木村城(きむらじょう)
木村城の基本情報
通称・別名
- 木村山城、篠原城、新庄城
所在地
- 広島県竹原市新庄町城ノ本
旧国名
- 安芸国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小早川政景
築城年
- 正嘉2年(1258)
主な改修者
- 小早川隆景
主な城主
- 小早川氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、竪堀、畝状竪堀、櫓台
指定文化財
- 県史跡(木村城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
松嶽城(広島県東広島市)[8.5km]
松尾城(広島県東広島市)[8.5km]
新高山城(広島県三原市)[8.7km]
高山城(広島県三原市)[9.5km]
賀儀城(広島県竹原市)[10.3km]
平賀氏城館(広島県東広島市)[13.1km]
小頃子城(広島県豊田郡)[14.3km]
鏡山城(広島県東広島市)[15.4km]
三原城(広島県三原市)[17.6km]
相良城(広島県三原市)[18.5km]
木村城の解説文
[引用元:Wikipedia「木村城」の項目]
木村城(きむらじょう)は、安芸国竹原荘(広島県竹原市)にあった日本の城(山城)。広島県指定史跡。
構造
現在、城山と呼ばれる山の山頂から北へと伸びた標高150mの丘陵を中心に築城された。本丸を中心とする南郭群と兵糧の段、馬返しの段を中心とする北郭群によって構成されている。周囲には堀切から竪堀、畝状竪堀が備えられ、井戸も3つ確認されている。うち1つは現存しており、井戸内部は石積みによって堅固に構築されている。
歴史
正嘉2年(1258年)、小早川政景が、都宇・竹原荘、沼田荘梨子羽郷の一部を分与され、木村城を築城して居城とした。
天文10年(1541年)、武田氏の佐東銀山城を毛利元就と共に攻めていた竹原小早川氏の当主、小早川興景が陣中で病没し、興景の夫人が元就の姪(毛利興元の娘)であった縁で、元就の三男隆景が天文13年(1544年)、竹原小早川家を相続し14代竹原小早川氏当主として木村城に入城した。そして天文20年(1551年)、隆景は沼田小早川家を相続して高山城に移った。
その後も城は維持されたと考えられるが、廃城年は不明である。
手島屋敷
木村城から賀茂川を挟んで対岸に、手島屋敷と呼ばれる中世の居館跡が存在する。間口約50m、高さ3mの石垣が残存しており、石垣の両隅は枡形が切られている。かつては「西殿屋敷」「西の殿屋敷」(にしんどんやしき)と呼ばれていた。
竹原小早川氏が竹原を去る時、竹原小早川家の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受け継いだと言われている。中世城館調査では竹原小早川氏の「居館候補地」として挙げられている。
竹原小早川氏墓所
手島屋敷の北方100mの丘陵麓に宝篋印塔が10基、五輪塔20基程度が設置されており、中世の竹原小早川氏の墓所と推測される。墓所の上にある尾根には小早川興景夫婦の墓とされる2基の宝篋印塔が残っている。この他、竹原小早川氏菩提寺の法常寺跡(三原市西町)にも宝篋印塔や五輪塔の一部が残っている。
小早川神社
木村城がある山の西麓に、慶長2年(1597年)創建で、小早川隆景を祭神とする小早川神社が鎮座している。
参考資料
- 広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
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木村城の口コミ情報
2025年03月09日 国府左京大夫城介
鎮海山城[木村城 周辺城郭]
能島を去った村上氏が築いた城
【歴史】
天正13年(1585)9月、村上武吉・元吉は小早川隆景に攻められ能島を明け渡し、小早川領である竹原に移住させられた。そこで、鎮海山城を築城し、居城とした。天正15年(1587)小早川隆景が筑前に移封されると、それに従い、竹原の地を一旦離れた。小早川隆景の死後は毛利輝元に仕え、長門に移動した。
慶長2年(1598)に、豊臣秀吉の死後、村上元吉は竹原に移り、再び鎮海山城を居城とした。
慶長5年(1600)に、村上元吉は伊予三津浜にて、加藤嘉明の家臣・佃十成の夜襲を受け、戦死した。
