観音寺城(かんのんじじょう)

観音寺城の基本情報

通称・別名

佐々木城

所在地

滋賀県近江八幡市安土町

旧国名

近江国

分類・構造

山城

天守構造

なし

築城主

六角氏頼

築城年

応仁・文明年間(1467〜1487)

主な改修者

六角氏

主な城主

六角氏

廃城年

永禄11年(1568)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀、門跡

指定文化財

国史跡(観音寺城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

安土城(滋賀県近江八幡市)[2.0km]
箕作城(滋賀県東近江市)[2.6km]
伊庭御殿(滋賀県東近江市)[3.0km]
佐生日吉城(滋賀県東近江市)[3.6km]
和田山城(滋賀県東近江市)[4.4km]
長光寺城(滋賀県近江八幡市)[5.1km]
北之庄城(滋賀県近江八幡市)[6.5km]
後藤館(滋賀県東近江市)[6.6km]
八幡山城(滋賀県近江八幡市)[6.9km]
目加田城(滋賀県愛知郡)[8.4km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

52 観音寺城

設置場所

石寺楽市会館[地図
観音正寺[地図
桑實寺[地図
安土城郭資料館[地図

観音寺城の解説文



観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった日本の城(山城)である。支城に和田山城、佐生城、箕作城長光寺城などがある。城跡は国の史跡に指定されている。日本五大山城の一つ。

概要 

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城より移り、六角氏の終の本拠となる。

標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

歴史・沿革 

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している[1]

応仁の乱

室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

第二次観音寺城の戦い

応仁2年11月初め、陣代山内政綱が京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城に攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将 は焼失した観音寺城を修築、三度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になり、京極軍を撃退することに成功する。 その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は二度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

その後の観音寺城の戦闘年表

和暦 西暦 主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。
永禄6年 1563年 観音寺騒動が勃発。謀殺された後藤賢豊縁故の諸将が城下に乱入。放火により観音正寺などが焼失[2]

廃城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。一方で、構造的に元亀年間(1570年頃)に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性がある[3]

現代

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(52番)に選定された。

構造 

現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。

観音寺城改修の歴史
回数 年代 主な特徴
築城当時 建武2年(1335年) 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
第1次改修 応仁・文明年間
(1467年 - 1487年)
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修 大永5年(1525年) 城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修 天文元年(1532年) 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が
誕生していたと推定されている。
第4次改修 天文19年(1550年)前後 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが
発掘調査から確認されている。

観音寺城は、山上から山腹にかけて密集する郭群が城下町石寺の屋敷群と連続している点が一つの特徴である。特に縄張で最も注目される点は、段状の諸郭が碁盤目状に行儀よく並んでいる箇所が多いことである。もう一つの特徴は、本丸より高い部分の陵稜線上には三国丸を除けばどこにも郭が設けられず、かわりに石塁もしくは土塁の道が走っていることである。西端の本丸以下の部分と東端の淡路丸を除けば全く逆に山腹斜面に郭があって山頂・稜線上に郭がない。稜線上の道は大陸の城塞都市の城壁のように山腹諸郭を上から囲い込んでいる[4]

規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。

また、観音寺城が選定される過程では防御力が重視されていたが、戦国期に六角氏の本拠地として本格的な整備をされる段階では政庁としての機能が重視されたとする考えもある。また、観音寺城が東山道に対して非常に開放的で土塁とされるものも本当に土塁であったのか(改修工事における削り残しの産物で意図的に構築された訳ではないとして)疑問視されている。戦国期の六角氏の防衛戦は最前線で外敵を迎撃する戦略を取っており、明応5年(1496年)に美濃国の斎藤妙純が攻撃をしてから織田信長の攻撃まで70年にわたって外敵からの攻撃を受けることは無かった[5]

