万喜城(まんぎじょう)

万喜城の基本情報

通称・別名

万木城、万騎城、富山城

所在地

千葉県いすみ市万木字城山(万木城跡公園)

旧国名

上総国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

土岐時政

築城年

応永19年(1412)

主な改修者

主な城主

土岐氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸

指定文化財

市史跡(万喜城跡)

再建造物

城郭風建物(展望台)、説明板

周辺の城

大多喜城(千葉県夷隅郡)[7.9km]
一宮城(千葉県長生郡)[9.1km]
庁南城(千葉県長生郡)[13.8km]
勝浦城(千葉県勝浦市)[18.0km]
真里谷城(千葉県木更津市)[20.1km]
本納城(千葉県茂原市)[20.9km]
佐是城(千葉県市原市)[21.3km]
久留里城(千葉県君津市)[21.5km]
千本城(千葉県君津市)[23.7km]
犬成城(千葉県市原市)[24.7km]

万喜城の解説文



万喜城(まんぎじょう)は、千葉県いすみ市万木(上総国夷隅郡)にあった日本の城。万木城・満喜城・万騎城とも表記された。

概要 

は東西と北側を夷隅川沿いの崖に囲まれた東西約500m・南北800m(推定)規模の山城で、東西40-80m・南北190m(推定)の主郭をはじめとする3つの郭から構成されている。

伝承では応永年間に摂津国から移った土岐時政が築いたとされている。だが、上総土岐氏の系譜は不明な点が多く、築城年代および築城者は不明である。明応年間前後に土岐頼元が活躍し、後に上総土岐氏の菩提寺となる海雄寺を創建したとされている。後年の小田原攻めの際には土岐氏の兵力は1000騎とも1500騎とも伝えられる[1]

具体的な活動が知られるのは土岐為頼の頃からで、為頼は里見義堯と婚姻関係を結んでいたが、第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、後北条氏と結んで離反し、以後一貫した北条方となった。このため、万喜城周辺はしばしば里見氏や上総武田氏の侵攻を受けた。特に土岐頼春(為頼の子)の代の天正16年(1588年)から同18年(1590年)にかけて里見氏による3度の攻勢が行われるが、いずれも土岐氏の勝利に終わっている(「万喜・長南合戦」)。だが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐においては北条氏に味方したことから、本多忠勝率いる徳川軍に攻め落とされ、米蔵跡と推定される場所からは焼米が出土されている。

小田原征伐によって土岐氏は滅亡し、万喜城も廃城になったと考えられてきたが、近年になって本多忠勝が大多喜城に入る前に一時的に万喜城を居城としていたことを示す文書[2]の存在が知られるようになり、実際の廃城は忠勝が大多喜城を居城としていることが確認される天正19年(1591年)頃とみられている[3]

アクセス 

  • いすみ鉄道いすみ線 国吉駅 徒歩41分

参考文献 

  • 【書籍】「千葉大百科事典」
  • 【書籍】「千葉県の地名」

万喜城の口コミ情報

2024年03月03日 :::真田安房守持郎❖
土橋[万喜城  遺構・復元物]



これまでこの土橋、小鳥の森尾根道から見学、空堀の先尾根の真上から見学、今日は竪堀も確認したく、いつもと逆の西側に降りてみました。
攻め手側からの土橋はいつもの倍の高さを感じました、登るのは不可能。やはり難攻不落!ここへは上行寺裏から竪堀を登ると土橋に着く。
❶❷西側からの土橋を見上げ、竪堀を見下ろす。
最高のポイントがありました。

確認のため、倉の台下の巨大空堀まで歩き、また土橋方面へ戻る途中、上の尾根の堀切も西側から見上げられました写真❸

土橋の先を突き進むと東屋下の小鳥の森尾根道階段にぶつかり、更に直進で湿地帯に入り進むと竪横堀がある。
東屋へ向かい空堀を通過し、何本もある細尾根確認作業。やはり迷う、1本1本の再確認が必要。

地図作成中です。。


結果、次は機械持ち込んで倒木やら薮刈りしてきます!楽しいボランティアです。

興味のある方には万喜城ご案内致します。

2024年03月02日 :::真田安房守持郎❖
大野城V郭堀切[万喜城  遺構・復元物]



大野城跡行ってみました、万喜と大多喜の中間地点のこのお城、難攻不落の万喜城をどう攻めるか攻撃の拠点になっていたのでしょうか。

V郭はアルファベットのAそのままの形、堀切と繋がるように西側へは竪堀となって下っている。興味深い形の堀でした。

簡単に行けますので、この辺りまでいらしたら是非寄ってみてください。

2024年03月02日 :::真田安房守持郎❖
萱落城[万喜城  周辺城郭]



城谷城の東、1.5km辺りにある比高40m程の山。頂上からは金山城と城谷城がよく見え、連絡を取る手段の城だったのかと想像できます。登城口はなく苦戦しましたが1カ所だけ見つけ、そこから登りました、尾根を歩き見晴らしの良い場所からは城谷城、金山城が眺められました。

この城の情報によるとU字の空堀や大堀切が見られるはずたが、完全に見逃した。急斜面から携帯を落とし降りるのに苦労、降りた場所に自分の車が見えたのでここで終了。

もやもやするので、また来ます。

2024年02月29日 国府左京大夫城介
城谷城(飯田城・阻山城)[万喜城  周辺城郭]



