伊庭御殿(いばごてん)
伊庭御殿の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県東近江市能登川町
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 御殿
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 江戸時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、井戸跡
指定文化財
- 国史跡(永原御殿跡及び伊庭御殿跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
佐生日吉城(滋賀県東近江市)[1.5km]
安土城(滋賀県近江八幡市)[2.7km]
和田山城(滋賀県東近江市)[2.9km]
観音寺城(滋賀県近江八幡市)[3.0km]
箕作城(滋賀県東近江市)[4.9km]
目加田城(滋賀県愛知郡)[7.1km]
北之庄城(滋賀県近江八幡市)[7.2km]
八幡山城(滋賀県近江八幡市)[7.7km]
長光寺城(滋賀県近江八幡市)[7.9km]
日夏城(滋賀県彦根市)[8.3km]
伊庭御殿の解説文
伊庭御殿の口コミ情報
2025年06月02日 ᴿᴱᴰ 副将軍
伊庭城[伊庭御殿 周辺城郭]
近江守護の六角氏重臣である伊庭氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。建久年間(1190年〜1199年)に伊庭高実により築かれたと云われます。
伊庭氏は近江源氏佐々木氏の庶流であり、佐々木行実の四男である高実が、伊庭荘を拝領し伊庭氏を称したことが始まりとされます。
伊庭氏と山内氏が家臣団を統率して六角氏を支えてきましたが、1491年に山内政綱が足利義尚による第二次六角征伐で戦死すると伊庭氏に権力が集中。主家に匹敵する勢力となります。
その結果、1502年に佐々木六角高頼は伊庭貞隆の排除を決行し伊庭の乱が勃発します。
伊庭貞隆は湖西へ逃れると管領細川政元の援助を受けて攻勢に転じます。
六角高頼は観音寺城を放棄し、音羽城の蒲生氏を頼り落ち延びます。
しかし1507年に細川政元が暗殺されたことに事態は急変。後継者争いが起こり、逆に庇護者を失った足利義澄は京を脱出し近江に落ち延びます。足利義澄を保護したのが伊庭貞隆であり、水茎岡山城で匿われました。
1511年に足利義澄は将軍復帰を果たせぬまま病没すると、再燃した六角高頼との対立が本格化し、1514年に第二次伊庭の乱が勃発します。伊庭貞隆は浅井亮政の支援を受けて抗戦するも、1520年に水茎岡山城が落城して終結。伊庭氏は没落します。
その後、旗本の三枝氏が領主となり、1697年には伊庭城跡に伊庭陣屋が築かれ明治まで続きました。
三枝氏は、武田信玄の重臣であった三枝虎吉の子孫であり、武田氏が滅亡すると徳川家康に仕えて旗本となっていました。
見所
宅地化により遺構はほぼ消失。勤節館付近が城跡とされ、水路に架かる橋は「陣屋橋」と名付けられています。
集落内の水路は堀跡であり、石垣は当時のものの様です。
2024年12月29日 あしたか陸中守
伊庭御殿
看板はありますが、上には立入禁止で登れません。国史跡なのにもったいない感じです。道路沿いにあるので迷うことはないと思います。
2024年05月13日 3人のパパ右衛門督は単身赴任
伊庭御殿
公園が封鎖されており、駐車場も有りません。御殿後の史跡案内がありました
2023年10月02日 ᴿᴱᴰ 副将軍
伊庭御殿
小堀遠州による設計の徳川将軍の休憩所
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。江戸時代初期に徳川幕府によって築造。小堀遠州による設計とされます。
伊庭御殿は、徳川将軍が京都へ上洛する際の休憩所として設けられた施設であり、いわゆる御茶屋御殿のひとつです。
徳川家光より後代になると、将軍上洛の必要がなくなったため各所の御茶屋御殿は逐次廃止されています。1685年に永原御殿が廃止されており、伊庭御殿はそれまでに廃止された様です。
見所
現在は、愛宕神社の御旅所となっており、周辺には高さ約1mの石垣、東側には井戸跡が残っています。
御殿の指図(設計図)が現在も残っており、国史跡にも指定されています。
2023年06月21日 城歩き兵部卿
伊庭御殿
車で行くとうっかり通りすぎてしまいました。車を止めるスペースが殆どないので、踏切を渡る前の大徳寺さんで停めて徒歩で行くのがオススメです。残念ながら、立ち入り禁止で奥まで入る事はできません。
2022年09月21日 昌幸近江守更に吉
伊庭城[伊庭御殿 周辺城郭]
六角氏と同族にあたる伊庭氏の城で、伊庭貞隆は守護代として近江守護六角高頼をよく補佐しました。共に国人衆をまとめていた山内政綱が戦死すると、権力が貞隆に集中し高頼を脅かす程になり、文亀2年(1502)と永正11年(1514)の2度いわゆる「伊庭氏の乱」が起きました。
結局最後は永正17年(1520)水茎岡山城にて敗戦し没落します。代替わりした六角定頼は権力強化に努め、六角氏の最盛期を迎えることとなります。
琵琶湖畔の平野に位置し、水堀に囲まれた城であったと予想されます。遺構は石垣が少し残るだけです。現在、謹節館(きんせつかん)と呼ばれる区の集会所が建っている辺りが中心部だったのではないでしょうか。
【写真の説明】
①伊庭城石垣
②地区の施設が建ち並ぶ。左の建物が謹節館。
2022年06月05日 織田上総介晃司
伊庭御殿
まず妙啓寺を目指します。妙啓寺から道なりに北に進むと2台位停めれるスペースがあります。(バス停があるので長時間の駐車は無理だと思います)
伊庭御殿の曲輪内は立入禁止なので道路沿いに残る石垣を見るのみとなりますので滞在時間は短い。
安土城から佐生日吉城へ向かう途中にありますので併せてリア攻めしてみては…
2022年05月05日 楊近江守威利
伊庭御殿
線路を挟み山側にあります。車は1、2台置ける程度。郭外に石垣らしきものがありますが、郭内は立入禁止になっており、散策は断念しました。
江戸時代の初めに徳川将軍家が朝鮮人街道を通って上洛する途中に利用した休憩所施設跡です。宿泊に利用した彦根城と永原御殿跡(野洲市)の中間に位置しており、徳川家康、秀忠、家光らが将軍宣下や慶長19年(1614)から元和元年(1615)にかけての大坂冬の陣・夏の陣、寛永3年(1626)の後水尾天皇二条城行幸に際して、通行した際の食事や休憩に利用しています。
江戸幕府大工頭の中井家史料「寛永十一年甲戌年 一伊庭御茶屋御作事之時 小堀遠江守」に記載されている内容や「江州伊庭御茶屋御指図」と書かれた設計図が残されています。発掘調査で見つかった石垣や石列、井戸の位置と設計図が一致し、どのような間取りであったかがわかります。
幕藩制確立期に将軍の権威を示すために行われた上洛の実態を示す全国的に見ても貴重な遺跡です。