魔化すからさ〜
※平安時代末期の僧侶、歌人である西行法師は、「波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る 木曽の桟底も見えねば」の一首を残している。義仲の時代にも桟が存在していた事は間違い無いが中山道の桟とは別の位置(南方、桟沢の滝付近、山塊中段を通る木曽古道の道筋に当たる。)が推測されている。
※沓掛馬頭観音は現在位置よりやや南方の観音坂から移築されている。
※写真④は擬態しちゃって判り難いけど中山道の沓掛一里塚、観音堂はこの上段に建っている。