安宅氏城館(あたぎしじょうかん)
安宅氏城館の基本情報
通称・別名
- 安宅氏城館[安宅氏居館(安宅本城)・八幡山城・土井城・中山城・要害山城(馬谷城)]
所在地
- 和歌山県西牟婁郡白浜町安宅他(地図は安宅氏居館を示す)
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 安宅頼春[安宅氏居館]、安宅定俊[八幡山城]、土井氏[土井城]、榎本直光[中山城]、吉田春秀[要害山城]
築城年
- 享禄年間(1528〜1532)[安宅氏居館]、室町時代[八幡山城・中山城]、不明[土井城]、明応3年(1494)[要害山城]
主な改修者
- -
主な城主
- 安宅氏[安宅氏居館・八幡山城]、土井氏[土井城]、榎本(田井)氏[中山城]、吉田氏[要害山城]
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁[すべて]、石垣[安宅氏居館・八幡山城・土井城・中山城]、横堀(空堀)[八幡山城・土井城・中山城]、堀切[八幡山城・土井城・要害山城]、竪堀[八幡山城・土井城・要害山城]
指定文化財
- 国史跡(安宅氏城館跡)
再建造物
- 碑、説明板[すべて]
周辺の城
-
龍松山城(和歌山県西牟婁郡)[15.6km]
田辺城(和歌山県田辺市)[18.9km]
衣笠城(和歌山県田辺市)[19.2km]
峰山城(和歌山県田辺市)[22.3km]
平須賀城(和歌山県日高郡)[29.1km]
古城山城(和歌山県東牟婁郡)[34.5km]
赤松城(和歌山県日高郡)[35.0km]
鶴ヶ城(和歌山県田辺市)[35.6km]
田尻城(和歌山県日高郡)[41.0km]
手取城(和歌山県日高郡)[42.1km]
安宅氏城館の解説文
安宅氏城館の口コミ情報
2024年11月02日 noble権中納言弥勒菩薩
安宅氏城館
安宅本城です。この地域は安宅氏の本拠地で、中心の小平地に居館を置き、周辺の山稜に防備の砦群を配置した格好です。日本各所でよく見る定番、兵法(と風水もか?)に則った立地ですね。信州真田氏の本貫地も同じような配置でした。
“安宅本城”と呼称されますが、ここが居館であったと思われます。
今は宅地、田畑となっていますが、各種資料で“堀の跡”、“石積(堀の壁の水留め?)”が見られました。
周辺の八幡山城などにも登ってみたかったのですが、まさに陽が落ちるところ、今日はこれにて残念ながら打ち止めです😭
なお、この居館部中心域は住宅、行き止まりの狭い道しかありません。行き止まりの果てまで車で行ってしまうと完全に個人宅なので、よろしくないと思います。訪れる場合は、ご迷惑にならないよう重々留意しましょう。
2024年01月15日 _ClaD雅楽頭リアの季節
藤原城[安宅氏城館 周辺城郭]
『近畿の城郭Ⅱ』によると、近世の軍記物『安宅一乱記』に「藤原の要害」として登場し、周参見氏の城とされます。周参見氏は安宅氏の一族で、応永8年(1401)周参見庄に入り、藤原城を築いて居城としたそうです。紀南での多くの戦いで安宅氏と共闘しています。その後も朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで行動を共にし、共に没落しました。
最高所の標高274メートルがほぼそのまま比高となります。石を積んだ多重堀切が見ごたえあります。
すさみ駅裏の萬福寺にひと声かけて、秋葉神社(周参見城の主郭)を目指して登ってください。そこからはピンクリボンを頼りに尾根を直登しますが、シンプルに頂上を目指せばいいので予想より迷いませんでした。
2024年01月15日 _ClaD雅楽頭リアの季節
周参見城[安宅氏城館 周辺城郭]
周参見氏の来歴は藤原城の口コミにも書きました。秀吉の紀州攻めに降伏して所領安堵された周参見主馬太夫は紀伊水軍の一員として朝鮮出兵にも参画しましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後捕らえられ、2年後に没したそうです。
城は岩山の中腹で事実上の単郭であり、主郭も長辺30メートルと、詰城といえる規模ではありません。藤原城が本城で、こちらは物見程度のものでしょう。
麓の萬福寺(周参見氏の菩提寺)にひと声かけてから登ってください。墓地の上の防獣柵の扉を開けて主郭の秋葉神社を目指します。他には特に注意事項はありません。
目立つ遺構もありませんが、藤原城へ行くならここを通過するルートが最も安全なので、必然的に登城することになります。
2022年12月19日 気分爽快豊後守
紀伊安宅八幡山城[安宅氏城館 周辺城郭]
各郭は土塁で囲われ、一部は石で補強されていた。郭の間は岩盤を掘削した堀切が存在し、特に主郭北の巨大堀切には圧倒される。城郭西側の入口にある横堀も深く長く大きい。
2022年12月19日 気分爽快豊後守
土井城[安宅氏城館 周辺城郭]
天徳寺の駐車場に車を駐めさせていただき登城。主郭までに大きな横堀があり、石積みも存在している。主郭北には大きな堀切があり、その先の郭の北には連続堀切があるらしいが、シダの藪が酷く確認に至らず。
2022年12月18日 気分爽快豊後守
馬谷城[安宅氏城館 周辺城郭]
登城路を登り切ると堀切が迎えてくれます。主郭の西には土塁で囲まれた郭があり、その西に畝状竪堀を確認できます。
2022年12月18日 気分爽快豊後守
神田城[安宅氏城館 周辺城郭]
城の南北が三重堀切で守られており、西には畝堀が存在してます。横堀の土橋部分には石積みもありました。
2022年10月27日 RED副将軍
馬谷城[安宅氏城館 周辺城郭]
畝状竪堀群が見事な安宅氏の北西を守備する境目城🏯
オススメ度 ★★★★★
1494年に安宅氏家臣の吉田春秀により築城。
敵対する龍松山城の山本氏に備える為に築いたと云われます。
同年に山本主膳守は馬谷城に攻め寄せ、馬谷城合戦が起こりました。戦いの詳細は不明ですが幾度と攻防戦が行われた様です。
1585年、織田信長家臣の羽柴秀吉による紀伊侵攻において山本氏は羽柴氏に降伏。馬谷城もこの際に開城したと考えられています。
見所