これに対して『戦国の堅城』では、一定の防備が整っていたのではないかとしている。観音寺城の攻め口は、南側と北側になる。南側、つまり楽市や六角氏の居館があった方向から攻め上ろうとすると、そこには強固な石垣がある平井丸、池田丸があり、また山裾の平地部分に部隊を展開しようとすると、観音寺城の支城、箕作城長光寺城があり挟撃される可能性がある。また北側、安土山(現在の安土城)の方向になると、曲輪はないものの尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛ラインを形成したと考えられている。つまり山の尾根そのものを土塁としていたのではないかと『戦国の堅城』は指摘している。

この後、山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。

本丸

標高は395m、面積は約2000m2、主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡(ためます、貯水槽)、幅4mの大手石階段などがある。またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。

平井丸

平井丸は、標高375mで面積は約1700m2、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡があり、2m以上の石も使用されている。また南側には幅0.8m、高さ1.3mの潜り門もある。また北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。

池田丸

池田丸は標高365m、面積は約2700m2で、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている。またこの曲輪は南曲輪と北曲輪に分けられ、周囲は土塀をめぐらし、南面には庭園をもつ主殿や溜枡等が発掘されている。

淡路丸

観音寺城の東の端に一郭独立したような形で、府施氏の居館淡路丸の曲輪跡があり、丁度観音寺城の鬼門の方向に当たるとされている。

大きさは、東西43m×南北50mの規模があり、周囲には土塁、東西、南側には土塁の内、外側に石垣を築いている。この曲輪は、南西、西の中間、北東の3か所の虎口を設けている。また南外側では、道路を挟んで上下斜面に腰曲輪跡が残っているが、この淡路丸に付随したものと考えられている。

曲輪を土塁で囲む、構築法がシンプルであるなど、府施氏の城であった府施山城、大森城と類似点が多いのもこの曲輪の特徴である。

その他曲輪

その他曲輪として数多く存在する。

  • 伊藤丸
  • 沢田丸
  • 馬渕丸
  • 三井丸
  • 馬場丸
  • 大見付丸
  • 三国丸
  • 伊庭丸
  • 進藤丸
  • 後藤丸
  • 観音寺

このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。

繖山山頂からの眺望

六角氏の御館

観音正寺への巡礼参道である赤坂道の参道入り口を右におれ、突き当りの石段を上がると六角氏の御館跡がある。ここも3方向を土塁と切岸で囲まれた「上御用屋敷」という地名の場所があり、南東には高く積まれた石垣が残されている。

繖山の山麓にあり石寺城下町付近になる。

石寺楽市

現在の近江八幡市安土町石寺に、石寺楽市が開かれていた。楽市とは、非課税等を通じて自由な売買を可能にした市のことである。石寺楽市は日本国内での文献上の初見で城下町に築かれたとされている。この地域は下御用屋敷、犬の馬場、馬場道、講口といった、城下町をうかがわせる地名が伝えられている。

これに対して『日本城郭大系』では、近江八幡市安土町石寺以外に、もう1カ所、楽市があったのではないかと指摘している。この石寺の地域には多くの武家屋敷もあり、ここに楽市も混在していたとすれば、規模が小さいとしている。また石寺楽市の古文献には「保内町」という記載が見受けられ、石寺にはない。石寺の隣になる近江八幡市安土町東老蘇には「保内町」という地名が伝わる場所があり、この周辺には3千軒も家が建ち並んでいたと伝承されている。これらのことにより、当初石寺に築かれていた楽市は、後に東老蘇にも新市として増設されたのではないかと指摘している。

この石寺楽市は、近隣にある安土城の楽市にも影響を与えることになる。

この石寺には楽市以外にも犬追物馬上跡があり、ここで佐々木流馬術を伝授していたと思われている。また犬追物絵図が現存しており、本丸の屋形二階に飾られていた土佐光茂が描いた障壁画の写しであるといわれている。

支城 

観音寺城に数多くの支城があるのが特徴の一つである。

城郭、出城としての役割を果たした城もあれば、居館程度の城など様々な支城があったと推定されている。

交通 

  • 電車でのアクセス
    • 西日本旅客鉄道(JR西日本)琵琶湖線(東海道本線)安土駅
    • 安土駅→徒歩約40分→桑実寺→徒歩約30分→観音寺城本丸跡地
  • 車でのアクセス
    • 名神高速道路→八日市IC→国道421号→国道8号→観音寺山林道有料道路
    • 終点に駐車スペース有
  • これ以外にもアクセス方法がある

