勝浦城(かつうらじょう)
勝浦城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 千葉県勝浦市勝浦字郭内
旧国名
- 上総国
分類・構造
- 海城
天守構造
- -
築城主
- 武田信清
築城年
- 大永元年(1521)
主な改修者
- 正木時忠?
主な城主
- 真里谷武田氏、正木氏、植村氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、堀切、横堀(空堀)、切岸
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
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小田代城(千葉県夷隅郡)[17.9km]
大多喜城(千葉県夷隅郡)[17.9km]
万喜城(千葉県いすみ市)[18.0km]
山之城(千葉県鴨川市)[26.3km]
久留里城(千葉県君津市)[26.3km]
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勝浦城の解説文
[引用元:Wikipedia「勝浦城」の項目]勝浦城(かつうらじょう)は、千葉県夷隅郡勝浦(現在の千葉県勝浦市浜勝浦)に存在した日本の城。
【概要】
勝浦湾の東南端に突き出た天然の険しい崖の上(八幡岬)に築かれた海城(要害)で、築城経緯・時期などの詳細は不明だが、1521年(大永元年)に真里谷城の城主だった上総武田氏の一族の真里谷信興(真里谷信清?)が安房の里見義堯による北上阻止のために支城として築城されたという説がある。
その後、真里谷武田家の一族の居城となっていたが、真里谷武田家が内紛で勢力を弱めると、後北条氏と里見氏が上総に進出するようになった。
1544年(天文13年)、里見方の正木時茂が大多喜城の真里谷朝信を滅亡させ、朝信の勢力圏を里見氏の傘下に収めたとき、勝浦城も里見方となっている。以後は正木氏の一族の正木時忠が入り、勝浦正木氏と呼ばれるようになった。時忠は後に後北条氏に寝返ったが、里見氏は勝浦城に激しい攻撃を加えこれを取り戻している。正木憲時の乱が起きたとき、正木頼忠(お万の父)は里見義頼に味方したため、憲時の攻撃を受け、一時落城したといわれ、のちに「お万の布晒し」の伝承を生んだ。憲時の乱が鎮圧されると、頼忠は勝浦城主に復帰している。
1590年(天正18年)に徳川家臣の本多忠勝に攻められ落城後廃された。
城が存在した場所は現在、八幡岬公園となっている。[続きを見る]
勝浦城の口コミ情報
まー宮内卿さん[2016年10月30日]
駐車場まで道路は路駐車が居て車一台通れるくらいでトンネルを抜けると駐車場です。公園内は人は居らずとも駐車場は10台くらい駐車していました。八幡宮の参道のところに城址石碑あります。御萬の方の像は更に進むと突端に建っています。近くには勝浦灯台や官軍塚があります。
鎮玄斎さん[2014年05月31日]
三方を断崖に囲まれているため見晴らしが最高!公園内もきれいに整備されており、トイレにはオムツ交換台も完備!
駐車場は車上荒らしが多いらしく警察が巡回していたのでご注意を。
主な遺構:断崖絶壁