登城路から上がると、尾根を分断する大堀切に辿り着きます。
尾根を東に進むと削平地が広がり、その先の土橋が付いた堀切の先にも郭が広がります。
大堀切を西に進むと3つの郭が連なり、中央の頂部が主郭で西端の二郭は土塁が巡ります。
最大の見所は二郭下の畝状竪堀群で整備された明瞭な畝状竪堀が10条以上確認できます。
なかなかの残存度でテンション爆上がります✨
行き方は、結構分かりにくいです。
紀勢道・要害山トンネルの上に位置し、城域西側にあたる国道42号から高瀬地区に入ります。
山本製材所を越えて紀勢道の高架をくぐり城域東側に回り込むと登城口があり、車1台分くらいの駐車スペースもあります。
2022年08月10日 RED副将軍
安宅氏城館
登録地である安宅本城の口コミです。
熊野水軍を率いた安宅氏の本拠地🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
享禄年間(1528年~1532年)に安宅河内守により築城。
安宅氏は、甲斐源氏で阿波国守護の小笠原氏を祖とする御家人で鎌倉幕府の命で熊野海賊討伐のために安宅荘の荘司となりました。
熊野水軍の軍事力で紀伊水道を中心に淡路島まで勢力を拡大をします。
しかし、安宅氏は跡目争いが絶えず内部抗争を幾度も繰り返し弱体化していきます。
最終的に、関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成に付いたため領地を失いました。
見所
安宅氏城館跡として国史跡に指定されています。
現状は、民家や耕作地となり遺構の大半が消失。石垣の一部が残ります。
平坦地にある居館であり、有事の際に籠る詰城が周辺にいくつもあります。
安宅八幡山城、安宅勝山城、土井城、馬谷城、中山城などの周辺の支城群は良好に残存している名城揃いであり、どちらかと言えば支城メインでついでに本城の訪城をオススメします。
2022年06月28日 RED副将軍
中山城[安宅氏城館 周辺城郭]
安宅氏家臣の田野井氏の居城🏯
安宅氏城館跡として国史跡に指定✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
室町時代に榎本直光により築かれたと伝わります。
その後、榎本氏は田野井氏を名乗り、安宅氏に敗れると安宅氏に仕えました。
見所
南北二段の主郭は東を除く三方を土塁が巡り、更に二段になった横堀が巡っています。
横堀が見事ですが、国史跡にしてはヤブ化していたことが残念でした。
下山後にお会いした地元のお年寄りに伺うと、横堀の下は戦後くらいまで民家があり改変されているてのことでした。
2022年05月30日 うっきー
安宅氏城館
紀伊日置駅から歩いて10分ほどで安宅本城に登城。そこからさらに5分ほど歩くと日置八幡山城。日置八幡山城では、堀切と横堀に感動でした。
2022年05月01日 イオ左衛門佐
大向出城[安宅氏城館 周辺城郭]
大向出城は日置川河口部南岸の海に突き出した岬に位置する河口部や海上を見張るための出城で、築城者や時期など詳細は不明ながら、安宅氏の支城群のひとつとして機能したと考えられます。
県道沿いの日置川の展望所に駐車して登城開始。展望所から県道を南西に進むと、すぐに日置川河口部と大向出城のある岬が見えてきます。県道が切通道状に岬を横切るあたりに登城口があり、案内標識と説明板が建てられていました。登城口から案内標識に従って10分ほど歩くと、最大の(というか唯一の)見どころである二重堀切に至ります。二重堀切は深さも幅もあり、外側の堀切の内側には安宅氏の城の特徴である石積みが施され、竪堀状になった北端まで石積みが続いています。やや浅くなった内側の堀切を越えた先のピークに主郭が設けられていますが、削平は甘くほぼ自然地形です。現状では主郭周辺は雑木林になっていて河口部や海上は見えないので、見張台らしい場所を求めて尾根の先へ少し探索してみましたが、眺望の開けた場所は見付けられませんでした。
2022年04月30日 イオ左衛門佐
古武之森城[安宅氏城館 周辺城郭]
古武之森城は、すさみ町境近くの古武之森と呼ばれる山の頂部に位置し、江戸期の軍記物「安宅一乱記」によれば、戦国中期の安宅氏の跡目争いにおいて阿波国から来援した小笠原右近太夫が守備した城とされますが、詳細は不明です。
安宅勝山城から五重堀切を越えて登城開始。下調べによれば尾根伝いに東から南東方向に行けば問題ない…はずでしたが、途中のピークでシダの藪に入り込んで方向感覚を失い、スマホの地形図アプリのお世話になって何とかたどり着きました。ただ、正しいルートには藪は無いので、藪に入りそうになったら立ち止まって確認すれば道に迷う心配はないかと思います。
安宅勝山城に続く北西尾根の主郭から少し離れた位置に堀切があります。堀切を越えて急斜面を登って行くと堀底を歩いているような感覚になり、見渡すと隣にも竪堀が並んで落ちていました。東端の竪堀は上端で横堀状になっていて、ずいぶん浅くなっていますが畝状空堀群のようです。続いて二条の堀切があり、さらに主郭の北下には石積みが施された腰曲輪も設けられていて、北西尾根方向への厳重な警戒ぶりが窺えます。主郭には巨岩が露頭している…ようですが、シダの藪に沈んでいて足を踏み入れられませんでした。主郭の南西下にも小さな曲輪があり、東側斜面に竪堀を落としています。小曲輪の先は南西方向に緩やかな尾根が続いており、途中の平坦地には投石用と思しき丸みのある礫石が散乱していました。
古武之森城は、北西側(安宅勝山城側)に防御施設を集中させる一方で、南西尾根は緩斜面ながらも防御施設はほとんど見られず、安宅勝山城でも東尾根(古武之森城側)に五重堀切を設けるなど、互いに警戒しあう造りになっていることから、安宅氏の内紛によるものか隣接する周参見氏によるものかはわかりませんが、安宅勝山城と対立する勢力による城であることを現地に立ってみて納得しました。
2022年04月29日 イオ左衛門佐
安宅勝山城[安宅氏城館 周辺城郭]