参考文献 

  • 『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、261頁-269頁、265頁-266頁。
  • 『図説中世城郭事典』第二巻、新人物往来社、1987年6月、278頁-279頁。
  • 中井均『戦国の堅城』学習研究社、2004年7月、12頁-17頁。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』六、新人物往来社、1989年1月、158頁-160頁。
  • 『近江城郭探訪』滋賀県教育委員会、2006年10月、168頁-175頁。
  • 『滋賀県中世城郭分布調査』滋賀県教育委員会、1983年3月、42頁。
  • 【書籍】「近江六角氏」
    • 伊庭功「観音正寺と観音寺城跡(1)」/初出:『城郭調査研究所 研究紀要』14号、2010年。
    • 伊庭功「観音正寺と観音寺城跡(2)」/初出:『財団法人滋賀県文化財保護協会 研究紀要』24号、2011年。
  • 新谷和之「六角氏の本城、観音寺城の機能」『戦国期六角氏の権力と地域社会』思文閣出版、2018年。ISBN 978-4-7842-1935-3。

観音寺城の口コミ情報

2022年05月28日 イオ紀伊守
観音正寺裏参道山上駐車場[観音寺城  駐車場]



裏参道から観音正寺までは徒歩10分のなだらかな道で、道中に奥之院の鳥居やねずみ岩、あちこちに石垣も見られるなど、楽々と退屈せずに歩けますので、山上まで車で登るなら裏参道側がおすすめです。

2022年05月27日 イオ紀伊守
目方屋敷[観音寺城  遺構・復元物]



伝目賀田丸は伝布施淡路丸から裏参道をはさんで南側に広がる曲輪で、西辺と南辺を土塁で囲み、南西隅と東部に虎口が開口しています。南麓からの二つの登城道が合流する曲輪で、南麓への備えとされたと思われます。その他、井戸跡もあるようですが、見落としてしまいました。

2022年05月27日 イオ紀伊守
布施淡路丸[観音寺城  遺構・復元物]



伝布施淡路丸は三方を石塁で囲み、西隅の虎口は端に折れを設けて枡形状にしている…ようですが、崩れていて明瞭ではありません。曲輪内は藪化していて見通しはききませんが、石塁沿いに進んで東隅の虎口から出ると、東に続く尾根に浅くなった堀切が見られました。北辺には尾根を削り残した土塁がそびえ、南東辺と南西辺の石塁からは裏参道を見下ろし、東側からの侵攻に備える曲輪であることがよくわかります。

2022年05月26日 イオ紀伊守
奥之院[観音寺城  寺社・史跡]



観音正寺の奥之院で、巨石の上で舞う天人を見て聖徳太子が名付けたと伝わる「天楽石」が祀られていて、巨石と巨石の間に石垣や石段が設けられています。奥之院のあたりは大石垣周辺にも増して巨石が林立しており、巨石を組み込んだ石垣があちこちに見られます。城郭遺構ではありませんが、なかなか見応えがありました。

2022年05月26日 イオ紀伊守
三国丸[観音寺城  遺構・復元物]



伝三国丸は、大土塁と呼ばれる観音寺城北端の尾根上にある曲輪で、三国岩と呼ばれる巨石と石塁で囲まれています。

2022年05月25日 イオ紀伊守
木村丸跡[観音寺城  遺構・復元物]



伝木村丸の南辺には石塁が設けられ、石塁の西端に埋門があります。東斜面からは竪堀が落ちており、竪堀の曲輪に面する部分は石垣で固められていました。大石垣まで来るのであれば、ぜひ足を延ばして伝木村丸も訪れてみて下さい。寄り道するだけの価値はあると思います。

2022年05月25日 同行二人
観音寺城

お寺のかたは、大変親切でした。城趾の場所も教えてくれました。

2022年05月25日 イオ紀伊守
伝池田丸[観音寺城  遺構・復元物]



