佐東銀山城(さとうかなやまじょう)

佐東銀山城の基本情報

通称・別名

銀山城、金山城

所在地

広島県広島市安佐南区祇園町他

旧国名

安芸国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

武田信宗

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

安芸武田氏、毛利氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、堀切、井戸

指定文化財

県史跡(銀山城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

八木城(広島県広島市)[5.8km]
己斐城(広島県広島市)[5.8km]
広島城(広島県広島市)[6.0km]
恵下山城(広島県広島市)[6.4km]
二ヶ城(広島県広島市)[6.7km]
己斐古城(広島県広島市)[7.0km]
永町山城(広島県広島市)[7.2km]
水晶城(広島県広島市)[8.0km]
府中出張城(広島県安芸郡)[8.9km]
草津城(広島県広島市)[9.5km]

佐東銀山城の解説文



佐東銀山城(さとうかなやまじょう)、または銀山城は、安芸国佐東郡(広島市安佐南区)にあった日本の城(山城)。「銀山城跡」として広島県指定史跡[1]

概要 

現在、武田山と呼ばれる標高410メートルの山頂を中心とし、周辺の尾根に50以上の曲輪を持つ巨大な連郭式山城であった。堀切や近世城郭に見られる桝形の原点とも言える巨岩を利用した御門跡などの遺構が存在するも、他の山城に見られるほどの築城が行われた形跡は少なく、自然の要害を利用した山城であった。周辺地域には支城や寺社を配し、防衛網を作り上げていた。

沿革 

鎌倉時代初期、この地は、古市、今津等の市場や港町として賑わっており、古代山陽道と瀬戸内海に面した安芸国の流通・経済の中心地であった。承久3年(1221年)の承久の乱の後、恩賞として安芸国佐東郡を得た武田氏当主・武田信光は、この武田山の麓に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗り出した。しかし時代が下り、元寇や幕末の政情不安によって戦乱の雰囲気が高まり、正安元年(1299年)には桜尾城主平員家の攻撃を受け、佐東銀山城は落城した。このような状況下、所領の防衛に適した地に城郭を構える必要に迫られ、安芸国に下向した武田家当主・武田信宗によって、鎌倉時代末期に現在の武田山頂上域に建てられたとされる。

室町期には、安芸国へと進出を図る周防国の戦国大名・大内氏との激闘の舞台となり、幾度となくこの城を巡って攻防戦が繰り広げられた。

永正14年(1517年)、山陰の尼子氏と結んだ安芸武田氏当主・武田元繁は、毛利氏の西隣の吉川氏を攻めた。元繁は安芸有田で毛利元就率いる毛利軍や吉川軍と戦って元繁は討死したため(有田中井手の戦い)、これ以降安芸武田氏は弱体化に歯止めがかからなくなった。

天文10年(1541年)、毛利元就は吉田郡山城の戦いにて尼子軍を撃退。同年、元就は銀山城を攻めこれを攻略した(佐東銀山城の戦い)。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある(この伝承を裏付けるように、太田川の川岸付近にある広島市東区戸坂町には、「千足」の地名が現在も残っている)。銀山城には大内方の城番として冷泉隆豊が置かれた。

天文23年(1554年)、毛利元就は厳島の戦いの前哨戦として佐東銀山城を攻略。大内氏城番・栗田肥後入道は説得に応じて即日開城し、城は毛利の支配下に置かれた(防芸引分)。

以後、銀山城は関ヶ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれた。毛利元就の隠居城として使う予定があったものの、現実にそれが実行されることはなかった。後に広島城が築かれるとその重要性は低下し、毛利氏が関ヶ原の戦い後に移封されると廃城となった。

江戸時代以降も城地が荒らされることはなく、現在は周辺地域の住民よる保全活動により維持整備され、ハイキングコースとして定着している。

逸話 

安芸武田氏滅亡の際、残党が再起するための資金として、武田山中の洞窟に先祖伝来の純金の茶釜を埋め、目印として白南天を植えたという伝説が残っている。元々この山は金銀を産出したとされ、「銀山」の名もこれに由来するものだと言われている。武田山の真北には、かの石見銀山が位置しており、また真南には、武田氏が甲斐より勧請した宇品・神田神社が位置している(当初は東区。戦中、軍用地として徴用され、現在地に移転)。