塩野集落の日生神社(勝山城の説明板あり)の駐車場に車を駐めて登城開始。集落の入り口から随所に案内表示が設けられており、登城口とされる廃園となった梅園の麓までは迷うことなくたどり着けましたが……どこから登れと? 梅園はすっかりシダの藪と化していて足を踏み入れられそうな隙間も見当たりません。梅園の北東最上部までたどり着けば、あとは登城道が整備されているんですが、そこまでは藪漕ぎしつつ直登するしかなさそうです。
南尾根の稜線に出て少し登って行くと三重堀切に着きました。南尾根の三重堀切は幅も深さもあり三日月状にカーブしながら竪堀として落ち込んでいて、南尾根を完全に遮断しています。三重堀切の北東上(副郭の南東下)には周囲を武者隠し状の土塁で囲んだ腰曲輪があり、三重堀切側の土塁の下には畝状空堀群が設けられています。副郭の北辺は主郭の切岸、残る三方は分厚い土塁で囲み、西部には平入虎口が、東部には土塁に上るための雁木状の石段が見られます。また、安宅氏の城の特徴として他の支城にも見られますが、安宅勝山城でも土塁内側には石積みが施されていました。西部の虎口を出ると西下には帯曲輪が広がり、北端で竪堀を西下に落としています。竪堀を越えると、主郭の西斜面に数段の腰曲輪があり、最下段は浅い土塁が取り巻いています。腰曲輪の下では浅くなった堀切が西尾根に続く尾根道を断ち切っていました。
安宅勝山城の主郭は四方を土塁で囲み、北辺の土塁上からは安宅荘と日置川を一望することができます。ここからだと安宅本城と支城群の位置関係が一目で把握でき、昨年に安宅氏城館群をめぐっているだけに実に見応えがありました。主郭から東下の帯曲輪(東辺に石積みあり)に下り、安宅勝山城最大の見どころの東尾根の五重堀切に向かうと……なんじゃこりゃあ! 岩盤を開削した堀切だというのは承知していましたが、その際に出た石が堀切の内外に積まれていて、さながら総石垣の堀切が連続しています。東尾根は両側が急斜面の細尾根で、一番内側の堀切は深さも幅もあり、東尾根に対する徹底的な防御意識が感じられました。
南尾根の巨大な三重堀切に始まり、副郭の土塁に施された石積みと雁木、主郭からの眺望…。これらだけでも十分に満足でしたが、この石積みされた五重堀切はこれまでに見たことのない圧巻の光景で、直登と藪漕ぎの苦労が何倍にもなって報われました。
2022年03月01日 昌幸近江守晩秋リア旅
安宅勝山城[安宅氏城館 周辺城郭]
主郭背後の5重堀切。この城の一番の見どころだ。
ここだけ石を使っているとアピールしていて、掘った時に出た石を積んで崩れないようにし、主郭についた帯曲輪も石づくりにしている。安宅氏の攻めさせないという執念が感じられる。
【写真の説明】
①は主郭帯曲輪の石積み
②以降は5重堀切
2022年02月28日 昌幸近江守晩秋リア旅
安宅勝山城[安宅氏城館 周辺城郭]
てっきり城館(国史跡)に含まれていると思ったら、そうではなかった安宅勝山城。
この城は登城路がかなりの悪路だった。これが原因かな。
廃果樹園(梅畑)の段々畑の崩れた石積みを登るので足元は不安定で、胸の高さほどのシダが生い茂っている。冬場は道が確保されていたが、他の季節は埋もれてしまうだろう。ピンクとブルーのリボンを目印に登る。とにかく廃果樹園を抜けるまでは心が折れそうになると思う。ここまで15分、抜けたら20分で3重堀切に到着。
3重堀切は、細くない尾根を豪快に切っていてそのまま竪堀に変わる。
主郭とニ郭は、掘ることにより曲輪をつくり、残土を土塁にし、それを石で補強したのだろう。
そして主郭から続く尾根には、この城一番の見どころである5重堀切が現れる…
【写真の説明】
①3重堀切の1条。
②ニ郭腰郭。三日月の形に土塁が残る。
③ニ郭。土塁が見事。奥の高くなっている方が主郭。
④ニ郭土塁に埋め込まれた石積み。
⑤主郭。
2022年02月10日 HS兵部大輔
安宅氏城館
川の堤防沿いの道路を走っていると石垣が見えてきます。畦道を歩いていけば間近で見られます。
2021年12月28日 RED副将軍
神田城[安宅氏城館 周辺城郭]
残存度が抜群の美しい三重堀切は必見✨
オススメ度 ★★★★★
1569年に宇都宮道直が築城。下野宇都宮氏の一族で織田信長に敗れて阿波国へ三好氏に頼っていたところ、当地の土豪である周参見氏に招かれ移住してきた様です。
その後も石山本願寺に加担し、織田軍と戦っていましたが、1580年の石山の戦いで本願寺が降伏した頃には帰農して廃城となったと言われています。
見所
南北の稜線上に二つの郭が連なり、その南北両側は大規模な三重堀切で堅められています。特に主郭背後の堀切は10m近い深さのもの。端部は竪堀となり落ちています。
主郭の西側には10条ほどの畝状竪堀が確認できます。
行き方は、持宝寺を目標に設定。持宝寺墓地を抜けると金毘羅宮があり、その背後の山が城跡となります。約10分程度の登りで素晴らしい遺構に出会えます。
写真
①②③④主郭背後の三重堀切。両サイドは竪堀となり落ちます。
⑤主郭北側の三重堀切には土橋が架かる。
⑥主郭の切岸
⑦主郭西側の畝状竪堀
⑧主郭に建つ石標
2021年12月11日 RED副将軍
紀伊安宅八幡山城[安宅氏城館 周辺城郭]
岩盤掘削の大堀切に巨大な空堀群✨熊野水軍を率いた安宅氏の詰め城🏯圧巻の土木量の紀伊の名城です😍
オススメ度 ★★★★★
築城年代等は不詳。安宅本城の北へ300mほどに位置し、有事の詰め城と位置付けられていたと思われます。
安宅一乱記には、安宅氏12代当主の安宅実俊の実弟安宅定俊の居城であったと伝わります。安宅定俊は安宅実俊の死後、実俊の子安定丸と家督を争い勝利するが、内輪揉めにより安宅氏は急速に弱体化したと言われています。
見所
山頂に主郭を置き、南へ二の曲輪、三の曲輪が連なります。圧巻なのは、まず主郭北側下の岩盤掘削された大堀切。かなりの規模で岩盤掘削されています。
二の曲輪と三の曲輪を隔てる大堀切、更に三の曲輪南側にも大規模な堀切が配され、竪堀となり落ちます。ここも岩盤掘削によるものです。また、西側中腹には巨大な横堀が巡り、北側と南側の竪堀と繋がっています。各曲輪は土塁が巡り石積みで補強されています。
恐ろしいまでの土木量に圧倒されました😍
安宅八幡神社の背後の山に築かれ比高は60mほどです。駐車場も完備、登城路も整備されています。