金山城と相対する堀切に畝が存在する山城

【歴史】
築城者・築城年代共に不明。

戦国時代末期には、この辺りは、里見氏・正木氏・北条氏・土岐氏が争っており、南側にある上総金山城と敵対する勢力が築いたと思われる。

別名:飯田城、阻山(そばやま)城

【遺構】
城谷(しろやつ)城は万喜城の南に約5kmに位置する山稜(標高88m/比高68m)に、南北700m・東西650mにも及ぶ巨大な連郭式の城郭です。
幾つかの尾根のピークに曲輪を築き、曲輪と曲輪の間には堀切を設けている。その堀切の間には、畝を設けて、行動の阻害を図っている。曲輪には切岸が施され、その下には腰曲輪が形成されている。更に曲輪から派生する尾根は、房総の城の定番ともいえる堀切を切っている。
南にある金山城を備えるためなのか、一番南の曲輪は南側に土塁をきっちりと造っている。この曲輪の北側は20mほどの急斜面となっており、容易に侵入することはできなくなっている。その更に南西側の尾根を進むと、二重堀切で守られた曲輪が存在している。

【感想】
金山城を堪能した後に、この城谷城を登りましたが、両城をがっつりと回ったので、かなりへとへととなりました。基本的に山林のため、遺構はほぼ完全に残っています。また、思ったより藪が少なかったため、遺構をよく確認することが出来ます。しかし、城谷城は曲輪間の高低差があり、加えて前日の雨の影響か一部ぬかるんだ箇所(元々粘土質の地層)があるなど、かなり体力を削られました。特に遺構の項でも記載した南の曲輪の急斜面はかなりきつかったです。現在は木々があるので、それに掴まれば登れますが、往時はどのように登ったのかかなり気になります。

この城の最大の特色が堀切に畝が存在していることです。北条の城みたいな畝ではありませんが、場所によっては複数の畝を確認することが出来ます。もしかすると、北条の築城技術が房総にも流れてきたのかもしれません。
一方で、南の曲輪の造りはなんとなく里見系の城郭っぽい造り(千本城、秋元城あたり)をしている気がします。色々な城の築城技術が模倣された結果、境目の城として、このような巨大な城郭ができたのかもしれません。

【アクセス】
いすみ鉄道の上総東駅から徒歩で約25分。

【写真】
①遠景(手前が城谷城、奥が金山城)
②③堀切
④北曲輪の堀切の畝
⑤南の曲輪の北側の堀切
⑥南の曲輪の土塁
⑦南の曲輪の南西側の堀切
⑧南西尾根にある曲輪の堀切

2024年02月29日 :::真田安房守持郎❖
万喜城堀跡[万喜城  遺構・復元物]



万喜城堀跡探してみました、北側の堀跡の土手のような物を確認できました、写真❶です。南側は竹藪に突入しないと確認不可でした。

この場所は天然の要害夷隅川が防御しています、その川の蛇行している箇所写真❸、勢いよく流れ出そうな位置に堀跡があります。守られている場所は内宿と言い城主、家臣団集落です。浸水防御の堀跡だと思われます。写真❷は堀跡と堀跡の中間の広場です。

北側堀跡から直線上の山麓には竪堀のような跡も確認できました、写真❹です。

万喜城の謎は深い…またお昼休み調査行います。

2024年02月18日 :::真田安房守持郎❖
喜原神社[万喜城  寺社・史跡]

喜原神社右側を登れば大寺城まで攻め込める。大寺青年館側は鉄塔工事のため通行止め。

2024年02月17日 :::真田安房守持郎❖
金山城[万喜城  周辺城郭]



万喜城ボランティアの持郎です。万喜五支城のひとつ金山城跡ついに、2024.2.10城友さんと初登城!近くなので3週連続で登城、1人で全部まわれました、興味のある方には案内できます。中型イノシシがすぐそこまで会いに来てくれました、ヤバッ。来るな!少し焦りましたが、主郭目前ここで倒される訳にはいかず、大きな声を出して退散させました!笑山に入らせてもらってる感謝は忘れていません、動物達の縄張り入ってると言う事。人間が偉そうにできる権利なんて自然界には全くありませんね。

この金山城跡は万喜城を守る城だと思いますが、その万喜城でも見た事のないような造りを見る事ができました。

気になる方、実際に目で見てください!案内します!が、冬だけでお願いします。

2024年02月11日 _ClaD
金山城[万喜城  周辺城郭]



歴史などの詳細不明の城だが、里見の城らしくない複雑な虎口などが特徴的。写真①のように横からは二重堀切に見える手前の堀底を抜けると、②のように右に直角に折れ、土塁の間を通ると堀切と土橋がある。里見の城を北条が改修したのだろうか。想像がふくらむ。

2023年04月11日 マタローちゃん式部大輔
万喜城



車の場合、近くまで行くと案内板と共に広い駐車場があるが、更に車で上がれるため、細い道だけどそのまま進む。するとトイレのある二番目の駐車場が出現。その入口付近に信号機があり、更に上まで車で行けるため、空いている時は上の駐車場がおすすめ。しかも結構広い。そこから模擬天守は直ぐの距離。ただ、天守と言っても展望台なので、城としての価値は疑問があるものの眺めは良かった。淡路島の洲本城と似ている気がした。

2022年10月31日 国府左京大夫城介
八幡城[万喜城  周辺城郭]



正木氏が築いた万喜城の向城

【歴史】
天正3年(1575)秋に、正木憲時が万喜城を攻めるために向城として築いた。しかし、翌年の北条氏政の上総侵攻により、正木憲時は万喜城攻めを断念し、廃城となった。

房総では珍しく向城として資料が残っています。佐竹氏の一族である北賢哲から当時正木氏の庇護下にあった太田康資に宛てた手紙(上杉氏と里見氏の再同盟の取り成しを依頼)の中に書かれています。その手紙の中で、「正木殿は万喜に向かっており、城を築いたことから、目的は達成間近ですね」といったことが書かれている。

【遺構】
万喜城とは夷隅川を挟んで、北西1kmに位置する標高45mの独立した台地に築かれている。
遺構としては、郭・堀切・喰い違い虎口・横堀・切岸が明瞭に残っている。特に、西側にある横堀はかなり大規模で、複数の折れがある。また、その横堀に南側には大手とあたる喰い違い虎口があり、三方を堀に囲まれた形状となっている。城内の最高所は東側(万喜城側)にあり、北側に伸びる尾根を切断する岩盤を穿つ堀切が残っている。