伝池田丸は西辺から南辺、南東辺にかけてぐるりと石塁で囲み、北西部に虎口が開口しています。南部には石組みの貯水施設も見られ、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸の発掘調査で礎石建物跡や庭園跡、輸入陶磁器などが確認されていることからも、山上の曲輪群が生活空間であったことが窺えます。

2022年05月25日 イオ紀伊守
伝平井丸[観音寺城  遺構・復元物]



巨石を駆使した立派な平虎口から石段を登って伝平井丸に入ると、曲輪内には石碑や墓石が建てられており、北西奥には上段に続く虎口がありました。また、西辺外周にも見事な石垣がめぐらされています。なお、南東隅にあるはずの埋門は上部が崩落して埋門の体を成さなくなっていました。

2022年05月24日 イオ紀伊守
大石段[観音寺城  遺構・復元物]



伝本丸から東下には北辺に石組みの排水溝を備えた大石段が続き、安土城の大手道を彷彿とさせますが、発掘調査でば下方から大石段につながるルートは確認できず、大石段の用途は今なお不明のようです。

2022年05月24日 イオ紀伊守
伝本丸[観音寺城  遺構・復元物]



伝本丸は北東部と北部に虎口が開口し、北東部は平虎口ですが、北部の搦手口は石塁を追加して喰違い状に改修されています。北部の虎口から西辺にかけては石塁で囲み、石組みの貯水施設も見られます。

2022年05月24日 イオ紀伊守
観音正寺[観音寺城  寺社・史跡]



観音正寺は聖徳太子と人魚の伝承のある西国三十三所の札所で、江戸初期に現在の位置に再興され、明治には彦根城の欅御殿が本堂として移築されましたが、平成5年の火災で焼失したため現在も諸堂の再建事業が続けられています。

山門代わりの仁王像の近くには観音寺城の説明板があり、休憩所には100名城スタンプが置かれています。

2022年05月09日 昌幸近江守野面積み♡
観音寺城



マニアックオブ観音寺城✨伐採され新たな遺構も見ることができました。

【写真の説明】
①本谷沿いの石垣。表林道駐車場を少し下ったところにある。
②石のスロープ。本谷へ繋がる。
③本谷からの道の石積み。
④伐採後の本谷に現れた石垣。きっと何か建ってたよなぁ。
⑤名もなき曲輪(僧坊)の石段。
⑥観音寺城では初めて見た曲線の石垣。触れば崩れそうな初々しさがある。
⑦閼伽坂見附を逸れたら、こんな長大な石垣が現れた!
⑧大石垣、権現見附の石垣に続く第三のの高石垣に興奮。

2022年05月04日 satjpn
観音寺城



大石垣は見応えあり。ただ能登川駅から山伝いのコースで行ったから、かなり疲れた。しかも、小谷城廻りした後に。

2021年10月23日 SR近江守いちろう
観音寺城

自家用車で攻城の方、現在五個荘ゲートは落石で通行止めです。表参道ゲートからお越しください。

2021年05月27日 【城郭道】尾張守たっきー
観音寺城御城印[観音寺城  御城印]



観音寺城の御城印。観音正寺付近にあります。一枚三百五十円、飾りたければ、六百円です。思い出に。

2020年10月08日 まー刑部卿
観音寺城



今回は観音正寺の有料駐車場から登城。ただ対向する車が多いのですれ違いにはご注意をお寺まではほぼ平坦。またアスファルトの道はお寺関係者の車も通りますので先にお通しするといいでしょう。途中佐々木城址の案内表示があったため上りが急でしたが石垣があったりドでかい石碑がある。その先は伝淡路丸、本丸の石垣、平井丸、池田丸等の御家来衆の邸跡も石垣がふんだんに使用されて見応えアリ。大石垣は展望所がありますがお寺の旗?を掲げるポールが建っているのが残念ですが。そのまま突き進むと反対側の有料駐車場に向かう道路に出ます。こちら側は石段が脚に相当きます。駐車場から約3時間〜4時間はかかったと思います。杖・ポール等運動靴は必須です。以前はお寺に自動販売機がありましたが今回は撤去されていたようです。

