亀山城(かめやまじょう)
亀山城の基本情報
通称・別名
- 丸山城、湯川城、湯河城
所在地
- 和歌山県御坊市湯川町丸山
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 湯川光春
築城年
- 室町時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 湯川氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 県史跡(亀山城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
入山城(和歌山県日高郡)[1.5km]
本之脇城(和歌山県日高郡)[4.3km]
小坊子城(和歌山県日高郡)[4.9km]
手取城(和歌山県日高郡)[7.0km]
赤松城(和歌山県日高郡)[11.8km]
湯浅党城館(和歌山県有田郡)[14.3km]
田尻城(和歌山県日高郡)[18.3km]
岩室城(和歌山県有田市)[19.3km]
平須賀城(和歌山県日高郡)[19.3km]
鳥屋城(和歌山県有田郡)[19.9km]
亀山城の解説文
亀山城の口コミ情報
2024年01月03日 国府左京大夫城介
小松原館[亀山城 周辺城郭]
守護館にも匹敵する湯川氏の居館
【歴史】
天文18年(1549)頃に、湯川直光(湯川氏第11代)が土居を築いたと伝わる。
天正13年(1585)に豊臣秀吉の旗手征伐が始まると、湯川直春(直光の子・湯川氏第12代)は熊野山中に退去し、その際に居城の亀山城と共に小松原館にも火をかけたと伝わる。
別名:小松原土居、小松原屋敷
【遺構】
亀山城の南東950mに位置し、東西225m・南北200mにもなる方形居館であった。
遺構は湯川子安神社に館の庭園池の跡が残るのみである。
往時の館は、高校と中学校の敷地に位置し、発掘調査から北側と西側には堀の跡が確認され、特に西側の堀は二重堀だった。また、東側にも外堀があり、堀底から柱が出土したことから、搦手虎口に架けられた橋跡と推測されている。
【感想】
紀州において強大な勢力を誇った湯川氏の居館跡ですが、当の湯川氏については『センゴク』に登場するまで全く知りませんでした。
今回はその湯川氏の居城である亀山城と、平時の居館である小松原館を両方訪れました。亀山城は正に戦時の詰城ともいえる巨大な山城でした。この小松原館は平時の居館ですが、発掘調査の結果からは二重堀を施すなどある程度の防備を備えていることが分かります。
しかし、遺構として確認できるのは湯川子安神社にある庭園池のみですが、この池は館の東南に位置しています。そのため、小松原土居は花の御所や守護館を模して建てられたようです。あとは、僅かに道路の形状から外郭部とかを推測することができると思われます。
神社内には樹齢千年以上の樟があり、小松原館が在った頃から存在していると思われます。
亀山城をリア攻めするのであれば、この小松原土居も併せて訪れることをお奨めします。駅近でもあり、ぱっと見ることが出来るので時間調整するのにも丁度いいかと思います。
【アクセス】
御坊駅から徒歩6分程。
駐車場はなく、神社前の道は細いので路駐は不可。
【写真】
①湯川子安神社
②石碑
③説明板(湯川子安神社)
④⑤庭園池
⑥樟
⑦堀跡
2024年01月01日 宇治ひろの勘解由長官ふくやん
亀山城
2023大晦日に攻城。海抜121mまで一気に登る感じでキツいです。災害時の避難場所としても整備されていて大事にされています。削平された本丸や堀切、切岸、土塁などが確認できます。コンパクトな面白い史跡です。
2022年05月17日 イオ左衛門佐
丸山中央集会場[亀山城 関連施設]
丸山中央集会場には「亀山城址護持顕彰会」の看板が掲げられ、亀山城の説明板や石碑が建てられています。集会場の駐車場に車を駐めさせてもらって登城しました。