写真
①②主郭北側の岩盤掘削堀切
③主郭の櫓台跡
④各曲輪は土塁が巡り石積みが点在
⑤⑥二の曲輪と三の曲輪を隔てる岩盤堀切
⑦西側中腹の長大な横堀
⑧主郭の切岸
2021年12月09日 RED副将軍
安宅大野城[安宅氏城館 周辺城郭]
安宅本城 の西方を守備⚔小規模ですが切岸と堀切は見応えあり✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細は不明。安宅氏の執事を勤めた大野五兵衛の居城で、安宅本城の西を守る支城として機能したと言われています。
見所
南北に二つの曲輪が並び、それぞれの南側に堀切を、西側は横堀で堅め、周囲に帯曲輪が配されています。小規模ですが、堀切、切岸の鋭さは見事です。
春日神社背後の独立丘にありますが、比高は20mほどで、クセがスゴイ安宅氏の城郭群の中でサクッと登城することが可能です。神社前に駐車スペースもあります。
写真
①②③二条の堀切
④西側の横堀
⑤城域北側の土塁
⑥主郭の切岸
⑦春日神社
⑧案内図
2021年12月05日 RED副将軍
大向出城[安宅氏城館 周辺城郭]
二重堀切だけの出城ですが、その堀切は見事です✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
詳細不明ですが、熊野水軍の安宅氏の出城と言われています。日置川の河口付近に飛び出た岬の上に位置し、海上の見張りとして機能していたと見られます。
見所
東の尾根筋に二重堀切に削平地だけの出城ですが、堀切は石積みで補強されており見応えは充分あります。
県道243号線沿いにありますが、切り開かれたすぐ脇を登っていきます。特に柵もなく、かなりの高度感。断崖絶壁で現代の切通は恐ろしい😱
写真
①②③二重堀切。登城から1条目の堀切は石積みで補強されています
④堀切の先の削平地
⑤登城路には巨石が散在し虎口の様相
⑥⑦登城路。脇には県道が走り現代の切通しは断崖絶壁
⑧案内図
2021年10月07日 RED副将軍
古武之森城[安宅氏城館 周辺城郭]
安宅勝山城の五重堀切がある北尾根筋を比高100mほど登れば辿り着きます✨
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
詳細不明の山城です。
安宅氏の跡目争いによる内輪揉めに際して、阿波から小笠原右近大夫が来援して守備したと伝わっています。
急峻な安宅勝山城より更に比高があり、安宅勝山城の厳重な五重堀切が古武之森城に向けて構えられていることから、安宅氏と争っていた周参見氏の城であったとも見られています。
紀伊半島の先端に近く、安宅勝山城も登城は難易度高い部類です⚔
どうせなら、古武之森城も訪れてはいかがでしょうか。ここ単独ではなかなか来れません💦
見所
主郭の北側尾根筋は二重堀切で遮断。
主郭北側に僅かに石積みが残る。
主郭はシダに覆われ、巨石が顔を出す程度です。
2021年10月06日 RED副将軍
安宅勝山城[安宅氏城館 周辺城郭]
北尾根の岩盤掘削の五重堀切、南尾根の長大な三重堀切は必見です。
オススメ度 ★★★★★
安宅氏城館のひとつ。残念ながら国史跡の指定からは外れてしまいましたが、遺構の素晴らしさは並の史跡以上です。
安宅本城の南側を守り、海上監視の機能もした支城です。結構な山奥にあるので詰め城のひとつだったのかも知れません。
今回、先に口コミをされておられる城友さまのオススメ城として訪城してきました。
事前に聞いていたものの、過酷な登城でしたが遺構を見れば吹き飛びます。
登城口は日生神社から案内板が立っており、本来は廃果樹園からの登城となります。
しかし、登城から5分で背丈以上のシダに覆われ足元も全く見えません。
ちょうど草刈りをしていた地元の方に聞くと、地元でも長年ヒトが入ってないとのこと。しかし、子供の頃(50年前)によく登っていた別ルートがあるとのことで親切に登城口まで案内をして頂きました。本当に感謝です。
場所は日生神社の東側から谷筋を直登するルートです。急斜面にガレ場でしたが、シダ地獄に比べると余裕です。約15分で尾根筋に到達し、そこから左へ登って行きます。更に20分ほど登り、長大な三重堀切が見えると城域です。
山頂には土塁囲みの曲輪が二つ並列し、西側に横堀、更に西側に堀切が一条。そして、北側尾根筋には圧巻の岩盤掘削の五重堀切が…。しかも石積みの補強が為されており一番の見所です。
五重堀切の尾根筋を更に比高100mほど登り、対立していた周参見氏の城とも言われる古武之森城にも行くことが出来ましたので、お時間あれば是非ここも訪れてくださいませ。
歴史的には、築城年代、築城者は不詳。
1526年に安宅12代領主の安宅実俊が没したが、嫡男の安定丸が幼かったので、弟の定俊が一時的に家督を預かることになったが、跡目争いに発展。
安定丸は八幡山城の定俊を自害させて勝利するも、定俊の嫡男・安次丸がこの安宅勝山城に籠り、抵抗を続けたため、安宅氏は次第に勢力を消耗し衰退したと言われています。
写真
①②③北尾根の岩盤掘削の五重堀切
④⑤南尾根の三重堀切
⑥曲輪の西側下の横堀
⑦土塁囲みの曲輪1
⑧土塁囲みの曲輪2
2021年03月31日 左近衛中将かめかめ
神田城[安宅氏城館 周辺城郭]
持宝寺北にある駐車場に止めさせて頂き、いざ登城。駐車場を東に進み、用水路?にかかる橋を渡ると墓地があります。墓地を南に進むと金比羅神社の鳥居が見えてきます。そこを上がった所が登城口です。あとは10分程登ると素晴らしい遺構が待ってます。
城郭北の土橋付き三重堀切、曲輪下に堀切からの横堀、主郭南には歩くのも困難な三重堀切・・・など、見所たくさんあります。すさみ町へ行く機会のある方は、是非足を運んで下さい。かなり満足出来ます。
写真1:城郭北の三重堀切を下から
写真2:城郭北の三重堀切に残る土橋
写真3:登城路から最初に目に入ってくる城郭北の三重堀切
写真4:城郭北の横堀。堀切から竪堀→横堀へ変化
写真5:城郭南の堀切
写真6:城郭南の三重堀切(の二条)
写真7:城郭南の堀切からの竪堀
写真8:城郭南の三重堀切。規模がデカい!
