手取城(てどりじょう)
手取城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 和歌山県日高郡日高川町和佐
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 玉置大宣
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 玉置氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 町史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
亀山城(和歌山県御坊市)[7.0km]
赤松城(和歌山県日高郡)[7.8km]
入山城(和歌山県日高郡)[8.2km]
小坊子城(和歌山県日高郡)[10.5km]
本之脇城(和歌山県日高郡)[11.0km]
田尻城(和歌山県日高郡)[11.8km]
平須賀城(和歌山県日高郡)[13.4km]
湯浅党城館(和歌山県有田郡)[15.1km]
鳥屋城(和歌山県有田郡)[18.2km]
峰山城(和歌山県田辺市)[20.0km]
手取城の解説文
手取城の口コミ情報
2024年08月13日 織田上総介晃司
手取城
東の丸まで車で行けそうですが、せいぜい軽トラ程度。リア攻めマップの駐車スペースに停めるのが無難です。私もここに停めました。
古城行道の石碑からも遺構がありますが…イノシシのくくり罠を仕掛けてあるとのこと。ビビリなので散策を諦め先へ進む。
見所は多いのですが、夏草が茂り散策範囲は狭まってしまいます。やはり山城は秋〜冬に限ります。
2023年04月03日 RED副将軍
手取城
和歌山が誇る堀切パラダイス
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。南北朝時代に玉置大宣によって築かれたと云われます。
湯川氏とともに日高地方を二分する勢力であった玉置氏の居城。
1585年、織田信長の紀州侵攻に対し、玉置勢は織田信長配下の羽柴秀吉軍に呼応。羽柴秀吉と対決姿勢の湯川勢と合戦となり落城しました。しかし紀州平定後は玉置氏が城主に返り咲きます。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、戦後、改易となり手取城は廃城となりました。
見所
東尾根の大堀切は、城域の数ある堀切の中で最も素晴らしいと感じます。岩盤掘削し両サイドは竪堀となり落ちており大迫力です。
主郭から北側の尾根筋には4連続堀切によって区画された小郭が連なります。特に一条目の堀切は深さ鋭さともに最強レベルで直降は困難。遠回りでも主郭西の堀切を降ってからトラバースする方が無難です。
西曲輪から北尾根にも連続堀切あり。ここも両サイドは竪堀となり落ちます。ここは見逃し易いので注意。
2022年05月16日 イオ左衛門佐
手取城
(続き)
手取城は長大な堀切によって東西に分かたれ、大堀切の西側には東西二段のよく整備された西の丸が広がっています。西の丸の中央北部には巨大な土塁があり、西側上段にはのろし台と呼ばれる櫓台があります。西の丸の南東下には水の手曲輪があり、南麓の登城道沿いの溜池に続いている…はずですが、見落としてしまいました。
西の丸から北西斜面や西下の堀切に下りていく道は見当たらないので、大堀切まで戻って北西斜面へ。大土塁の北下から小さな尾根が北にのびており、尾根の付け根と先にも堀切や竪堀が設けられていて、小さな尾根にも怠りなく防備を固めています。北西斜面には数条の竪堀があり、枯葉が堆積しているものの、なかなかの規模であることがわかります。竪堀を越えた先が西尾根の二重堀切で、内側の堀切はかなりの深さと幅がありました。二重堀切の先にも西尾根の曲輪群は続いているようですが、藪が激しくなってきたのでこれ以上の探索は断念し、二重堀切の間の竪堀から南下に見えている登城道まで直降しました。
登城道を駐車場に戻る道中にも西尾根の堀切や竪堀が見られ、内側から四条目の堀切がある古城行道の石碑までが城域かと思っていましたが、石碑から駐車場までの間にも二条の堀切があるようで、探しつつ歩いて行くと縄張図と照らし合わせてようやくわかる程度(ほぼ藪)の堀切がありました。東の丸まで舗装道が続いてはいるものの、道幅は狭く南側は崖(ガードレール無し)なので、土取場の駐車場に駐めての登城をおすすめします。駐車場から歩いても10分あまりで東の丸に着きますし、道中の遺構も見逃さずに済みますしね。
2022年05月16日 イオ左衛門佐
