八木城(やぎじょう)
八木城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 広島県広島市安佐南区八木5
旧国名
- 安芸国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 香川景光
築城年
- 貞応元年(1222)
主な改修者
- -
主な城主
- 香川氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
恵下山城(広島県広島市)[0.7km]
二ヶ城(広島県広島市)[4.2km]
熊谷氏城館(広島県広島市)[5.1km]
佐東銀山城(広島県広島市)[5.8km]
永町山城(広島県広島市)[7.1km]
広島城(広島県広島市)[9.7km]
府中出張城(広島県安芸郡)[9.8km]
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七郎城(広島県広島市)[11.8km]
己斐古城(広島県広島市)[12.1km]
八木城の解説文
[引用元:Wikipedia「八木城」の項目]
八木城(やぎじょう)は、安芸国佐東郡(現在の広島県広島市安佐南区)八木にあった日本の城。
沿革
承久3年(1221年)の承久の乱で活躍した香川経景は褒賞として安芸国八木を与えられ、その子香川景光が安芸国に移住して八木城を築城したと言われる。景光が築城以来、安景、清景、行景、遠景、景春、景信、師景、方景、吉景、行景(行景妻子無く舎弟元景家督相続)元景、光景まで十三代子孫代々居城。香川氏は安芸守護であった武田氏の重鎮として活躍した。しかし永正14年(1517年)の有田中井手の戦いにおいて、安芸武田氏当主武田元繁やその傘下の熊谷氏当主熊谷元直が、毛利元就と宮庄経友率いる毛利吉川連合軍に敗北し討死。時の香川氏当主香川行景は主の仇を討てないのは無念とし、敗残の兵を纏め己斐師道とともに突撃し討死した。
元繁死後の安芸武田氏は内部の混乱が続き、重臣同士の争いが頻発するようになった。八木城もその混乱に巻き込まれ、同じく武田氏重臣であった品川左京亮の攻撃を受けている。香川光景らは毛利元就に従い、八木城はその居城として栄えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの敗北の結果、毛利氏の防長移封に従って廃城となった。
概要
八木城は太田川の西岸にある比高55mの丘陵上に築城された。城山の北部と西部は現在住宅地となっており、その曲輪の全容は不明である。現状では山頂郭群のほか三郭群が確認されている。城跡には香川氏の祖である鎌倉景正を祭る権五郎神社がある。この権五郎神社は正徳2年(1712年)に香川景継が京都より訪れ修復された。江戸時代末期の岩国藩の重臣であった香川景晃も毎年5月5日の祭礼には必ず代理の家臣を出席させていた。
城跡の西裾には「土居」の地名が残っており、この周辺に居館があったと思われる。その付近には香川氏の墓所と伝える場所も残っている。対岸には恵下山城、地蔵堂山城、遠くには熊谷氏の本拠である三入高松城がある。
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八木城の口コミ情報
2024年11月06日 SHIN
八木城
2024.11.6リア攻め。攻略難度高(南側からの場合)。🏯マークの南側、34.481256,132.502556地点に手摺と階段があります。階段は木に覆われていて、普通には通れませんが、気合で進軍します。通り抜けると墓石が2つ並んだお墓にでます。お墓の裏側は薄暗い木立になっていて、そこからは登れそうな斜面を立木から立木へジグザグに直登です。20〜30m登ると郭のような切削地にでます。さらに上に主郭であろうと思われる地形が確認できたのですが、勾配がキツく、日も暗くなってきて危険と判断し、ここまでで撤退しました。もう少し早い時間であれば、主郭周りを回って進軍ルートを見つけることができたのでは、と思いますが次の勇者に託したいと思います。JR可部線梅林駅から、先述の地点まで徒歩で15分ほどです。
2023年03月05日 大納言Z周防守369
登城口[八木城 その他]
東側登城口。城山北中学校と介護施設の間の道を南下すると、未舗装の道になるので右手に進むと写真のような登り道が見えます。写真右側の坂道を登り、ガードレールに沿って行くと、主郭はよくわかりませんが、権五郎神社には到達できます。
西側の八木取水場東側の道からも登城口があるようなのですが、墓地につながっていますし、途中で迷ってしまうので、お奨めできません。
2023年03月05日 大納言Z周防守369
権五郎神社[八木城 寺社・史跡]
山頂にある神社。祠のみある。権五郎とは、八木城主である香川氏の祖先で、平安時代後期の武将、鎌倉景正のことであるが、景正本人は安芸には行っておらず、子孫の香川景光の代から八木城主になったといわれています。
なお、主郭はこの神社に登る途中の山林内にあり、かなり生い茂っていて入れず、特定できませんでした。
2022年04月16日 天河水式部卿
八木城
遺構らしきものはほぼ無いです。小学校に上がる際に当地に引越してきましたが、当時は野犬がいるから近づかないようにと学校から言われていました。現在は周囲は団地化しています。木が生い茂っているので見通しは良くないですが、太田川対岸に恵下山城もあり水運管理の役割があったのではないかと思われます。
山側は2014年の広島土砂災害の被災地で現在道路整備中です。当時も土砂災害はあったと思いますが、地元の同級生の祖父母の方の話では太田川の氾濫による水害の方が深刻だったようです。
2022年01月16日 ネコ吉勘解由長官
八木城
西村ジョイからローソン方向に進み、八木取水場変電所横(添付画像)から上がっていき、墓地、権五郎神社を経て八木城跡に入れます。ただ城跡は何もなく荒れ地となっています。
2022年01月16日 がんこ紀伊守
八木城
城山北中学校正門横をそのまま団地方面に進み、介護老人保健施設を過ぎ突き当りの家を右へ上がる。そのまま山(小高い丘)に入ると荒れてはいるが城跡っぽい平地に出ます。