2021年03月05日 梅鉢近江守Silvine
安宅勝山城[安宅氏城館 周辺城郭]
お城については先人の方が口コミされているとおり、素晴らしいお城です。登城路について少し。
日置川ICを降りて県道37号から国道42号に入り、日置大橋を渡って「南紀日置川」という大きな看板を右に下ると国道と並行する県道243号(旧国道)に入ります。トラス橋で川を渡って左折し川沿いを遡っていくと勝山城の案内があります。案内に従い右折して道の細い集落に入っていくと左手に縄張図のある城の案内板があります。ここが神社になっており駐車可能です。道を奥へと進み、右カーブの先のミラーのある丁字路を左折すると城の案内があり、先人様の書かれた廃果樹園の入口になります。
この廃果樹園が厄介で足場は悪く、3月でもかなり草が生えており冬場でも道が分かりにくいです。ただ、私が登った際にはピンクとブルーのリボンがかなりの数つけられており、迷うことはありませんでした。廃果樹園では基本的には果物を運んでいたレールに沿って登っていきます。途中一部レールから離れますが、リボンを目印に登りましょう。道が再度レール沿いを登るようになると、上に「←勝山城」の案内が見えるはずです。そこからは左へレール沿いに進むと整備された山道にたどり着きます。そこからは迷うところはないと思います。
遺構は本当に素晴らしいので、廃果樹園ゾーンを無事くぐり抜けて、お城へたどり着いてみてください。
2021年01月29日 イオ左衛門佐
土井城[安宅氏城館 周辺城郭]
史料の裏付けはないものの、江戸期に書かれた軍記物「安宅一乱記」によれば、土井城は安宅氏当主・安宅安定の弟で土井氏の家督を継いだ安宅基定が拠った城で、兄を滅ぼして当主の座を得ようと挙兵した際に戦場となったとされます。その真偽はともかく、安宅一族が城主を務める支城だった可能性はありそうです。
土井城は天徳寺の裏山に築かれた城で、天徳寺の駐車場に駐めさせてもらい、墓地の奥の登城口から防獣柵を開けて5分ほど登っていくと、水道施設らしき建物の奥に横堀がある……はずですが、シダの藪と化していて何も見えません。
さらに登った先にある虎口の手前と奥には石垣が設けられ、虎口を抜けると南の曲輪に至り、南東部に櫓台状の土壇、西辺から南西辺にかけて石塁があります。南の曲輪の一段上が主郭で、北端の櫓台(大日如来の石塔が祀られています)の北下では大堀切が北尾根を断ち切っています。
大堀切の先の北の曲輪に足を踏み入れたあたりから、シダの繁茂がさらに激しくなって顔の高さまで伸び盛り、足元も見えなくなってきましたが、もう少し行けば土井城最大の見どころである連続堀切群があるはず! と勇を鼓してシダをかき分けふみ分け何とか進んでみましたが……連続堀切群はシダの藪に沈んでいて何が何やら全くわかりませんでした。
横堀と竪堀を組み合わせ、虎口の導線に折れを設け、連続堀切群で尾根筋を遮断するなど、安宅氏城館跡の他の城に比べて技巧的な縄張で、大いに見応えがあるはずなんですが、シダのせいでその半分も目にすることができないというのは何とももったいないことですね。
2021年01月29日 イオ左衛門佐
中山城[安宅氏城館 周辺城郭]
中山城は室町期に榎本直光によって築かれたとされ、後に地名から田井(たのい)氏を名乗りましたが、安宅氏に攻められ被官となった後は安宅本城の支城として機能したようです。
中山城は田野井地区の小高い独立丘に築かれた館城で、北麓の登城口には説明板が建てられ、その前に車1台(縦になら3台ほど)駐められるスペースがあります。
登城口から5分ほど登ると副郭北下の二重横堀(外側)に至り、内側の横堀を越えて少し登ったところが副郭です。副郭は北辺と西辺に土塁をめぐらせ、土塁の内周と外周には部分的に石積みが見られます。
副郭南側の一段高くなったところが主郭で、西辺と南辺に土塁がめぐっていますが、発掘調査でも主郭の土塁には石積みは確認されなかったようです。
方形の曲輪を二つ並べて土塁で囲み、その周囲(東側を除く)に二重横堀をめぐらせた、構造としてはシンプルな館城ですが、堀幅は広く、切岸は高く、土塁は分厚く、重厚な迫力のある城でした。ただ、藪化していてよく見えないところも多く、もう少し整備されればさらに見応えが増すと思うんですけどね。
2021年01月29日 イオ左衛門佐
安宅八幡神社[安宅氏城館 寺社・史跡]
安宅氏の勧進と伝わる神社で、社務所には安宅氏城館跡の航空写真やパンフレット、古地図などが多く掲示されています。また、駐車場やトイレもありますので、八幡山城や安宅氏居館(安宅本城)登城の際には立ち寄る価値ありです。
2021年01月28日 イオ左衛門佐
馬谷城[安宅氏城館 周辺城郭]
一目坂トンネルの南出口からすぐ東に入り、製材所を抜けて紀勢道の高架をくぐって少し進むと、案内板と説明板のある登城口近くに車2台分ほどの駐車スペースがあります。
登城口から5分ほど登ると東尾根を断ち切る堀切に着きます。ここからが城域です。堀切から西に少し上ると腰曲輪があり、奥からロープ伝いに急斜面を登ると主郭です。主郭からは山本氏の支配地域である富田川流域を広く見渡せます。
主郭西下の曲輪は周囲を土塁が囲み、北西部の虎口を出て斜面を下っていくと、シダで見づらい部分はあるものの、西側斜面一帯に畝状竪堀群が広がっています! さらに竪堀の上端は横堀で繋げられていて、小さな城ながら境目の城らしい守りの堅さを感じます。
そして、最初の堀切まで戻って尾根沿いに数条の堀切や竪堀が設けられている(はずの)東尾根にも行ってみましたが、ほとんど自然地形な上に、シダが生い茂っていて何が何やらよくわかりませんでした。
2020年12月21日 装鉄城大膳大夫乱怒
安宅氏城館