手取城
土取場に造成された駐車場に車を駐めて登城開始。古城行道の石碑のあたりから道路沿いに堀切や竪堀っぽい地形が見られ、笹藪と化した溜池を横目に進んで東の丸に到着。細長くのびる東の丸の北辺には分厚い土塁が長く続いています。東の丸東下には周囲を土塁で囲んだ腰曲輪があり、その先は二重堀切で尾根を遮断しています(ただし外側の堀切はシダの中…)。東の丸南下の帯曲輪の南斜面には竪堀が何条かあるようですが、浅くなっていてよくわかりませんでした。東の丸北下の帯曲輪の北斜面には三条の竪堀を落としており、その帯曲輪を北西に進むと北尾根の付け根に至ります。
北尾根は四重の堀切といくつかの竪堀により遮断され、堀切はそれぞれ状態良く遺っていますが、中でも最も内側の堀切は幅も高さもあり、本丸側は急峻でとても登り降りできません。また北尾根側の曲輪にも土塁を巡らせて厳重に防備されています。
北尾根を往復した後は本丸へ。堀切からは直登できないので、西側に回り込んで登って行くと、北西斜面には石垣が広がっていました。そして本丸北下の腰曲輪と帯曲輪を経て、裏手から天守台とも呼ばれる本丸に到達。本丸には建物礎石群が見られ、西側の眺望が開けています。本丸南下の二の丸は公園として綺麗に整備され、城址碑やテーブル・ベンチが設置されています。二の丸の南下には三の丸が広がっており、三の丸北西端から大堀切を越えて西曲輪群に向かいます(続く)。
2022年01月03日 鈴木剛
山崎城[手取城 周辺城郭]
鎌倉時代初期の城跡で川上氏の居城だったようです
2021年04月11日 RED副将軍
連続堀切[手取城 遺構・復元物]
西曲輪から北尾根にも連続堀切あり。
両サイドは竪堀となり落ちる。
見逃し易いので注意。
写真は西曲輪側から1条目と2条目。
地点登録は2条目。
2021年04月11日 RED副将軍
4連続堀切[手取城 遺構・復元物]
主郭から北側の尾根筋には4連続堀切によって区画された小郭が連なる。
なお、1条目の堀切は高さ鋭さともに最強レベルで直降は困難。
遠回りでも主郭西の堀切を降ってからトラバースする方が無難です。
写真は主郭側から1条目から4条目。
地点登録は先端の4条目。
2020年12月25日 野呂利左衛門督休三
手取城
和歌山市になりますが和歌山県立博物館の常設展示にこの城の推定復元模型があります。
2019年04月30日 大隅守上
駐車場[手取城 駐車場]
城跡近くまで行けますが道が凄く狭いです。なのでこの付近に停めて歩くの方が良いです。
2017年05月11日 あきおこ
手取城
【アクセス】JR紀勢線和佐駅からほぼ真東に向かう道10分ほど走ると山側の分岐にコンテナが置いてあり城の看板があります。分岐を登った所に重機で削平された駐車場がありますので車はここに止めます。簡易トイレがあります。城跡中心部はこれより先徒歩で約10ほどです。
【見どころ】駐車場から数分で土橋のある堀切と虎口があります。道を進むとため池を経て広い削平地の東郭に至ります。ここにも簡易トイレがあります。東郭の北側には幅の広い土塁があります。土塁下にはひな壇状に帯郭が確認できました。東郭南側はみかん農家の方の作業場があるので散策には注意が必要です。東郭の西側が二の郭、北側に主郭があります。いずれも綺麗に削平されています。更に西の堀切を経て西郭があります。主郭北尾根には、ほぼ等間隔に4条の堀切と縦堀が連続します。特に主郭側1条目の堀切は規模が大きく迫力があります。紀伊地方最大級の山城で見どころ豊富な城だと思いました。
2014年11月22日 蔵人頭あさよし
手取城
駐車場の案内板ができています。ただ、駐車場までの道はすれ違い不可な感じです。
別所谷の「城山」に築かれた手取城の跡は、国鉄和佐駅の北東約1.5㎞に所在する。
構造
手取城跡は、標高17mの「城山」に中世山城の跡を残している。本丸跡は城山の最高所にあり通称「天守台」と呼ばれる高さ約7.5mの高台である。東西約20m、南北約40mの広さをもち、礎石らしき石が無造作に遺っている。ここからの眺望は広大で、湯川氏の亀山城跡をはじめ、日高平野の大半を一望することができる。
二の丸跡は、本丸の南下に位置し、東西10~30m、南北約35mの台形で東方の寺院跡に続く。素焼きの巴瓦や布目瓦が当地より多く出土しており、「手取城址」の碑もここに建立されている。
東の丸跡は、城内で最も広い曲輪。本丸より20mほど下った地にあって、東南に長く約80m、幅15mでその東方部には土塁が延びている(この土塁は東の丸寺院跡と同じ高さでつづいている。おそらく、寺院への通路もかねていたものと思われる)。曲輪の南方下には深い空堀を挟んで、2つの付曲輪が守りを堅めている。捨曲輪であろう。いずれも東西約20m、南北約10mの平地である。