現在、この山城の登山道口には広島経済大学と広島県立祇園北高等学校がある。 なお、祇園北高校の校章には武田菱があしらわれている。

また、地域のゆるキャラとして、武田山のお殿様をイメージした「たけちゃま」が存在する。

略年譜 

  • 文永11年(1274年) - 武田信時、元軍に備え、安芸国に下向。この後、佐東銀山城築城。
  • 正安元年(1299年) - 桜尾城主平員家の攻撃により落城。この後、現在の城域に移転、築城。
  • 永正13年(1516年) - 武田元繁、安芸国内七郡の探題となる。
  • 永正14年(1517年) - 武田元繁、有田城を攻め、毛利・吉川軍と戦い敗死(有田中井手の戦い)。
  • 大永4年(1524年) - 大内義興、安芸武田氏攻撃。佐東銀山城を包囲するも、尼子援軍により敗北、撤退。  
  • 享禄元年(1528年) - 大内義隆、安芸武田氏攻め。佐東銀山城を包囲するも、撤退。
  • 天文2年(1533年) - 武田光和、家臣の熊谷信直と絶縁。熊谷氏居城・三入高松城を攻めるも敗北(横川表の戦い)。
  • 天文9年(1540年) - 尼子詮久、毛利元就本拠・吉田郡山城を攻めるが敗北。翌年撤退(吉田郡山城の戦い)。
  • 天文10年(1541年) - 武田信実、孤立した佐東銀山城を放棄して出雲国へ逃亡。安芸武田氏滅亡。同年、大内義隆が佐東銀山城に城番として冷泉隆豊を置き管理。
  • 天文24年(1555年) - 毛利元就、佐東銀山城を奪取(厳島の戦い前哨戦)。この後、城番は福井元信が務める。
  • 天正19年(1591年) - 広島城が、一応の完成を見る。
  • 慶長5年(1600年) - 関ヶ原の戦い。毛利氏の防長移封に伴い、佐東銀山城廃城。
  • 1956年(昭和31年) - 3月30日付けで広島県の史跡に指定される。

支城 

  • 南御所 - 安芸武田氏初期支配時の政庁
  • 尾首城
  • 伴城(岸城、岸古城) - 城主:武田氏一門伴氏
  • 伴北城
  • 伴東城
  • 伴支城 - 出城的性格の城
  • 尾越城
  • 国重城 - 城主:国重氏

参考資料 

  • 『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』(広島県教育委員会)

佐東銀山城の口コミ情報

2025年09月15日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
幾志山城[佐東銀山城  周辺城郭]

宅地化の為、小山を削り平地となり、完全消滅してます。

2025年08月22日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
中城(緑井城)[佐東銀山城  周辺城郭]

権現山に上がる車道から城跡まで遊歩道が整備されております。切岸等も良く残ってます。

2024年02月12日 サムライちゃん
佐東銀山城

かれこれ十年前に登城しました。傾斜もあり山道は険しく、難攻不落(落ちましたが)の山城ではないでしょうか。頂上は、景色もよく、宮島まで見えました。甲斐武田と遠戚の武田氏で、麓には、軒に武田菱のある先祖を祀った新羅神社があり、是非ここにも立ち寄ってくださいね。

2022年11月13日 天河水式部卿
佐東銀山城



地元の城をリア攻めしようパート2。イメージが広島経済大学の上だったので大学へ行くも、警備員さんは城の情報をもっておらず。
おとなしく憩いの森へ移動しリア攻めしました。
ハイカーさんが多いので迷うことはないと思いますが、最近麓で人に慣れた熊さんが目撃されているので、熊鈴等用意した方が良いかもしれません。

2021年06月11日 織田上総介晃司
佐東銀山城

広島経済大学そばの武田山憩の森の駐車場(10台くらい)に停めて登城。駐車場手前の200mくらいの道は狭いので気をつけてください。

登城と言うより登山なのでそれなりの装備で臨みましょう。

毛利元就はこの城を攻める際、油を染み込ませた1000足の草鞋に火を着け太田川に流し城兵の気をそらせ守備の手薄な所から攻め込んだ逸話があり、この話に因んだ千足という地名があります。