紀勢本線紀伊日置駅前道路を歩いて、日置川を渡ると農家のあたりに看板があり、そこが安宅本城になります。徒歩約15分
また北の小高い山にある神社傍が安宅八幡山城への入り口となっており、上り口から約10分程で主郭到着。土塁・曲輪・空堀・堀切が良好に観察できます。
2020年05月23日 【G6】OROKA参議
土井城[安宅氏城館 周辺城郭]
紀州の土井城は安宅城の北西にある城。安宅氏の家臣である土井氏が入ったようです。
天徳寺の裏山の尾根に城は位置しています。お寺か近くの集会所に車は停めさせていただきましょう。
寺の裏手から尾根道をひたすら登りましたが、とにかくシダが凄い。シダをかき分け15分ほど登っていると、かなり明瞭な堀切とかカーブして長く取り巻く空堀とか出てきます。シダも凄いですが。
あと、随所に石垣というか石積が出てきて「え?マジで?」となります。このあたりは、城の遺構なのか寺跡とかの遺構なのかはイマイチ分かりません。けどまぁ、何にせよシダが凄かった。
…で、結局は道のシダに阻まれ、心が折れて本丸的なところまでは行けず仕舞でしたf(^_^;
オススメは…しま…
いや、まずは安宅城の八幡山城とか周辺の城の方を先に廻りましょう。たぶんそこで満足できるはずです。
シダまみれ体験したい人にはかなりオススメしますけどね!(`◇´)ゞ
2020年04月08日 天道式部卿早雲
馬谷城[安宅氏城館 周辺城郭]
安宅氏と山本氏が争ったといわれる境目のお城。
築城は1494年に安宅氏家臣吉田春秀と伝わる。
また、後に山本氏が支配していたが秀吉の紀州征伐のときに開城したといわれている。
2020年04月08日 大隅守上
馬谷城[安宅氏城館 周辺城郭]
馬谷城
草堂寺に車を停めて
世界遺産熊野古道を歩き途中峠の茶屋方面へ歩くと林道にぶち当たり左側へ進むと登城口が見えます。
道は整備されて歩きやすいです。
ここは 主郭背後の畝堀が超オススメです。
ただ 畝堀を見に行く際に急斜面を降りる形になるので それなりの装備をそれでも必死に降りた価値があります。
2019年11月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
古武之森城[安宅氏城館 周辺城郭]
古武之森城は安宅本城の南東約1.4km、標高301mの山塊山頂に主郭が存します。北麓からの比高は290m位でしょか。
行き方は同じ安宅氏城館のリア攻めマップにある安宅勝山城を参照して下さい。お城は安宅勝山城の五重堀切を越えて尾根伝いに20分位進むと辿り着きます。尾根上は藪もそんなに無く比較的楽に行けると思いますし現時点ではこのルートしか無いようなので安宅勝山城を訪ねたら是非こちらも一緒に見ておきたいところです。鬱蒼とした奥山に存していますのでこのお城だけの単独訪問は少し厳しい感じがします。
このお城は安宅一乱記に記述があり、その存在は知られていたものの何処にあるのか長い事判りませんでしたが、1977年に地元高校生4名によって発見されたというドラマチックな別の歴史があります。道なき道を進み4度目の探索で発見したそうでその苦労が偲ばれます。とても素敵なお話ですね。
お城は安宅勝山城に事実上隣接しており、元々安宅氏の城なのか、安宅氏の内紛の折に築かれた付城なのか、それとも安宅勝山城の詰城なのかは判らないところらしいです。安宅勝山城が五重の堀切まで造って尾根を断ち切り、このお城もそちら側に重きを置いている事から色んな想像が出来ると思います。ちなみに内紛の際には安宅勝山城は最後までしぶとく抵抗したとされています。
お城は堀切や竪堀が確認出来ます。畝状竪堀もあるらしいのですが自分には判りませんでした。また主郭には石積みがあるそうですがこちらも見付けられなかったです。主郭はシダシダしててシダックスでした。
全般的に色々甘いけどお城の雰囲気が十分に感じられてよかったです。紀伊の山の中に歴史と共に埋もれるところであったこのお城、発見した当時の地元高校生4名に敬意を表して訪ねてみては如何でしょうか。
2019年11月19日 ポリタンク大和守
安宅氏城館
この度、安宅氏城館群が国史跡指定に答申されましたが、残念ながら、安宅勝山城と大向出城(安宅氏の出城)は含まれていません。
安宅勝山城は以前に投稿したとおり難易度が高いですが、大向出城は比較的容易に見学できます。取付場所には案内板もあります。石積みを伴う二重堀切があり、オススメです。
また、もし、安宅勝山城に行くなら、五重堀切を越えて尾根筋を歩くと辿り着く古武之森城(古武ノ関)にも足を運ぶとよいかもしれません。安宅勝山城方向に堀切を備えていて、対峙しているかのような様が素敵です。
2019年11月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
安宅大野城[安宅氏城館 周辺城郭]
安宅大野城は安宅本城から日置川を渡った西方約400m、標高約25mの丘陵頂部に主郭が存します。南麓からの比高は15m位でしょか。
安宅本城は平地の居館であり、守りの要は周辺諸城に委ねられていた事は想像に難くありません。その中でも大野城は安宅氏の執事、大野氏が在城していたとされ、西方からの関門を担っていた事でしょう。
お城はすんごく小ちゃいです。余計な事しなけりゃ10分で廻れます。ただお城の北側は後世の改変で削平されてしまったらしく、今よりもう少し大きかったらしいです。又、お城の南東側に切り通しのような舗装路がありますが、見た感じ堀切だったかもしれません。
こんな住宅地の裏山にある小ちゃなお城ですが、感動するのは明瞭な堀切2条があって横堀も確認出来る事、帯郭は心眼が必要ですが、遺構の残存率は良好と言えるでしょう。
さらっと見る事が出来ますし、苦労対効果が極めて高いお城なので、安宅氏城館に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。