【感想】
かつては「ふるさとの森」という公園として整備されたようですが、現在は完全な山林となっています。そのため、八幡神社の背後にある主郭や、西側の横堀に接続する削平地に廃屋があり、山林の薄暗い雰囲気もあり少し怖かったり(-_-;)
山林になったせいで遺構は明瞭に残っています。特に、西側の横堀と喰い違い虎口、八幡神社背後にある岩盤堀切は見応えがあります。ただ、城内を東西に移動する際、中央部は倒竹が多く歩きにくいのが難点です。従って、中央部を通らずに、東西の登城口から回った方が早いかもしれません。

【アクセス】
万喜城から徒歩20~25分。
登城口は二か所あり、東側の八幡神社から登るルートと、北側にある溜池の方から回るルートがあります。溜池ルートは説明しにくいので詳細は省きますが、松林寺の方からは入れないので注意してください。

【写真】
①遠景
②八幡神社
③岩盤を穿った堀切
④東側の郭にある堀切
⑤中央部の郭
⑥喰い違い虎口(両側は空堀)
⑦空堀(薬研堀)
⑧西側の空堀(折れの部分)

2022年08月04日 RED副将軍
小浜城[万喜城  周辺城郭]



断崖絶壁の険しい岬に築かれた天然の要害🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1493年、万木城主である土岐頼定が家臣の鑓田勝定に命じて万木城の支城として築城。
1588年、鑓田勝定は館山城主である里見義頼の命を受けて相模国三浦で後北条氏と戦うも、その隙を乗じて勝浦城の正木氏が小浜城を急襲し落城します。里見氏は援軍を送るも奪回は出来ず。
1589年、鑓田勝定は夜襲で城に火を放ち、正木氏を追放し、小浜城奪回に成功しました。
しかし、1590年に本多忠勝が大多喜城主になると、小浜城は本多氏に攻略され廃城となった様です。

見所
三方が太平洋に突き出た岬の断崖絶壁に築かれています。
海蝕により崩落やコンクリートで虎口や土塁が固められたりとかなり改変されています。
小規模ですが断崖上に連なる郭はそれなりに楽しめました。

2022年05月10日 :::真田安房守持郎❖
臼井城[万喜城  周辺城郭]



臼井城は領地を守るために複数の城が同時に配置された鎌倉時代〜室町時代の城です。

【写真の説明】
❶唯一、登城出来そうな入り口ですが、
 民家の方が管理している雰囲気あり
❷入り口は低くはない段差あり
 これが将監淵か⁉︎
❸放置されてる竹林うっすら斜面がみえる
❹上には腰曲輪があるのかもしれない

夷隅川流域には42箇所、岬地区には岩熊城、小高城、鶴ヶ城、亀ヶ城、椎木城、中滝城など8ヶ所が認められています。

臼井城は井沢字城根にあり、西から東に突き出した半島状大地先端部の独立台地のような形。東西230m.南北120mの規模で、標高43m、水田面との比高は35mです。西は支谷を挟み眺洋寺のある大地に面している。

遺構らしいものは、腰曲輪状の段差を持つ平坦部が見られる、まだまだ調査されていない部分が多い。
『椿姫の悲恋の伝承』
眺洋寺近くに臼井城という城があり、『椿』という名の美しいお姫様がおりました。あるときお城の殿様と近くの山に遊びに出かけ誤って崖から落ちてしまいます。それを助けた道案内の猟師の若者と恋に落ちますが、身分が違い恋は叶いません。二人は亡くなり、二人を弔った眺洋寺には美しい紅白の椿が咲くようになったそうです。

参考 岬町史 いすみの民話

2022年05月08日 :::真田安房守持郎❖
小高城[万喜城  周辺城郭]



築城年、築城主、主な城主…不明 現在は東小高神社として、地元のお祭りなどで親しまれている。

【写真の説明】
❶東小高神社鳥居、ここから登城
❷枕木で作られた階段が続く
❸房総独特の白岩に苔、いつどこで見ても素敵
❹階段に並行するように掘られている
❺階段を登り小高神社、御神輿の曲輪に着く
❻1番高い位置にある土塁
❼西へ尾根は続くが倒木、倒竹のため進めず
❽堀に見える。階段脇の堀

比高30m程の城山で頂城付近には小高神社が祀られている。駐車場はありませんが、よく見て常識範囲内で迷惑にならなければ苦情も来ませんのでok!よろしくお願いします。

登城は鳥居から階段で上がれます。途中、階段と並行するように堀が掘られているように見えました。神社のある曲輪よりさらに上に土塁があり、そこも小曲輪になっていて、南側の先端は堀切のようで、階段隣の竪堀と繋がります。
L字で防御していたのだろうか。

獣道について行くと階段に戻れます。西方面へは尾根が続いていますが、倒竹多数にたまに倒木の繰り返しですぐ引き返しました。

もっと良い見方あると思いますので、行かれた方の口コミ載せてください。
よろしくお願いします。

小高城は、中滝城東南1.5Kmの所にあり、半島状の先端部。物見台のような砦が築かれていたのではないかと思う、神社以外は山林化していて倒木、倒竹もあるので、歩行困難でした。

2022年05月05日 :::真田安房守持郎❖
中滝陣屋[万喜城  周辺城郭]



中滝陣屋があったと思われる場所は中根小学校校庭の裏側、どのくらいの面積があったのかは不明ですが、現在は民家と竹藪、空地になっていて、残念ながら参考になりそうな遺構は全くありませんでした。

【写真の説明】
❶この空地も含め陣屋跡かもしれない
❷雑木林の中の雑竹林
❸民家手前の雑木林
❹左カーブミラーの奥は民家、侵入不可能

以上、たいした情報にはなりませんが口コミとさせて頂きます。見所はありませんでした。

2022年05月05日 :::真田安房守持郎❖
椎木城[万喜城  周辺城郭]