2020年09月23日 さとっち右近衛少将
観音寺城

本日、初登城🏯大石垣に感動!登りの苦難が吹きとびます。

2019年12月01日 ☘️ぷ~太郎
入山受付[観音寺城  その他]



観音寺城の御城印は、観音正寺入口受付で購入出来ます。
シールタイプで二種類あります。

2019年03月16日 松之助尾張守
観音寺城

本日より冬季通行止め解除とのことで、8号線側から入る有料林道を利用しました。
駐車場は7台、林道の料金所で満車かもしれない、と事前に聞いていたのですが、ちょうど出る車がいて停められました。
観音正寺の入山料を納める場所で観音寺城のことを聞くと、パンフレットや詳しい案内図がいただけます。
大仏様の後ろの木戸から観音寺城に入っていきます。
山の下から見えていた旗は大石垣の場所に立っており、木戸からは片道20分程でした。
道は細く雨上がりはぬかるんで滑りやすいので気をつけてください。

2018年04月30日 佐女牛井弾正少弼ともみ
観音寺城

能登川駅からバス。観音寺口バス停で降りて登山口が解らず石寺楽市まで歩き、正面参道から山上へ。最後まで石段の連続する道は0930の脚には…。観音正寺でご朱印を頂いてから伝本丸跡へ。山の上とは思えない広さ。どんな御殿が建っていたのかしら。桑実寺への出口にある立派な石垣、虎口かな。他にもたくさんの石組が残っています。桑実寺コースで下山して、JR安土駅まで、観音寺口バス停から10㎞ぐらいです。もう一度行きたいです。あとトイレはお寺にしかありません。

2018年01月14日 木下近江守湖一郎
観音寺城

観音寺正寺駐車場から登城しました。
林道は近江八幡市側からと東近江市側からと二本あり駐車場も二箇所ありますが、近江八幡市側の林道は冬季は通行止めになりますのでご注意ください。
城跡は先人の方々のおっしゃる通り、見事です。
大石垣から眼下を見下ろすと、国道8号、旧中山道、東海道新幹線とそれに交差し、三重に向かう八風街道が確認でき、交通の要衝であったことが分かります。
朝から観音寺城跡を巡り、西の湖近くの海坊主というラーメン屋でハンバーグを食べて、午後から安土城跡を巡って、その後、近江八幡市内でバームクーヘンを食べる。という近江八幡市巡りをしてみてはいかがでしょう。




2017年04月11日 織田上総介晃司
観音寺城

車で有料林道を登り駐車場へ。そこから徒歩で観音正寺まで。
観音正寺で整備費を払い大仏の脇を抜けて、まず本丸を目指す。

山のいたる所に遺構があるそうですが、代表的な場所は本丸へと続く石段と平井屋敷の跡地の石垣がみごとです。

2017年03月05日 摂津守いくpika
観音寺城

昨秋辺りに追手道が伐採されて今がまさに行くべきお城かと思います。

石寺楽市に自転車を置いて、観音正寺の表参道を少し登ると真新しい観音寺城跡の看板が設置されています。
先ずはこの看板の縄張り図の写メを撮って下さい。
看板の青いラインの通り、←御屋形跡へ左に曲がって下さい。
そのまま看板の図の青いライン通りに進めば大石垣、池田丸、平井丸、本丸と整備された登山道を効率よく回れます。
(中盤でアスファルトの林道にでますので左に曲がると登山道の続きがあります)
そのまま来た道を引き返すと無料で行けますが、私は降りが不安なので観音正寺に立ち寄り下山しました。