2019年11月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
紀伊安宅八幡山城[安宅氏城館 周辺城郭]
紀伊安宅八幡山城は安宅本城の北方約300m、南西へ延びる標高83mの山塊尾根上端部に主郭が存します。西麓からの比高は75m位でしょか。
安宅本城から北方を眺めるとお茶碗をひっくり返したような山が見えて思わずごはんが食べたくなりますがそれが城山となります。住宅地も近いし津波避難所にも指定されていて見た目もあまり期待出来ないのですが、驚愕の遺構が極めて高い残存率でお手軽に見る事が出来ます。個人的には古宮城や丸子城を見た時の感動レベルに匹敵します。安宅といえば誰でも水軍を想起しますが、高い築城技術を持っていた事を見せつけてくれます。
お城は非常に散策しやすく比高も大して無いのでルートを外れなければ誰でも気軽に見る事が出来ます。登城路に案内板がありますが、この全体図は簡易なものなので山城好きはルートを堂々と外れて下さい!主郭に一ヶ所進入禁止の為のものと思われる柵とかあったりしますが自己責任でお願いします。知らなければそれまでですが、行かなかったら後悔します。
このお城の凄い所はお城を巡る空堀にあります。雑兵の気持ちになって空堀を歩きましょう。空堀を歩けばその都度発見があり、その効果が理解出来、築城者の意図が解るでしょう。郭から見ると堀切だと思っていたものが所詮空堀の延長である事に気付かされたりもします。堀切は岩盤を切削してまで入念に造られており、その残存率は写真を見て頂ければ判ると思います。又、空堀は掘り残し部分が土塁や土橋として機能し土のお城好きには堪らない光景を醸し出しています。
山城に興味の無い方にはその入口になるかと思いますし、コアな方には楽しめるだけ楽しめる…そんな素晴らしいお城です。安宅氏城館に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2019年11月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
安宅勝山城[安宅氏城館 周辺城郭]
安宅勝山城は安宅本城の南方約0.8km、標高212.7mの山塊山頂に主郭が存します。西麓からの比高は210m位でしょか。
安宅本城は居館だと思うし遺構は見た感じ消滅していますので無視しても全然大丈夫ですが、安宅氏関連の他のお城は山城好きなら一度は見ておきたいものばかりです。他のお城は比較的楽に行けると思うのですが、このお城だけは非常に困難です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の日生神社を目標に設定して下さい。この神社の建つ塩野集落の東端に登城路?の案内板があります。ところが案内板は廃果樹園を案内するので誰でも「うっ、嘘つきっ!」とか呟いてしまいますが、間違ってはいないので安心?して下さい。実はこの廃果樹園が曲者でして、胸の高さまである歯朶植物が全面を覆い尽くし、造成された高さ50〜100cm位の土留めの石積みが十数段続いてます(所謂段々畑です。)。道は無く登城30秒で藪漕ぎとなります。諦めそうになりますが、既に引き返すのも面倒なので覚悟を決めて下さい!30分ぐらい苦闘すると青い害獣避けネットが見えますので、ここで少なくとも歯朶地獄から解放されます。ネットを越えたら北方へ進み、ようやく獣道程度の道が斜面に付いているのでそれに従うと途中で道が無くなり不安に駆られます。やけになって斜面を直登すると尾根稜線上に出ますので、向かって左へ進みましょう。緩やかな尾根で薮も無く一息つけますが、遺構らしきものが確認出来ないので再び不安に襲われます。でも5分も歩けば最初の明瞭な遺構、三重堀切にぶつかり、今までの苦労が倍になって感動に変わります。
お城は通称曲輪1、通称曲輪2で構成され、腰郭、帯郭が別に確認出来ます。通称曲輪2の南東側下には横堀があり、たぶんこの横堀を上部起点とする畝状竪堀が付いてます(2条ははっきり判る。)。通称曲輪1、通称曲輪2はどちらも全周土塁囲みで今でも高さは健在、通称曲輪2の土塁は内側に石積みで補強されていた痕跡があります。そして通称曲輪1から北東へ尾根を下ると圧巻の五重堀切が!岩盤を切削したと思われる堀切は石積みで補強されている箇所もあって本当に感動します。
帰りは行きに辿った道?を戻りたくなくて適当に当たりを付けて適当な斜面を雑に直下山、やめときましょう。
2017年01月05日 ポリタンク大和守
安宅氏城館
安宅勝山城を同時に訪れることをお薦めしたいところですが、道が直ぐ無くなりますので、方角等を把握して道なき斜面でルートを考えられる人向けです。土の三重堀切、岩盤の五重堀切など、見どころ多数。
2015年11月01日 カーネル
安宅氏城館
安宅の八幡山城に登ったら、本丸で慰霊祭をやってました
山頂にテントを建てて、非常に大がかりなものでした
ちょうどお昼御飯の時にお邪魔してしまい、何もしてないのにお弁当をいただいてしまいました。ありがとうございました
またお城は非常に手入れが行き届いており、遺構がキレイに残っていました。保存に携わっている方々にも感謝の気持ちでいっぱいです
2014年12月17日 北川幸人
安宅氏城館
日置川に架かる安宅橋の東詰にフォトギャラリーの看板があります。城跡は宅地や田畑になっていて、石垣には民家が建っています。
安宅集落の北側に、詰めの城 八幡山城があり、堀 郭 土塁などの遺構があります。
安宅氏城館の周辺スポット情報
安宅勝山城主郭(遺構・復元物)
空堀(遺構・復元物)