南西側の山頂にある不動堂付近が椎木城の主郭だったと思われるが、寺主さんの話しによると不動尊が祀られたのが800年以上前なのでここにお城があったのかは、疑問と言ってました。

【写真の説明】
❶南西側から見上げる椎木城跡
❷急な坂道を登る
❸この位置まで土木があり山だったそう、堀切りがあったようにも思える。
❹万喜城のある南西方面の山々
❺不動堂のある主郭下、曲輪が段々に続く
❻不動堂南側の土塁を歩くと東屋に着く
❼東屋下にも古屋あり主郭と2郭の間
❽電波塔のある曲輪が2郭になるか

古くからの街道は太東駅西側の椎木商店街の街道で伊南街道と呼ばれていた。現在の国道152号。伊南とは夷隅郡南部、伊北とは夷隅郡大多喜方面を指していました。万喜城に陣取る土岐氏と、伊北に陣取る正木氏は敵対関係にありました。それどころか南の大原に槍田氏、北には長南武田氏も穀倉地帯である万木の地を奪おうと死闘を繰り返していました。椎木城は北の武田氏に備える砦のような城。防御に適した急峻な高台から周囲を見渡し、いざという時に備えたのでしょう。

2022年05月03日 :::真田安房守持郎❖
和泉要害城[万喜城  周辺城郭]



自宅から見える山が城跡だったとは、まさに盲点でした。駐車場なしです。
【写真の説明】
❶東側より登城、伐採された斜面頂上より
❷更に上まで登れる
❸登れるがそこは竹藪で進まない
❹北東方面の細尾根
❺主郭の防御
❻竪堀のようにもみえる
❼東側麓には謎の穴
❽南側小浜城方面

東側の伐採された絶壁から攻め込んでみました。
ここは千葉市の企業が買収したらしく、ソーラーパネル設置工事が始まるようです。看板有
田舎の安い土地を買って都会の会社が自然破壊!
どうなのそれ⁉︎しかも城跡…如何なものか。
でも、登城しやすくしてくれてサンキュ!

伐採されたスペースを頂上まで登ると、段になるような防御になり、さらに上を目指せます。
しかし、竹藪で枯れた竹をバキバキ音を鳴らしながら突き進む事になります。
その音が響き近所の犬が即反応、わんわん!かなり吠えられました。笑
意外とすぐ諦めてくれる犬でした。

それはいいとして、竹藪を突き進み抜けると急激に降るスペースと北東側への細尾根、どちらに行くかの選択が現れました。
まず細尾根へ進む、しばらく歩くと二股に分かれ降ります、左は民家、右は東側の道へと通じる事を確認し、戻りました。
次、北西方向へ降りました。
また登りがあり進めば延寿寺辺りに出そうでしたが、とてもじゃないけど進む事の出来る状況ではなかったし、怖かったです。
そこで諦めて延寿寺へ向かう事に。
降りてしまうと登るのがかなり大変で、給水し休み休み登りました。
近いはずの伐採された絶壁がすごく遠く感じました、伐採スペースからの景色は、南側の大原にある小浜城と海から旧夷隅川を利用して万喜城攻めをしようと試みる敵の監視をしてたのではないかと、妄想してしまいます。

延寿寺に着き事情を話しましたが、良いお返事はありませんでした。
竹藪防御の真下まで確認しましたが、更に上まで登るのはかなり厳しいです。
まわり込むしかないですが…厳しそう。
延寿寺さんの管理敷地内の山で万喜城辺りを確認、重臣の吉野氏と万喜土岐氏はこの距離で何か合図を出し合ったのではとまたまた妄想。
和泉要害城、重要な役割をしてたのではないかと体感してきました。
登場の際はヘルメット着用してください。

2022年04月29日 :::真田安房守持郎❖
飯縄寺 [万喜城  寺社・史跡]



◎飯縄寺と万喜城の関係
万喜城主郭より南東方向に細尾根を行くと三角点のある頂上付近に飯縄権現様が祀られている。飯縄寺を訪ね伺ってみると、詳しくは分からないが飯縄寺から武田氏、土岐氏が伝え拡めたとのこと。他になにか情報があったら是非教えて欲しいと言われちゃいました。笑

◎牛若丸と天狗の伝説
この地には、源義経が京都から奥州に向かう途中に立ち寄ったという話が伝わり残っています。まだ、牛若丸の頃、京の鞍馬山で大天狗から武術を学んだことは有名ですが、その大天狗から『奥州に向かうなら、わしの知り合いのいる上総の国飯縄寺へ訪ねるが良い』と言われ、伊豆から舟でこの地に着いたそうです。

◎飯縄寺の彫刻と美術
◆初代伊八【1751〜1824】
名を武志伊八信由。現在の鴨川市に生まれる。欄間彫刻などにたくさんの名作を残し、とりわけ北斎に影響を与えたとされる波は有名で『波の伊八』と称される。

◎飯縄寺縁起
西暦808年(大同三年)慈覚大師開山。天台宗、明王山無動員飯縄寺。元は『満蔵寺』と号した。戦国の世に武田氏が伝え土岐氏に引き継がれて拡まった飯縄信仰により太東岬に別当として飯縄大権現を祀り、江戸初期に御本尊に迎え、『飯縄寺(いづなでら)』と改め現在に至る。

『飯縄大権現』は白狐に跨った御姿で火防.海上安全.商売繁盛.無病息災など十三のご利益がある。神仏融合の寺で天海とも縁が深く、江戸中期には東叡山(上野寛永寺)直轄となる。以来、地元はもとより江戸から参詣も多く、栄華を極め、寛政9年(1797年)現在の本堂が再建された。