広島経済大学のOBにソフトバンクの柳田悠岐がいます。

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
上高間[佐東銀山城  碑・説明板]



山頂も眺望がイイですが、ここもイイ感じです。山頂の様に、人があまり来ないので密にならずに眺望を楽しめます(^-^)

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
北側 見張り台[佐東銀山城  遺構・復元物]



3段の曲輪で形成されていて、曲輪の先まで行くと毛利軍が攻め上がって来た搦手方向が良く見渡せました(^-^)

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
見張り台跡[佐東銀山城  遺構・復元物]



平な岩の上に何かをのせる為なのか(・・?)加工した跡が見れます。一つは柱だと思うのですが…

出丸へは短いですがかなり険しい道のりです。足元注意!よし!( ̄^ ̄)ゞ

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
出丸[佐東銀山城  遺構・復元物]



5段の曲輪で形成してるみたいです(^-^)1番上の曲輪との切岸には写真の石組み?もありました。節理かなー?僕には積んでる様に見えるのですが…σ(^_^;)

毛利元就が攻め上がってきた搦手方向(長楽寺)は冬でも写真ぐらいの眺望しかありませんでした。長楽寺駅の周辺では、落城時に隠れていた場所があり、いまでも武田一族のお墓があります。

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
鶯の手水鉢[佐東銀山城  遺構・復元物]



山頂は巨石だらけ!(O_O)神格化にもってこいの場所です。利用しない手は無いっすね!武田さん(^-^)

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
千畳敷[佐東銀山城  遺構・復元物]



本丸があった所らしく広くて見通しがイイです(^-^)晴れて空気が澄んでいれば、瀬戸内の多島美も拝めそうです。

2021年02月13日 KAZ左大臣正勝
馬返し[佐東銀山城  遺構・復元物]



付近では倉庫跡があり、たくさんの炭化した米が出土するそうです。毛利元就が油に浸して火を付けた草鞋を流して『大手方向から攻めるぞ!』と見せかけた千足方向がよく見えます(^-^)

2019年04月23日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
駐車場[佐東銀山城  駐車場]

乗用車7台程度駐車可能です。

2018年02月11日 大一大万大吉出雲守
佐東銀山城

ハイキングコースとして整備はされているがそれなりに険しい道もあります。あまりに軽装だと苦労するかも!?

2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
佐東銀山城

安芸武田氏の城。電車からならJR可部線
下祇園駅から徒歩20分程で入山口に到着。
駐車場あり。地元では武田山と呼ばれハイキングコースとして有名。登山途中には門跡の巨石や頂上付近の本丸跡には岩に人工的な穴を開けたものがあり、矢を射る時の指先湿らせるものと考察されているとの事。

2014年10月18日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
佐東銀山城

車でご来城の方は、武田山憩いの森からのコースをお薦めします。駐車場、トイレ(チョッと香しいですが…)があります。あとは案内板に従って頂上を目指せば、迷わずに成仏 いや、頂上に辿り着けます。

佐東銀山城の周辺スポット情報

 馬返し(遺構・復元物)

 千畳敷(遺構・復元物)

 鶯の手水鉢(遺構・復元物)

 出丸(遺構・復元物)

 見張り台跡(遺構・復元物)

 北側 見張り台(遺構・復元物)

 馬場跡(遺構・復元物)

 弓場跡(遺構・復元物)

 上高間(碑・説明板)

 中城(緑井城)(周辺城郭)

 伴城(岸城)(周辺城郭)

 伴東城(周辺城郭)

 伴北城(周辺城郭)

 伴支城(周辺城郭)

 国重城(周辺城郭)

 尾越城(周辺城郭)

 白山城(周辺城郭)

 尾首城(周辺城郭)

 戸坂城(茶臼山城)(周辺城郭)

 戸坂支城(周辺城郭)

 小田狐城(周辺城郭)

 幾志山城(周辺城郭)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 武田山憩いの森 登城口(その他)

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