竪堀(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
空堀(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
三の曲輪(遺構・復元物)
空堀(遺構・復元物)
二の曲輪(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
説明板、登城口(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
安宅勝山城(周辺城郭)
紀伊安宅八幡山城(周辺城郭)
安宅大野城(周辺城郭)
古武之森城(周辺城郭)
中山城(周辺城郭)
土井城(周辺城郭)
馬谷城(周辺城郭)
神田城(周辺城郭)
大向出城(周辺城郭)
藤原城(周辺城郭)
周参見城(周辺城郭)
安宅八幡神社(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
駐車場(駐車場)
安宅勝山城登城口(その他)
馬谷城登城口(その他)
「安宅氏城館跡」として、国の史跡に一括指定されている。
安 宅 氏 居 館
日置川河口部付近の微高地上に立地しており、海上交通・流通に特化した熊野水軍安宅氏の本拠地である。ちなみに安宅本城跡は、周知の埋蔵文化財包蔵地名となっており、その「安宅本城跡」内に、史跡指定範囲「安宅氏居館跡」が包含されている。小字「城ノ内」を中心に、幅約10m程度の堀で北側と南側を区画し、西側は自然地形により低湿地状となっていたと想定される。東と南側の区画については、地下レーダ探査の調査成果による。居館跡の規模は、南北約120m、東西約100mの不整形な台形状を呈する。
本拠としての安宅本城跡は、安宅氏の来住より、16世紀代にかけて営まれていたと考えられ、16世紀末~17世紀初頭から前半頃には廃絶され、近世から現代にかけて田畑となっていた。その後、昭和20~30年代に再開発され、宅地化している。出土遺物から、紀伊半島を中心とする東西双方向からの交易・交流の様相を確認することができる。東側からは、山茶碗・常滑焼・瀬戸美濃系陶器・南伊勢系土師器、西側からは、瓦器・播磨型土鍋・備前焼などが搬入している。
安宅氏居館跡の特徴として、河川からの比高の著しく低い微高地に営まれており、常に水害の危険があったことが指摘されている。安宅氏があえて、この地に本拠を築いた理由として、水運の利便性を追及したことが挙げられ、船着場が居館と隣接する形で想定されていることも関連する。さらに16世紀前半代には、領域内の寺社整備と関連して、日置湊の整備も進められたと考えられ、日置湊から安宅の船着場・本拠への連携が想定できる。
八 幡 山 城
安宅氏居館跡の「詰めの城」であり、根小屋式山城となる。南北約200m、東西約120mの規模を測り、最高所は標高約80mである。尾根上の先端に位置しており、急傾斜かつ深田池がある東側を除いた三方向に、遮断施設(横堀・堀切)を設けることにより、城域の内外を明確に区画する構造となっている。曲輪は大きく三つにわけることができ、頂上部を一の曲輪が占める。一の曲輪は、楕円形状を呈しており、周囲に高さ約1~3mの土塁を巡らせている。曲輪内の中央部は岩盤が露出していることから、攪乱を受けていると考えられる。二の曲輪は、一の曲輪の南西側に位置し、比高差は約12mを測る。面積は、三箇所の曲輪のなかでもっとも広く、東側の切岸をのぞく北・西・南側に土塁を巡らせている。三の曲輪は、もっとも南に位置し、平坦面が他の曲輪と比較して狭くなり、すり鉢状を呈している。
二の曲輪は、平坦部のほぼ全面にあたる約1,000平方mを調査している。発掘調査により、二時期の遺構面が確認され、最終遺構面は火災に遭った後には再利用されていない。出土した遺物から、15世紀後半から16世紀初頭に城が機能していたと考えられる。とくに備前焼の出土が顕著であり、出土遺物の約8割を占める。
中 山 城
安宅地域よりやや日置川を遡った田野井地域に位置する。環流丘陵となっており、現流路と旧流路が形成した谷によって、独立丘陵状を呈している。最高所は約38mを測り、大小二つの方形の曲輪が組み合わさる。その構造から「館城」としての評価もされており、田野井地域の支配の拠点と考えられる。遺物の出土量は、八幡山城跡・要害山城跡と比較して非常に少ないが、15世紀後半から16世紀初頭を主としながら、16世紀後半や17世紀前半の遺物も出土している点が注目される。他の山城と異なる出土状況は城の位置づけを考える上で重要である。
土 井 城
富田荘から安宅荘への街道沿いの丘陵上に築かれている。南北約240m、東西約80mの規模を測り、尾根筋の自然地形を活かした堅城である。境目の城である「要害山城跡」とは、熊野参詣道大辺路を介して、対となる城跡であり、安宅荘への北側入口となる要地を占めている。そのため、投入された土木量も大きく、築城技術が概して高いのが特徴である。
発掘調査が実施されていないため、時期の把握は困難だが、15世紀~16世紀代の備前焼甕の底部片が表採されている。これまで時期比定の資料に恵まれていなかった土井城跡の年代観を考えるうえで重要な資料となる。
要 害 山 城
熊野参詣道大辺路富田坂を通じて連携している境目の城(富田荘との境)である。安宅氏の最前線基地として、富田荘(奉公衆山本氏の領域)側の斜面に対してのみ畝状空堀群を設け、防御性を高めている。山本氏は、明応4年(1495)時点において、義就流畠山氏派(基家)として活動しており、政長流畠山氏派(尚順)である安宅氏とは一時的に敵対関係にあったとみられる。出土した遺物から、城跡が機能していたのも同時期であり、城館の位置づけが明確な事例となる。