県指定文化財:本堂.宮殿.棟礼3点など
市指定文化財:仁王門.鐘楼.水屋.マリア観音など

飯縄寺パンフレットより

2022年04月29日 坂東のダイ
万喜城



地域ボランティアの方々の日々の整備のおかけで、見学しやすくなっています 持郎さんに見所をご案内いただき感謝です 垂直切岸は深くとにかく見事😱堀切も多くとにかく素晴らしいです。まさに難攻不落。千葉県屈指の名城だと思いますので、まだの方は是非とも☝️

2022年04月29日 :::真田安房守持郎❖
和泉要害城[万喜城  周辺城郭]



【写真の説明】
❶南側からの城跡、山右切れた部分は細道。
❷延寿寺入口、山はびっしり竹で防御。
❸急な坂を登る延寿寺。
❹❺東側の細道沿いの側面、かなりの急勾配。

いすみ市岬町和泉にある延寿寺の背後で比高30m程の独立山にあった城。周囲は急崖に囲まれ藪化している、探索は冬場が良さそうだが、登城口はない。お墓参りを兼ねて延寿寺を訪問しましたが、見上げる範囲はびっしり竹で茂っていたので、ここからの登城は厳しいでしょう。東側の細い道路沿いが山の側面が伐採されていたので様子を見てそこから登ってみようと考えてます、また口コミ追加します。

城址周辺は吉野姓が多く、吉野氏は万喜土岐氏の家臣であると言う事で、吉野氏の居城と見るのが一般的な解釈である。土岐氏の重臣の居城としては、規模が小さ過ぎる気もする。吉野氏が土岐氏家臣団に編入される以前の古い時代の簡素な城とみるべきでしょうか。

2022年04月29日 にんにん相模守
万喜城



駐車場から、ちょっと登って景色がとても良い場所にある。

2022年04月09日 :::真田安房守持郎❖
土橋[万喜城  遺構・復元物]



万喜城の遺構、土橋をスポット追加してみました。写真持ってる皆さん載せてください。

地域のボランティア会、万喜城址公園桔梗の会に所属し作業しています。2022.2月より小鳥の森遊歩道にある倒木処理の作業をしています、数十本の杉の木が倒れていて遊歩道をふさいでいます。全く遊歩道ではありません、いつ木が倒れてくるかもわからない危険な状況なので現在は立入禁止になっています。特に土橋付近は風の抜けが良く、危ない木があり作業するのも命がけです。山の中は自己責任です!

万喜城は城域が広く削岩切岸、堀切など見所がたくさんあります。皆さんが安全に見学できる日を目指し努力しています。作業員らしい人物を見かけたら声かけてください、簡単に見れる遺構まで案内しますよ。

2021年10月24日 :::真田安房守持郎❖
万喜城



秋の大運動…いや、秋の大整備大会。地域の皆さんとボランティア作業して参りました。

本日は富士山の山頂が見守ってくれていました。外房にですよ!富士山見えちゃうんですから!テンション上がりますね。そのおかげで半日の予定が結局1日中やってしまいました。万喜城をツツジの山にしたいとの意向があり、ツルや雑草、雑木の除去作業でした。

いすみ市長も来られ差し入れもして頂きました。ボランティアに少し予算を…笑
整備作業頑張りますので、万喜城どんなお城なのか遊びに来てください。

【写真】
少しすっきりしたのがわかるでしょうか。

2021年06月09日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
日の子坂古戦場[万喜城  寺社・史跡]



日の子坂はいすみ市と睦沢町の境目にある1㌔超の峠道です。
「日の子」は以前「火の子」と表され、その名の通り1588・89年の2度に渡り、万喜土岐氏(土岐頼春)と庁南武田氏(武田信栄)との間で激しい戦が繰り広げられました。
いずれの戦も万喜土岐氏の勝利に終わりました。
道中は戦没者を弔った首塚が残っています。

2021年05月10日 :::真田安房守持郎❖
駐車場[万喜城  駐車場]



5月9日(日)万喜城址公園整備行ってきました。
毎週のように行ってますが…笑
三郭駐車場から突き出た部分の薮の刈込み、斜面を降り刈った物を担ぎ、斜面を登り運び出すの繰り返しを4時間近く行いました。

先端からの眺めが見たい一心で頑張りました!その結果、日が沈む頃先端の薮を切り開き景色をみれました、自分で作業し切り開いた所からの眺めは感激でした。
先端から覗くと万喜城特有の高さある切岸になっていて真下には曲輪(現在は民家)が見えました。
先端は立っているのが怖いくらいの高さでしたよ、気をつけてください。

次はひたすら薮を切り開きます!
見所たくさんの万喜城、いつか遊びに来てください。

2021年05月05日 里見伊豆守梶之助
万喜城



GW最終日の今日、いつもお世話になっている城友さん、今日初めて会った城友さんと万喜城のリア攻めに行ってきました。

本格的なリア攻めは初めてだったので、準備不足やら体力不足、知識不足やらで悔しい初リア攻めとなってしまいましたが、辛い中でも楽しく、いい経験になりました。

この万喜城という所は地元では有名な山城で、上総武田氏が建て、その後上総土岐氏の居城になったと言われています。(このあたりは諸説あります)難攻不落と言われ、廃城とはなったものの、ついに武力によって落城する事はなかったと言われています。

私はお城素人なのでお城の中身は詳しく説明できませんが、城友さんを始め、たくさんの方が口コミを書いてくれていますので興味のある方は是非参考にして下さい。

地元千葉にこのような素晴らしい山城があるという事は、地元民の私にとって大変誇らしく、もっと全国のお城好きの皆さんに知ってもらえたら嬉しいです。

最後に写真の説明をします。写真中央右側が城跡で、復元後今は展望台として観光客、地元民の皆さんに利用されています。千葉に来られた際には是非立ち寄って下さい。画面下のブルーシートの下には土俵がらあり、コロナ禍の前には毎年この時期にお祭りが行われており、友綱部屋の力士さんがこの土俵で相撲をとってくれていたそうです。