東の丸跡の北端は一段高くなった所にある。この地より寺院の存在を示す瓦が出土しているという。
西の丸跡は、本丸の西方大空堀を挟んで存在する。本丸より約10m下にある。中央には高さ2.5mの五角形の「のろし台(仮称)」があり、ここからは支城の山野城の本曲輪が望める。この曲輪と東寄り3m下の蔀(しとみ)土塁と思われる大土塁が付曲輪と接続して、西の丸は形成されている。蔀土塁は外部から見透せないようにしたため、当付曲輪は武者溜り的存在であったと推測できる。曲輪は更に西方に5本の空堀と共に延び、その中には墓地の跡も確認されている。今も墓石に使用した石が散点している。ここから西方にも曲輪が続くが、造りはやや雑となる。最も西寄りの地で確認されている空堀跡の脇に「古城行道」の石碑がある。つまり、手取城は、本丸、二の丸、東の丸を中心とする生活場と、西の丸の見張所更に墓地から西側と、大きく3つの構成から成り立っている。
溜池は、井戸の少ない手取城においては貴重な水瓶であった。本丸跡と西の丸跡を遮る空堀の側を「風呂谷」と呼び、その東脇に溜池の跡を見ることができる。この貴重な水資源は、溜池上の「水の手(曲輪)」によって守られていたようで池の上に方形の台地が石垣によって築かれている。それは「水の手櫓」といえよう。この石垣は手取城内で最も集中してみられる個所である。
空堀跡は12本確認されている。いずれも幅広く深い。中でも西の丸の西真下と、本丸の北方に連なる4本の空堀跡は、その堅固さにおいては非常に見ごたえがある。また東の丸の北端に堅堀と思われる窪地も見受けられる。このような堀は、まだ他所にも存在したようである。
遺構
城跡は桜を植えるなどして保存に気を配っているが、生蓮寺に安置されている玉置直和木像が、一時カカシに使用されていたように、手取城跡も放置され、石垣や墓石が持ち去られた時代があった。昭和50年に城跡は下刈りがされて、原型が一見できたが、その後再びその姿は、草木と笹薮に埋まろうとしている。歴史
南北朝の争乱期に北朝方に味方していた玉置氏の一族は、やがて日高川上流に進出して、山地荘(日高郡龍神村)七ヶ村を領して、鶴ヶ城(同村東)を築いた。玉置下野守直虎を城主として、以後山地玉置姓(山地氏)を名乗った。文和元年(1352)ごろ、同族の玉置大宣が日高川を下って上和佐(川辺町)に進出。ここで山崎城を根城にしていた川上兵衛則秋を攻略。のち別所谷に本城を築いた。その城は、自らの手で山崎城を攻略する事ができたので城名を「手取」と名付けたといい、姓を山地玉置に対し、和佐玉置氏(玉置氏)と称した。領地も次第に拡大され「野口村(御坊市)ヨリ川上福井村(龍神村)迄并有田郡津木村今地壱万五・六千石領主二而」(『南紀土姓旧事記』)にも及んだという。
これだけの勢力を誇りながら城主は、初代大宣と10代大膳直和の名しか伝わらず、城跡の記録も乏しい。僅かに『紀伊続風土記』に手取城跡として「村の東にあり東西二町南北一町 玉置氏の本城なりといふ」とあるのみで、城郭を詳細に伝える記録は見られない。また、県下の大半の城館が、秀吉の南征軍(紀州征伐)の前に落城しているのに対し、手取城は玉置直和の義父湯川直春に攻められたという異例な落城の道を歩んでいる。
中紀(中部紀州)の旗頭ともいわれた湯川直春は、手取城主玉置直和のもとに娘を嫁がせたことによって、義父の縁を結んだ。それほど両者の勢力が強かった現れで、両者の争いを防ぐひとつの手段であった。しかしその直和が湯川直春に従わなかったことが、落城の運命をたどったといわれている。
秀吉の南征の際、共に戦おうと誘う湯川直春に、直和は、拒否の旨を使者に伝え、秀吉側に味方する気配を見せた。これに立腹した湯川直春が手取城に二百余人の軍勢を送った。この時直和は、坂ノ瀬(上和佐と若野の間)に柵や濠を掘って大軍に備えた。この合戦を「坂ノ瀬合戦」として、その様子が「玉置家系図」に記されている。
しかし、湯川直春にとっては、この柵よりも何よりも攻め切る決心を鈍らせたのが、直和のもとに嫁がせた娘のことであったという。天正13年(1585)3月25日、親と娘の悲話を残して(『湯川実記』)湯川直春は、島右馬允など二百騎を和佐に送って、手取城攻めを決行。この経線を直和が秀吉側の神保、白樫氏に通報したため、秀吉の南征軍は湯川直春の居城亀山を攻略。直春は城を焼いて敗走し、直和は帰順してのち徳川氏に仕え、尾張侯の支配下になったと伝える。
参考文献
・川辺町史。