伊庭城

伊庭城([伊庭御殿  周辺城郭])

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伊庭城の口コミ情報

2025年06月02日 ʀᴇᴅ副将軍


近江守護の六角氏重臣である伊庭氏の居城🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。建久年間(1190年〜1199年)に伊庭高実により築かれたと云われます。
伊庭氏は近江源氏佐々木氏の庶流であり、佐々木行実の四男である高実が、伊庭荘を拝領し伊庭氏を称したことが始まりとされます。
伊庭氏と山内氏が家臣団を統率して六角氏を支えてきましたが、1491年に山内政綱が足利義尚による第二次六角征伐で戦死すると伊庭氏に権力が集中。主家に匹敵する勢力となります。
その結果、1502年に佐々木六角高頼は伊庭貞隆の排除を決行し伊庭の乱が勃発します。
伊庭貞隆は湖西へ逃れると管領細川政元の援助を受けて攻勢に転じます。
六角高頼は観音寺城を放棄し、音羽城の蒲生氏を頼り落ち延びます。
しかし1507年に細川政元が暗殺されたことに事態は急変。後継者争いが起こり、逆に庇護者を失った足利義澄は京を脱出し近江に落ち延びます。足利義澄を保護したのが伊庭貞隆であり、水茎岡山城で匿われました。
1511年に足利義澄は将軍復帰を果たせぬまま病没すると、再燃した六角高頼との対立が本格化し、1514年に第二次伊庭の乱が勃発します。伊庭貞隆は浅井亮政の支援を受けて抗戦するも、1520年に水茎岡山城が落城して終結。伊庭氏は没落します。
その後、旗本の三枝氏が領主となり、1697年には伊庭城跡に伊庭陣屋が築かれ明治まで続きました。
三枝氏は、武田信玄の重臣であった三枝虎吉の子孫であり、武田氏が滅亡すると徳川家康に仕えて旗本となっていました。

見所
宅地化により遺構はほぼ消失。勤節館付近が城跡とされ、水路に架かる橋は「陣屋橋」と名付けられています。
集落内の水路は堀跡であり、石垣は当時のものの様です。

2022年09月21日 昌幸安芸守更に吉


六角氏と同族にあたる伊庭氏の城で、伊庭貞隆は守護代として近江守護六角高頼をよく補佐しました。共に国人衆をまとめていた山内政綱が戦死すると、権力が貞隆に集中し高頼を脅かす程になり、文亀2年(1502)と永正11年(1514)の2度いわゆる「伊庭氏の乱」が起きました。

結局最後は永正17年(1520)水茎岡山城にて敗戦し没落します。代替わりした六角定頼は権力強化に努め、六角氏の最盛期を迎えることとなります。

琵琶湖畔の平野に位置し、水堀に囲まれた城であったと予想されます。遺構は石垣が少し残るだけです。現在、謹節館(きんせつかん)と呼ばれる区の集会所が建っている辺りが中心部だったのではないでしょうか。

【写真の説明】
①伊庭城石垣
②地区の施設が建ち並ぶ。左の建物が謹節館。

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