一日も早くコロナが収束し、またそのような大イベントが開催できる事を祈ります。

以上 初のリア攻め投稿でした。

2021年04月25日 :::真田安房守持郎❖
万喜城



本日、1組の山登りがお好きな感じのご家族に万喜城どうでしたか?とお声掛けしました。
返ってきた応えは展望台からの景色が良かったとの事、それで帰ってはもったいないと思い案内させて頂きました。
自分の整備しているルートを一緒に歩きました、万喜城の見所を案内し伝えられた事は進歩です。
楽しんで頂けて良かったです。

簡単なご案内しかできませんが、整備作業してる人間を見かけたら声掛けてみてください。

【写真】
遊具のある曲輪のトイレ最下部

2021年04月25日 :::真田安房守持郎❖
万喜城



【写真説明】
❶この鉄棒裏を覗くと
❷真ん中の細い木の間を下へ
❸2人立てるスペースあり
❹写真真ん中上切り離された山の先
❺切り離された山
❻削岩堀切
❼自然にできたロープ(ツル)
❽曲輪下
2021.4.24.25整備してきました。
土曜日に行った作業は、遊具、トイレのある曲輪の削岩下までを見学できるように伐採しながら降りました。
10m弱でしょうか、足場を踏み固めながらの作業になりました。
城友さん昌幸殿の助言により見つけたヤバい堀切、万喜城で見た中で1番高さもあり迫力ある切岸堀切になっていました。
山を真っ二つに切ってあるのがよくわかります、かなりの見所です。
曲輪寄りには見張番を置くスペースのような場所がありました。
笹、竹、雑木を切り見通しよくしました。
その場に立てるようしてますので、勝手な妄想を楽しんで頂けます!
下まで降ると猪の足跡でできた尾根ができていました。遭遇しなくて良かった!
鉄棒裏から降り、トイレ裏に戻ると言うコースができました。
トイレ裏は浄化槽から浸透させるように水路があり、昭和50年代に工事が入ったようで、昔の遺構ではありませんでした。

25日曜日は三の郭駐車場下のツツジの強剪定、雑木伐採など行いました。
ボランティアですが今日も怪我なく作業させて頂き感謝です。

2021年04月24日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
海の直売所アルファ[万喜城  御城印]



いすみ市内の城跡の御城印3種類が販売開始となりました。

・万喜城…万喜土岐氏の居城
・小浜(こばま)城…万喜土岐氏の重要な海の城(周辺城郭で紹介)
・大野城…万喜土岐氏と小田喜正木氏の境目の城(大多喜城の周辺城郭で紹介)

販売価格:各300円(税込)
販売場所:海の直売所 アルファ
千葉県いすみ市深堀1885-9
080-2387-4192
9:00〜17:00 年中無休


2021年03月22日 :::真田安房守持郎❖
駐車場[万喜城  駐車場]



駐車場に車を停めて展望台まで散歩。今の時期はももの花がとてもキレイで気持ち良く散歩できます。桜もちらほら咲いています。

2021年03月15日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
万喜城



今年より地元有志の方々による整備が始まりました。
主郭である倉ノ台は、下草と倒木がなくなり、見やすくなっています。
徐々に整備を進めていくとのことです。これからとても楽しみです♪

【写真の説明】
①山上駐車場より。ここも整備されました。展望台と右奥の杉林が倉ノ台。
②整備された倉ノ台。
③倉ノ台の桜も皆さんの来城を、期待を膨らませ、待っています。

2021年03月07日 :::真田安房守持郎❖
駐車場[万喜城  駐車場]



皆さんこんにちは。
本日は地域の皆さんとのボランティア。
万喜城の整備を行いました、私は3の郭駐車場の北西側の整備を担当しました。
郭の先端まであとわずかの位置まで竹笹を刈込みました、作業始めてすぐはどんな地形になってるのか想像もつきませんでしたが、徐々に地形が出てくるにつれ興奮しました。
郭の下には細い尾根があり今日はそこでやめましたが、どこまでどの様に繋がってるのか興味津々です。
3の郭の北側は断崖絶壁で人が立てる位のスペースがありました、その場所から弓を撃ったり、石を落としたりして防御していたのか、物見台だったのかなど想像して楽しみながらの作業でした。

【写真の説明】
❶駐車場から見た郭先端方面
❷人の捨てたゴミこの3倍はありました。

次回から作業前の写真も載せないと伝わりませんね。

2021年02月11日 :::真田安房守持郎❖
日在城[万喜城  周辺城郭]



万喜城主土岐氏の家臣横山将監の居城といわれていて、万喜五支城の1つ。ではなかった!

日在城はJR外房線三門駅から南西1km程の所にあり、標高60mの山に築かれている2郭、主郭、3郭と配置された連郭式平山城で堀切や土塁が残されている。
見晴らしも良く下の街道を押さえるためには絶好のロケーション。北側には池(大山堰)があり、お堀の役割りをしていたと思われる。

南西側北東側と探したが登り口はなかった、城址碑左側からかなり急な斜面をジグザグに登ってみた。
同行者は5m登り残念ながら諦めざるを得なかった、かなり急斜面。
立木や笹の根元を掴み身体を引き上げながら進むと二つ平場があり、その先には三日月状の堀切が見えた。
自分で見つけた堀切には興奮しました!
さらに進むと先には郭があり、その先の高い位置には主郭と思われる郭があった。
その下には切岸があり先にも郭があった、広さからそこが3郭で最初の郭が2郭と想像。 
まだまだ先はありそうでしたが付近の木に付けたばかりであろう獣のスゴい爪痕があり静かに下山。
帰りも立木や笹の根元で体重を支えてくれるか確認しながら降るという苦戦。
低い山ですが苦労しました、短時間がスゴい長く感じるリア攻めでした。
腰道具装備で邪魔な枝払いながら登り降りしたので多少は道になっているはずです。
登る方は気を付けてください。