尚、安土駅でレンタサイクルして3時間弱でした。

2016年10月27日 カーネル
観音寺城

東海道線 安土駅から

東へ進み城東端を目指し、観音正寺林道繖山線を登る
料金所を超えてさらに登ると駐車場で、ここから階段です。ここまで1時間

観音正寺に着いたら、境内に入らず右の林道を進み、登りから下りに変わり始めたところに佐々木城跡三角点の道標があるので、ここから尾根を歩きます。歩きやすいです

観音正寺との合流地点にぶつかるところに佐々木城址の石碑があります
尾根に戻り堀や石垣を多数超えて本丸へ。無骨な石垣が出迎えてくれます

最後は反対側の桑實寺へ下りました。ここの階段の石垣はかっこいいですね。舗装路に出たのは駅をでて2時間半後

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

2016年08月11日 石工集団穴太衆【兒】
観音寺城

観音寺城が現代見られるような大規模な城になったのは1532年、六角氏が没落するのが1568年、算木積みが現れるのは1573〜1592に登場 確立されたのは1600年前後
なのに観音寺城には算木積みの石垣がある、六角氏の技術高さなのか?


2016年05月06日 侍従hisano
観音寺城

近所の観光センターの無料駐車場に車を停めて、結神社側から登城しました。急斜面の階段などは比較的少なく、地図上では遠く見えますが他のルートに比べれば歩きやすい道でした。
見所はたくさんありますが、私のオススメは繖山の三角点から安土城側の急な石垣を下ると見える絶景です。安土城址を見下ろせ、観音寺城の大きさを再認識できます。結神社から続く川並口筋から『佐佐木城址、繖山三角点』の標識通り山に入り、黙々と険しい山道を登っていくと途中に佐佐木城址の石碑、山の中で見つけづらいですが大石垣もひっそりとあったりします。
結神社、観音正寺、本丸、池田屋敷、繖山三角点などを見て神社に戻るルートで4時間でした。
石垣が好きな方、体力に自信のある方は是非!そうでない方にはオススメできませんが…

2015年12月28日 鎌倉又兵衛《》勘解由長官
観音寺城

百名城スタンプについて。

冬季は麓の石寺楽市会館は閉鎖してるし、二つの自動車道も通行止めになってます。

麓から観音正寺まで30分ほどの急な階段を黙々と登山してください。太股がパンパンになります。

もちろんスタンプだけでなくリアル城攻めも同様です。

2015年11月14日 野呂利左衛門督休三
観音寺城

【教林坊】
城の南麓の石寺は、基本情報にありますようにかつては観音寺城の城下町がありました。

石寺の東側にある教林坊は聖徳太子開基の伝承を持つ寺です。小堀遠州作の庭もあります。紅葉の名所でもあります。
正月三が日と11月1日から12月15日は毎日公開されていますが、それ以外は土休日のみです。
紅葉の名所なのでシーズンはライトアップも行われます。期間は教林坊のHPをご覧ください。

【桑実寺】
観音寺城を北西側から登り下りすると必ず通ることになるお寺です。何も知らずに観音寺城をこちら側へ下って来たら拝観料を取られるのでいい印象をお持ちでもない方もいらっしゃると思いますが、歴史的に重要なお寺です。
こちらも聖徳太子開基の伝承を持つ寺です。また戦国時代には京都を追われた足利義晴、信長に擁立された足利義昭が滞在しています。
また信長が安土を留守にした際に女中達が勝手にここに参詣。怒った信長が女中や僧侶を殺害しています。
本堂は室町初期の重文。
寺の縁起絵巻は土佐光茂の筆で、後奈良天皇らが詞を書き、足利義晴が寄進しています。
ここも紅葉シーズンはなかなかの景色です。

2015年11月11日 vino-s
観音寺城

図書館で可能なら、田中政三著作、近江源氏第1巻を閲覧し巻頭の縄張り図をコピーし訪城ください

2015年07月11日 ソバッソ80.0
観音寺城

瓢箪山古墳から繖山へ、観音正寺を目指して登山開始。
40分歩いて駐車場に到着、その後石段を10分程登ると観音正寺へ。100名城スタンプを集めてらっしゃる方は、ここの休憩所にあるっす。

本堂には行かずに、観音寺城跡って看板があって、脇道にそれます。(え、ここ入っていいの?って感じっす)
当時の石段が残っており、コケってて滑りますが頑張って登って下さい。10分弱登れば本丸です。石垣群が残っており往時の風景を思い描きたくなりますが、ヤブ蚊がそれをさせません。