2022年05月17日 イオ左衛門佐
出城[亀山城 遺構・復元物]
登城道から分岐した舗装道から案内表示に従って鳳生寺の方向に進み、5分ほど歩いたあたりで右手に広がる梅園の奥の竹藪が出城なので、梅園の南縁を奥に進み、丸木橋を渡って出城へ。
出城は主郭の周囲に腰曲輪や帯曲輪を配し、北辺に横堀をめぐらせた構造で、東端は三重堀切により東尾根を遮断していますが、竹藪と雑木林と化していて探索しづらい状況です。
2022年05月17日 イオ左衛門佐
亀山城
南北朝期に湯川光春が築いた城で、室町幕府奉公衆を務めた湯川氏の本城として200年にわたりこの地を治めました。羽柴秀吉の紀州攻めでは、湯川直春は亀山城を焼き払い退去して熊野山間部で抵抗を続け、和睦により本領安堵されるも、翌年に謎の急死(謀殺?)をしています。
日高平野の中央に位置する亀山の山頂を中心に曲輪群を配した本城と東尾根の出城で構成される山城で、南麓の小松原館の詰城として機能したと考えられます。
亀山は津波の避難場所に指定されているため山頂まで舗装道が整備されており、あちこちに設けられた案内表示に従ってみかん山を登ること15分で「本城」と呼ばれる山頂の主郭部に到着。南北二段からなる主郭は周囲を分厚い土塁で囲み、土塁の南東隅、南西隅は櫓台状になっていて、南西隅からは日高平野を一望することができます。主郭下段の南部と西部には平入りの虎口が開口し、大手口にあたる南部の虎口には鏡石状に巨石が置かれています。坂虎口状のスロープから主郭上段へ。主郭上段には城址碑と亀山城主湯川氏供養塔が建てられています。北辺の土塁に上ってみると北下に腰曲輪が広がっており、切岸は急峻でなかなかの高さがあります。北下だけでなく主郭の南西下や南東下にも整備された腰曲輪があり、さらに主郭部の周囲を帯曲輪が幾重にも囲んでいたようですが、現在では段々のみかん畑になっていて往時の面影は窺えません。また、南東隅の櫓台から南東に派生する小曲輪群にも行ってみましたが。主郭部と違ってこちらはほぼ未整備で、雑木林の中に階段状の曲輪群が見られるくらいです。
2021年03月21日 はらいし
亀山城
御坊駅から往復1時間位でしょうか。
電車の本数も少ないので丁度いい時間かも。
地域がら、地震=津波の地域なので避難所となっているようなので、登城口は何本かあるようですが、別れ道には必ず避難所への矢印がありますので迷う事はないでしょう。
非常時に物資を搬入するためでしょか、頂上付近まで道は拡張舗装をされ、車も通れそうですが、一般車の進入は禁止されているみたいです。所々石垣が見られますが私には、当時のものか、後に積みかえされたものか判断できません。
帰りに何気なくとなりの道成寺に参拝をしたところ、安珍清姫伝説の舞台で、どこかで聞いた話だと思ったら、まんが日本昔ばなしで見たことがありました。二代目祟りの鐘は廃棄されていものを、後の紀州征伐の折に、仙石久秀が見つけて、京に持ち帰ったとの事。有料となりますが所蔵の仏像群は一見の価値有りです。
2018年05月26日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
亀山城
この亀山城麓の紀央館高校跡から湯川氏の小松原城館の遺跡群が発掘調査から判明したことが今年(2018年1月)に発表がありました。大きな濠を周囲にまとった規模に発掘チームも興奮した様子です。
また、私の推理ですが、普段はこの館で暮らしや政務をとり緊急事態には亀山城に退避する構えかと思いました。
山城登城散策されたら汗もかかれます。この紀央館高校から南に行き小松原南の交差点まで行けば(野天風呂宝の湯)がありますので汗を流されるのをお勧めします。
少しぬるめで長風呂派には喜ばれると思います(笑)。