【駐車場】
城址碑の反対側の介護施設看板裏にスペースあり。

【写真の説明】
❶南側、大山神社付近より
❷北側、大山堰より
❸左下の城址碑脇を登り口に
❹右上に城址碑、急斜面伝わりますか
❺北側の堀切
❻主郭と思われる
❼主郭と思われる下の切岸
❽獣の生々しい爪痕

2021年02月07日 :::真田安房守持郎❖
石碑・説明板[万喜城  碑・説明板]



万喜城より南東に10km程の場所、県道465佐室トンネル脇で現在は塞がれている旧佐室トンネルの隣にある。
石碑には発坂峠古戦場本陣跡とあり、峠の旗立山にかつて一株の松があり、土岐氏が房州から進軍してくる里見勢を迎え撃つためここに陣をしいたと言う。
物見による報告があり、挟み撃ちにあった里見軍は190人の死者を出し館山に逃げ帰った。
万喜城土岐軍大勝利、
大将 万喜城主 土岐右京大夫為春 公

説明板は上記の決戦発坂峠、妙見大菩薩、旗立山貞静庵、沿岸防衛団によるトーチカの4つの説明板がある。

【写真の説明】
❶石碑まわりの脇には鳥居がある。
❷咲き始めの梅の花と石碑まわり。
❸本陣跡石碑
❹旗建山貞静庵
❺鳥居先の山道を登り下り道
❻山が崩れていて先には行けず
❼高い杉の根元が郭のようにみえる
❽本題の説明板

この山にトーチカもあったと知り一石二鳥三鳥、四鳥、勉強になる近所のリア攻めになりました。

2021年01月31日 :::真田安房守持郎❖
駐車場[万喜城  駐車場]



万喜城址公園駐車場、この駐車場は萬木区民センターと併用になっているので、地域の皆さんが集まっている時は混んでいますが、停められない事はないと思います。
ここに駐車し徒歩で展望台まで行くのも良いと思います。
車も通行する急な道ですが、周りを見ながら登ると色々な想像ができます。
春には桜や桃の花が咲く素敵な道になります。




2021年01月30日 :::真田安房守持郎❖
万木史跡と自然巡り案内図[万喜城  碑・説明板]



可愛らしいイラストの万木地区案内図、万喜城展望台や土岐氏のお墓のある海雄寺こちらには寝釈迦様がくつろいでいます。三光寺、妙見堂、上行寺、桂林寺、いすみ環境と文化のさと(ネイチャーセンター)、遊歩道、いすみ鉄道路線図まで案内されています。
国吉駅より自転車の無料貸出しあり、サイクリング道も載っています。
初めて見てもわかりやすいと思います、万喜城訪問の際には是非ご確認を。

2021年01月26日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
桂林寺[万喜城  寺社・史跡]



1575年、土岐為頼公の奥方(名前不明)を弔うために建立された。
駐車場なし。
三光寺から徒歩3分。

2020年12月06日 中村右近衛少将泰造
万喜城

徒歩で登る場合、かなり坂が急なので、なかなかしんどいです。車の場合でしたら小さな信号機のちょっと上あたりまで行けますので、登りきったら広場があります

2020年09月20日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
海雄寺[万喜城  寺社・史跡]



万喜土岐氏の菩提寺。
城の南側、尾根を下った所に、住職さんもいなく、ひっそりと佇んでいます。
海雄寺は元は岬町椎木(みさきまちしいぎ)にあったが、土岐為頼が城下の現在地に移し、僧侶・慧鑑を招いて開山しました。
万喜土岐氏については史料が乏しく、はっきりと確認できる城主は万喜少弼・為頼とその子・頼春の2代とのことです。

ここから城址までの道は「小鳥の道」として整備されたが、現在は倒木危険箇所があるため通行禁止になっています。
実はこの道は、小田原征伐での落城の際、頼春の娘・福姫が逃げた抜け道だったとのことです。
再び整備され、歴史をかみしめながら散策できる日が来るとといいですね。

【写真の説明】
①本堂
②万喜土岐氏の墓。中央は為頼公の墓。末裔の方がちきんと墓守りされているようです。墓の後ろは「小鳥の道」が通っています。

2020年09月08日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
三光寺[万喜城  寺社・史跡]



万喜城の東側、一ノ谷に位置する。
切り通し道に妙見堂があり、そこには北辰妙見大菩薩を中心に、右に飯綱大権現、左に愛宕大権現が祀られている。
妙見大菩薩は万喜城の守護神、愛宕大権現は城主の守り本尊として常に戦場に持参したと伝えられている。
駐車場あり、妙見堂の中へ入り、御本尊の拝観も可能。

【写真の説明】
①お寺から見る妙見堂。
②妙見堂をアップで。
③お寺奥の一ノ谷。江戸時代の灌漑政策で溜池となっているが、当時は湿地であっただろう。谷を挟んで右手が主郭部方面、左手が尾根を使った防御ライン。

2020年07月30日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
小浜城[万喜城  周辺城郭]



現在のいすみ市ほどの領地だった万喜土岐氏が、秀吉の全国統一まで勢力を維持できたのは、海賊集団を束ね、制海権を握ったからに他ならない。
小浜(こばま)城は、南側に丹ヶ浦という自然の船着場を持ち、北側には当時の夷隅川の河口があり、川を上れば万喜城に至るという絶好の位置に築城された。
城主は鑓田美濃守。
主郭部は現在、八幡神社が建立され、中腹には削平された大きな曲輪があり、居館跡(実務を行なっていた)と推測できる。

【写真の説明】
①大手門跡
②居館跡の虎口。この地域特有で岩盤を削っている。神社化のためコンクリートで固められているが…
③虎口上から居館跡と主郭を見る
④岩盤を削り残し、土塁と見立てた細尾根。万喜城でも見かけた。眼下には丹ヶ浦。
⑤細尾根先端から主郭を見る。居館跡下は段曲輪になっているようだ。
⑥主郭
⑦丹ヶ浦から見た小浜城