慶長6年(1601)、毛利氏の防長減封に伴い、村上氏は竹原を離れ、屋代島(周防大島)に移った。(これを『竹原崩れ』と称する)それに伴い、鎮海山城も廃城となった。
【遺構】
木村城の南東4.85kmに位置し、竹原の町を見下ろすことができる鎮海山(標高90m)に築かれた山城です。往時は深い湾に突き出た岬だったらしく、賀儀城のような海城であったようです。
頂上が主郭にあたり、北西に軽く削平した郭が数段並んでいる。南東側には海へ突き出す郭があるが、土塁や堀切といった遺構は一切見受けられない。
主郭部分には石組が残っており、これはかつてあった城山神社の名残と言われている。
北西側の麓には、村上元吉と戦死者の墓所がある。
【感想】
全く事前情報なしで訪れたので、能島を去った村上水軍の居城として使われた城とは思ってもいなかったです。
しかし、能島を取り戻すつもりだったのか、失意のまま去ったのか分かりませんが、この鎮海山城は仮住まいのつもりなのか、極めて簡素な造りをしているお城です。削平した郭が数段ある程度で、堀や土塁といったものは全くありません。
とはいえ、麓には三津浜で戦死した村上元吉とその部下の墓所もあり、村上水軍が好きな方は是非訪れてみてください。
竹原駅からも近く、標高も90m程度と登りやすく、ハイキングコースとしても整備されています。
登城口は2か所ありますが、初見の方は案内板がある竹原小学校の南側から登る東側の登城口を推奨します。北西側の登城口は全く案内板がないので、極めて分かりにくいです。
【アクセス】
①竹原駅から徒歩15分(東側登城口)
②竹原駅から徒歩10分(北西側登城口)
【写真】
①東側登城口
②主郭下(南側)
③主郭
④説明板(鎮海山城)
⑤城山神社跡の石組
⑥北西の郭
⑦村上元吉の墓所
⑧説明板(村上元吉の墓)
2025年03月02日 国府左京大夫城介
手島屋敷[木村城 周辺城郭]
石垣が残る竹原小早川氏の居館跡
【歴史】
築城年代は不明だが、竹原小早川氏によって築かれた。
竹原小早川氏の本拠である木村城は川向にあり、平時はここの居館にあったと考えられる。
小早川氏が竹原を去ると、家臣の手島氏が館を引き継いだ。
(天文20年(1551)の沼田・竹原両小早川統合の頃か、若しくは天正15年(1587)の小早川隆景の筑前移封の頃か)
別名:西殿(にしんどん)屋敷
【遺構】
木村城の北西500mにある56m×44mの方形居館である。(現在は個人宅となっている)
南面は高さ2mの石垣があり、その両袖には枡形が切られている。特に西側の枡形は「勝負の壇」と呼ばれているが、由来は不明である。また、中央部には屋敷の門跡がある。
また、北に100m程行った場所には、竹原小早川氏の墓所があり、二基の宝篋印塔は小早川興景夫妻の墓と伝わる。
【感想】
現在は個人宅となっているので、内部には入ることが出来ませんが、立派な石垣が残っています。
もしかすると、ここに小早川隆景が生活をしていたかもしれませんね。
木村城とは目と鼻の先にあるので、一緒に訪れることを推奨します。
【アクセス】
竹原駅からレンタサイクルで、約20分。
【写真】
①説明板(手島屋敷)
②石垣
③西側の枡形(勝負の壇)
④中央の門跡
⑤東側の枡形
⑥説明板(竹原小早川墓地)
⑦竹原小早川墓地
2022年01月11日 安芸守 あきら
登城口[木村城 その他]
説明板の先に登城口があります。登城路は多少落ち葉はあるもの、清掃が行き届き歩きやすい。路肩が多少崩れているところもあるので、気をつけて下さい。登城路の左手に竪堀が見られますので楽しみながら登城できます。
2022年01月11日 安芸守 あきら
駐車場・説明板[木村城 駐車場]
説明板の前に1台駐車できます。周辺の空き地にも停めさせてもらえそうです。説明板の後ろの倉庫には清掃用具が入っており、地元の方々がしっかり管理されている様子が伺え頭が下がる思いです。
2021年05月10日 九曜紋東市正。
木村城
木村城跡の西側には、北から南へ賀茂川が流れ、東側にも、山からの水を集めた川幅2mほどの小川が南から北向かって城山を西に回り込んで賀茂川に合流しています。
城跡への登口は、R432から山を南東側へ300m程度回り込んだ場所(小川の上流部)にあります。
天気も良く、登口までの徒歩での行程は、小川のせせらぎと鶯の鳴き声だけが響くような静寂の中を、小川に沿って歩きます。(進む路が不安になった頃合いに、時々出現する案内矢印を探しながら)
さて、登山道ですが、
登山道は、最近、人が歩いた痕跡を探せないほど、落ち葉が厚く堆積していました。
