万喜城(まんぎじょう)

万喜城の基本情報

通称・別名

万木城、万騎城、富山城

所在地

千葉県いすみ市万木字城山(万木城跡公園)

旧国名

上総国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

土岐時政

築城年

応永19年(1412)

主な改修者

主な城主

土岐氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸

指定文化財

市史跡

再建造物

城郭風建物(展望台)、説明板

周辺の城

大多喜城(千葉県夷隅郡)[8.0km]
一宮城(千葉県長生郡)[9.0km]
庁南城(千葉県長生郡)[13.8km]
勝浦城(千葉県勝浦市)[18.0km]
真里谷城(千葉県木更津市)[20.1km]

万喜城の解説文

万喜城(まんぎじょう)は、上総国夷隅郡(現在の千葉県いすみ市万木)にあった城。万木城・満喜城とも表記された。

概要
東西と北側を夷隅川沿いの崖に囲まれた東西約500m・南北800m(推定)規模の山城で、東西40-80m・南北190m(推定)の主郭をはじめとする3つの郭から構成されている。

伝承では応永年間に摂津国から移った土岐時政が築いたとされている。だが、上総土岐氏の系譜は不明な点が多く、築城年代および築城者は不明である。明応年間前後に土岐頼元が活躍し、後に上総土岐氏の菩提寺となる海雄寺を創建したとされている。後年の小田原攻めの際には土岐氏の兵力は1000騎とも1500騎とも伝えられる。

具体的な活動が知られるのは土岐為頼の頃からで、為頼は里見義堯と婚姻関係を結んでいたが、第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、後北条氏と結んで離反し、以後一貫した北条方となった。このため、万喜城周辺はしばしば里見氏や上総武田氏の侵攻を受けた。特に土岐頼春(為頼の子)の代の天正16年(1588年)から同18年(1590年)にかけて里見氏による3度の攻勢が行われるが、いずれも土岐氏の勝利に終わっている(「万喜・長南合戦」)。だが、天正18年の小田原攻めにおいて北条氏に味方したことから本多忠勝率いる徳川軍に攻め落とされ、米蔵跡と推定される場所からは焼米が出土されている。

小田原攻めによって土岐氏は滅亡し、万喜城も廃城になったと考えられてきたが、近年になって本多忠勝が大多喜城に入る前に一時的に万喜城を居城としていたことを示す文書の存在が知られるようになり、実際の廃城は忠勝が大多喜城を居城としていることが確認される天正19年(1591年)頃とみられている。

万喜城の口コミ情報

殺三千世界鴉⚡️晋作様[2016年12月22日]
万木土岐氏の系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説。
海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年。
親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年没とある。
やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。
頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。
また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明。
よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

為頼嫡子、三代城主の頼春の頃に小田原征伐の一環として本多忠勝に攻略され落城。
翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

まー宮内卿様[2016年10月30日]
城山公園までの道のり車一台分の道幅で途中信号機があるが対向車が居ても避けきれない。この口コミを書いてる最中一台来ただけ。土塁はわかったが空堀は雨のためぬかるんでいるため確認出来ず。

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