2020年07月30日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
金山城[万喜城  周辺城郭]



万喜五支城の1つ。
別名は長志(ながし)城。城主は不明。
南方の境目の城として勝浦城正木氏や里見氏と対峙する位置にある。
写真は麓の薬師寺と城山。

万喜五支城はもう一つ「一坂城」があるが場所・城主等、詳細は不明である。

2020年07月30日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
鶴ヶ城[万喜城  周辺城郭]



万喜五支城の1つ。
境目の城として一宮城正木氏と対峙し、鶴見弾正や佐々木駿河らが守ったとされる。
椎木(しいぎ)堰と中原堰に囲まれた地にある。
堰=江戸時代に造られた溜池であり、当時は湿地だったのではないか。

海雄寺(万喜土岐氏の菩提寺)の史料によると、「椎木より万喜に移った」との記述がある。
椎木城もあるが、城の規模を考えると、こちらの城の方が妥当であり、土岐氏が下行の際、最初に城を構えた所と考えて良さそうである。

現在は南側から入ることができるが、竹藪が酷く明確な遺構は見ることができなかった。

【写真の紹介】
①中原堰からの鶴ヶ城遠景
②椎木堰からの鶴ヶ城遠景

2020年07月30日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
矢岳城[万喜城  周辺城郭]



万喜五支城の1つ。
城主は麻生主水助(あそうもんどのすけ)。
万喜城の北側、上総武田氏と対峙する位置にある。
1589年、里見氏の相模国攻めで北条氏に援軍を派兵していた万喜土岐氏。
手薄になった万喜城を里見方の上総武田氏に攻められるも、麻生主水助の奇襲で危機を救ったとされる。
ちなみに彼の兜は金の一文字をあしらった物で近隣では有名だったらしい。

2020年07月25日 国府左京大夫城介
いすみ市郷土資料館[万喜城  関連施設]



万喜城をリア攻めする前に、まずはこの資料館に来館してみてください。
万喜城のジオラマがあり、城の規模や見所ポイントの予習に最適です。
場所は、いすみ鉄道の国吉駅から、徒歩10分位の所にあり、ここから万喜城まで徒歩で3,40分位となります。
入館料は無料、駐車場もあります。
開館時間は、9:00~16:30となっています。

2020年06月04日 昌幸隠岐守4/20宍戸吉川
国府台城[万喜城  周辺城郭]



万喜五支城の1つ。
土岐為頼の娘を娶った三階(みはし)氏の居城。
万喜城の南側にあり、対里見の防衛拠点となっていたことだろう。
1590年の万喜城落城と運命を共にする。
主郭は現在、五柱神社となっている。
腰曲輪と横堀も確認できる。

2019年04月26日 下沼下総守雄信
駐車場[万喜城  駐車場]

すれ違い不可の狭隘路を登る。途中に行き違い用の信号があるので絶対に無視しないように!

2018年11月05日 下沼下総守雄信
万喜城

投稿写真の通り、本丸跡に城の形の鉄筋コンクリート製の展望台があり、ここからの眺めは非常に素晴らしい。
展望台の直ぐ近くまで車で行けるがすれ違い絶対不可の狭隘路なので慎重な運転を。バック運転が非常に苦手な人は麓の駐車場へ。登坂途中に信号機があるので、赤で停車中に対向車が来たら迷わず横の駐車場へ待避し、降りてくる車を通してあげましょう。

2016年12月22日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
万喜城

万木土岐氏の系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説。
海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年。
親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年没とある。
やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。
頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。
また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明。
よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

為頼嫡子、三代城主の頼春の頃に小田原征伐の一環として本多忠勝に攻略され落城。
翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

2016年10月30日 まー刑部卿
万喜城

城山公園までの道のり車一台分の道幅で途中信号機があるが対向車が居ても避けきれない。この口コミを書いてる最中一台来ただけ。土塁はわかったが空堀は雨のためぬかるんでいるため確認出来ず。

万喜城の周辺スポット情報

 土橋(遺構・復元物)

 万喜城堀跡(遺構・復元物)

 大野城V郭堀切(遺構・復元物)

 万木史跡と自然巡り案内図(碑・説明板)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 小野次郎右衛門忠明(御子神典膳)(碑・説明板)

 国府台城(周辺城郭)

 矢岳城(周辺城郭)

 鶴ヶ城(周辺城郭)

 金山城(周辺城郭)

 小浜城(周辺城郭)

 日在城(周辺城郭)

 和泉要害城(周辺城郭)

 椎木城(周辺城郭)

 中滝城(周辺城郭)

 中滝陣屋(周辺城郭)

 小高城(周辺城郭)

 臼井城(周辺城郭)

 岩熊城(周辺城郭)

 高部城(周辺城郭)

 小佐部陣屋(周辺城郭)

 八幡城(周辺城郭)

 城谷城(飯田城・阻山城)(周辺城郭)

 大寺城(周辺城郭)

 布施殿台城(周辺城郭)

 萱落城(周辺城郭)

 三光寺(寺社・史跡)

 海雄寺(寺社・史跡)

 桂林寺(寺社・史跡)

 日の子坂古戦場(寺社・史跡)

 浅間大神(浅間様)(寺社・史跡)

 飯縄寺 (寺社・史跡)

 飯縄権現様(寺社・史跡)

 上行寺(寺社・史跡)

 大慈禅寺(寺社・史跡)

 喜原神社(寺社・史跡)

 大野八幡神社(寺社・史跡)

 海の直売所アルファ(御城印)

 櫓厠(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 天守閣風展望台(関連施設)

 いすみ市郷土資料館(関連施設)

 大寺青年館(関連施設)

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