僕はそこから桑実寺を目指して下山。また道がエグい滑る石段で、ズルズルしながら降りて来ました。途中にもコケコケの石垣群があり、写真を撮ってるとヤブ蚊にやられます。
30分くらい降ると桑実寺に到着100名城スタンプはこちらにもあります。この寺、通り抜けるだけで300円取られます。でも値打ちのある景色が見れますよ。

気合とテンションだけでは登らない方がいいっす。楽しかったですが僕は後悔しました。生半可じゃないっす。さすが最大級山城。ご覚悟なされませすよう。

2013年01月23日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
観音寺城

ニ度、車で行きました。
1回目:石山楽市会館駐車場を利用、有料でしたが『帰りにお土産買います』って言ったらタダ停めさせてくれました。
登り始めてすぐ左脇の天満宮跡が御館跡、後は観音寺の参道をヒーヒー言いながらひたすら登る(脇とかに石垣や削平跡らしき物有り)と観音正寺に着きます。一番手前の休憩所内に100名城スタンプ設置。お寺本堂に向かうと左手に伸びる細い道がありそれが観音寺城主郭部に向かう道です。主郭部を見ればヒーヒーの苦労が報われます(o^∀^o)
帰りはちゃんとお礼とお土産を買いました。
2回目:友人二人と登城。当初は1回目と同じルートを使うつもりが、前に廻った安土城と博物館で時間を食い急遽、車で登城。観音正寺すぐ脇に着く林道(有料)を使いましたが道が狭いのと駐車場の制約あるので車が多いとゲート手前で待たされます。駐車場に停めたら観音正寺に向かうまでの間に曲輪跡や登城道が散見され、行く度に新しい顔を見せる素晴らしいお城です。

2010年10月18日 真田丸
観音寺城

本丸跡までは、ひたすら歩きます、登ります…
お覚悟召され〜ぃ!

2010年09月19日 古楽侍従広家
観音寺城

ここと安土山の間あたりに日置流の弓の稽古をする場所があったとか…
信長以前に、石を割った形跡のある石垣を積んだ城。

2010年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
観音寺城

[武将像]六角定頼像
きぬがさトンネルの五個荘側に騎馬像鎮座。

観音寺城の周辺スポット情報

 石垣、石段(遺構・復元物)

 大手道入口(遺構・復元物)

 御屋形跡(遺構・復元物)

 木村丸跡(遺構・復元物)

 大石垣(遺構・復元物)

 布施淡路丸(遺構・復元物)

 目方屋敷(遺構・復元物)

 三国丸(遺構・復元物)

 沢田邸(遺構・復元物)

 楢崎邸(遺構・復元物)

 伊庭邸(遺構・復元物)

 大見附(遺構・復元物)

 馬場邸(遺構・復元物)

 伊藤邸(遺構・復元物)

 小梅邸(小倉邸)(遺構・復元物)

 裏見附(遺構・復元物)

 薬師口見附(遺構・復元物)

 孫次郎邸(遺構・復元物)

 二ノ丸(遺構・復元物)

 三ノ丸(遺構・復元物)

 三井邸(遺構・復元物)

 閼加坂(あかさか)見附(遺構・復元物)

 権現見附(遺構・復元物)

 赤田邸(遺構・復元物)

 宮津口見附(遺構・復元物)

 伝本丸(遺構・復元物)

 大石段(遺構・復元物)

 伝平井丸(遺構・復元物)

 伝池田丸(遺構・復元物)

 城跡説明板(碑・説明板)

 佐々木城址碑(碑・説明板)

 奥之院(寺社・史跡)

 観音正寺(寺社・史跡)

 観音寺城御城印(御城印)

 石寺楽市会館(スタンプ)

 観音正寺(スタンプ)

 桑實寺(スタンプ)

 安土城郭資料館(スタンプ)

 観音正寺裏参道山上駐車場(駐車場)

 入山受付(その他)

 大石垣展望台(その他)

 風土記の丘登城道入口(無料24h)(その他)

 ねずみ岩(その他)

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