ここでも食事休憩できますが、お勧めは御坊駅前のいきいき酒場です。しらす丼とうどんのセットは美味しいですよ(笑)。
2018年05月26日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
亀山城
JR御坊駅ホームの北側にある山が目的なのであるが、改札口は逆の南側•••。左手にコンビニがあり、ここで頂上で一人宴会用に食料と飲料水を購入。バスターミナルから西に伸びる道を歩き、北裏病院の前を通り過ぎて紀州鉄道の踏切を渡って直ぐに北に伸びる道を進みます。川にかかる橋を渡り左へ。後は亀山城までの看板がありますから探しながら進んで下さい。
登城手前に集会所があります。車も止めれます。ここから右手に登り道がありこれが亀山城入口。舗装化されてありスニーカーでも十分。山頂まで20分~30分で本丸下に曲輪、本丸の周囲に土塁、特に西側はかなり高いです。城趾のある本丸はかなり広いです。北側は切岸があります。本丸下に簡易トイレとテーブル、ベンチ。食事休憩も十分できます。たまに野兎が顔出しもあります(笑)。御坊の街を一望できる眺望は素晴らしい!紀州の湯川直春の底抜けに明るく豪快さが感じる城ですよ。
2015年05月22日 じゅん
亀山城
亀山城西側の丸山集会所に車を止めて登れます。
頂上まで四駆の軽自動車かバイクなら辛うじて登れますが、途中止まると悲惨です。
JR御坊駅北からも登れます。
2014年11月22日 宮内卿あさよし
亀山城
JRと亀山の間に丸山集会所があり、そこに車を止められます。案内板が親切
2014年05月13日 【隠者】史学会帰新参
亀山城
城跡の西側の丸山集会場に石碑があり、城山への入口もそばにある。山頂までは途中に案内があるので分かりやすかった。
山頂には本丸と周りの曲輪と土塁がよく残る。
今の遺構より実際の亀山城はもっと規模が大きかったらしい。
歴史
築城年代は定かではないが、湯川氏により築かれたと伝わる。湯川氏は南北朝内乱期には北朝に属して勢力を拡大し、少なくとも15世紀初頭には将軍直属で守護不入権を持つ奉公衆に編成された。戦国時代には、守護の畠山氏をも凌駕するほどの実力を備えていたという。
亀山城は小松原館の詰城として、15世紀中頃の両畠山氏の家督争いの時期に築かれたと推定される。畠山氏が政長流と義就流に分かれて抗争を始めると、湯川氏は政長流について戦った。その後は紀伊国内で地位が向上し権力を保持したようだ。
永正17年(1520)には、熊野衆と結んで紀伊国内に覇権を確立しようとした畠山尚順を、野辺氏らと結んで淡路に追放。以後、日高郡・有田郡にまたがる戦国領主として君臨した。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、湯川直春は抗戦を主張。娘婿である手取城主の玉置直和がこれに従わなかったため、200余名で手取城を攻め落とした。その後、秀吉の大軍に亀山城を攻められると、湯川氏は城を焼き払って退去し、後に和睦した。
遺構
日高平野の中央部にそびえる、標高約120mの亀山に築かれている。城東1.5kmには熊野街道、山麓には比井殿街道が通る。本城と、東尾根の出城で構成される。本城は上下2段に分かれ、直線的な土塁で囲まれた空間だ。南西隅や南東隅部には櫓台らしき高まりもあるが、堀切などの遮断線はなく、2か所の虎口も平虎口だ。
出城は本城の東尾根先150mのところにあり、現在は竹林になっている。削平のあまい主郭の東側に3本の堀切を設け、周囲に横堀のような溝を取り巻いているという。
本城と出城を合わせても小規模で、小松原館と比較すると面積は狭い。秀吉の侵攻時に城に籠らず逃げていることからも、籠城を想定した城ではなかったようだ。
交通
・西日本旅客鉄道・紀州鉄道御坊駅から徒歩約25分・湯浅御坊道路御坊ICから車で約15分
参考文献
・『図解 近畿の城Ⅱ』戎光祥出版、2015年。