急斜面では、この落ち葉によって足を滑らせないように、細心の注意を払う必要があります。
山道を汗をかきながら、20分、体感での標高50mを登った所に、7m四方程度の本丸跡があります。途中には、2箇所の井戸跡,複数の廓跡と考えられる場所を見ることができます。
下山し、城山の西側の麓(R423沿)には、小早川隆景公を祀った小早川神社(和賀神社)があるのですが、2年前の豪雨で神社近くの斜面が崩落していることも関係するのか? 参道には草が生い茂り、荒れ果てている感があります。
さらに、賀茂川を渡った対岸には、立派な石垣の残る手島屋敷(小早川家居館)跡、及び小早川家墓地を見ることもできます。
2020年11月29日 織田上総介晃司
木村城
先人の情報とリア攻めマップを参考に城の東側の登城口付近に駐車。
小早川隆景が城主となった城で唯一新幹線の影響を受けてない城です。(三原城は新幹線・山陽本線により分断 高山城と新高山城はトンネルにより真下を新幹線が通過)
安芸の小京都・竹原は町並み保存地区があり古きよき時代を感じられます。
連続テレビ小説「マッサン」のモデルとなった竹鶴政孝さんの生家・竹鶴酒造もあり今も営業されてます。
2020年06月06日 KAZ左大臣正勝
竹原小早川家墓所[木村城 寺社・史跡]
道路脇に説明板があり、2段にお墓が
ありました。
1段目から左手の尾根を20mぐらい
登ると、小早川興景夫妻のものと言われる
お墓がありました
ちなみに、隆景公のお墓は三原市沼田東の
米山寺にあります。
秀秋君のお墓は岡山です。
2020年06月06日 KAZ左大臣正勝
毘沙門岩[木村城 寺社・史跡]
大きな岩肌に毘沙門天が掘られてます
中世中期から末期頃の作品らしいっす
(=゚ω゚)ノ
道路脇に説明板があり、20mぐらい
歩いて上がった所にありました。
ちょうど、説明板の真上あたりです
2020年06月06日 KAZ左大臣正勝
入り口[木村城 碑・説明板]
ここからお城に入っていきます。
車でも入って行け、2台くらいは
駐車出来ます
2020年06月06日 KAZ左大臣正勝
残存石垣[木村城 遺構・復元物]
曲輪の北の端からは写真の様に
街道筋が見渡せます(^-^)
うーむ…やぱ!こーゆートコには
見せる石垣がありますねー(≧∇≦)
2020年06月06日 KAZ左大臣正勝
若宮神社跡[木村城 寺社・史跡]
この周囲、瓦が散乱してます
素焼きですが、大半は桟瓦でした
2020年06月06日 KAZ左大臣正勝
木村城
小早川隆景公が入ったお城です(^O^)/高さが100mチョットと低いせいか
元春公の日山城とは違って戦うお城になってます。井戸は3つあり、本丸下の井戸は石組みで深さ6mあるとの事3つの井戸を頭の中で繋げると、水脈が
見えて来そうです(≧∇≦)南側の尾根筋には堀切があり1本は大きくあと小さいのが連続してました。小さい堀切は飾りなのか?埋まってるのか?南側の防御が弱い気がします。ま✋切岸と曲輪でカバーっすかね早めに高山城に移ったのも…もしかして(・・?)
その他、多数の畝状竪堀があるのですが僕は、まだまだ修行が足りないらしく…半分くらいしか発見出来ませんでしたσ(^_^;)
2017年05月23日 東照大権現周防守カズピー
木村城
トイレはありませんのであらかじめ済ませておいてください。駐車場はふもとに停めました。本丸まではそんなに高い山ではないので普段歩かない人でも大丈夫ですだとおもいます。
2015年10月21日 カーネル
木村城
芸陽バス 西条駅-竹原駅の路線で小早川神社バス停で下車。すぐお城の登山口の看板あり
馬返しの段で、兵糧の段に上がらず左手奥に進んで竪堀を見に行きましょう。そこから、馬返しの段に戻らなくても、兵糧の段に行ける道もあります。若宮社で櫓跡、井戸の段で石垣の井戸を見たら、本丸奥の曲輪から、うっすらと獣道があるので、斜面を下ると竪堀があります。戻って本丸へ
帰りは本丸から末宗谷の見張りに行き、10mくらい下に竪堀が見えるので斜面を下りましょう。うっすらと先人が歩いた獣道があるので、やや高度を下げながら右の本丸下方面に。畝状竪堀を満喫できます。10本くらいあります
見終わったら、高度を上げずに先人のうっすら獣道をたどると、馬返しの段の先にある曲輪に戻れます
これが一番効率よく見学できると思います
バスがくるまで余裕があれば、小早川神社にお詣りを。崩れて凄いことになってますが・・・
全部で1時間10分くらいでした。竪堀と神社に行かなければ、あっという間だと思いますよ