二本松城(にほんまつじょう)

二本松城の基本情報

通称・別名

霞ヶ城、白旗城

所在地

福島県二本松市郭内3

旧国名

岩代国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

不明

築城主

畠山満泰

築城年

応永21年(1414)

主な改修者

丹羽光重

主な城主

畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏

廃城年

明治5年(1872)

遺構

曲輪、天守台、石垣、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(二本松城跡)

再建造物

箕輪門、附櫓、石碑、説明板

周辺の城

田地ケ岡館(福島県二本松市)[1.6km]
八丁目城(福島県福島市)[7.2km]
小浜城(福島県二本松市)[8.4km]
宮森城(福島県二本松市)[9.0km]
瀬戸川館(福島県本宮市)[11.3km]
小手森城(福島県二本松市)[13.7km]
大森城(福島県福島市)[14.0km]
名倉城(福島県福島市)[16.2km]
母成峠防塁(福島県郡山市)[16.3km]
河股城(福島県伊達郡)[16.6km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

11 二本松城

設置場所

JR「二本松」駅構内観光案内所[地図
にほんまつ城報館(1F二本松歴史館)[地図

二本松城の解説文



二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある日本の城(平山城)。日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。平成19年(2007年)7月26日、二本松城跡として国の史跡に指定された。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている。

概要 

二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった。

戊辰戦争。 慶応4年7月29日正牛二本松藩は二本松の戦いにて、二本松城に火を放ったのは丹羽和左衛門養子茂正(新十郎)である。 茂正(新十郎)は二本松城に火を放ち、自刃していたと言う。これは茂正(新十郎)の乱心であったと丹羽和左衛門が「この大馬鹿者が勝敗決しておらぬは」と激昂したと伝わる。

慶長20年(1615年)に起きた大坂の陣以降、城を枕に討ち死にした藩は、三百余藩ある中で、二本松藩だけであった。

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築された。また、城の入り口には二本松藩7代藩主・丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた「戒石銘碑」があり、

昭和10年(1935年)に「旧二本松藩戒石銘碑」として国の史跡に指定されている。

城郭由来の建造物として、県指定文化財の茶亭「洗心亭」が、明治時代に城内に再移築され現存する。

歴史・沿革 

室町時代

室町時代初期の興国2年/暦応4年(1341年)、室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・二本松満泰が応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 - 1443年)にこの地に二本松城を築いた。

安土桃山時代

以後、陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。天正13年(1585年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重・相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した。

政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城主蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成・町野繁仍を城主に据えたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。

上杉景勝が会津を領有した期間は短く、2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。

江戸時代

元和8年(1622年)、本山豊前・本山河内が城代となり、後に外池信濃守が城代となった。

寛永4年(1627年)、秀行の嫡男忠郷が跡継ぎの無いまま死亡、次男の忠知が伊予松山城に転封となり、会津に忠知と入れ替わりに加藤嘉明が入ると、二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野烏山城から5万石で入城した。翌寛永5年(1628年)に重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には嘉明の次男・明利が入城した。

寛永20年(1643年)、嘉明の嫡男明成が改易となり、甥で明利の子・明勝も本家と同様に改易となった。代わって白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行った。この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した(白河口の戦い・二本松の戦い)。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。

近現代

  • 明治5年(1872年)、廃城令によって残る建物も全て破却された。
  • 昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された。平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。
  • 平成27年(2015年)10月10日から9日間、足場を組んでLEDを取り付けた模擬天守が期間限定で構築される[1]

構造 

二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。

頂上の城跡が時代的には古く、室町中期、畠山氏第4代二本松満泰によるものである。二本松氏の以前の居館は殿地が岡(「田地が岡」とも。現二本松市立塩沢小学校の敷地)であった。殿地が岡は平城であるが、周囲の平地から20mほどの微高地に築かれており、館的な要素が色濃い城である。観応の擾乱以降不穏になっている情勢にあわせ、城の南方1.5kmほどの「白旗が峰」に築城したと思われる。

山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120mである。本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ形となっている。

天正19年に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌した。また、本丸直下に穴太積みによる大石垣が組まれ、織豊城郭としての形が整えられた。これと同時に城下も整備されている。蒲生氏の支配の後は加藤嘉明が会津に入部し、加藤領となった。このときに山麓部分の高石垣が築かれている。

寛永20年、丹羽光重が二本松に入部すると、城下の大規模な改修を行った。まず、奥州街道を付け替えて直接城下を通らないようにし、城の南に東西につながる観音丘陵を城域に取り込んでいる。城と丘陵で囲まれた地域は武家地となり、丘陵には切通しが開かれた。このときの城域は「郭内」という地名に残っている。切通しには門が設けられ、城の外部の警戒線として機能させた。丘陵も含めた広大な城域は、東に口をあけた馬蹄のような形になっており、外部から城に侵入するには一旦丘陵と切通しを越えなければならないようになっている。この点は鎌倉と作りが似ている。また、城域外から本丸を除いた城の様子がまったくわからないという防御に有利な縄張りを持っている。

東側の開口部には水堀と門が築かれ、守りを固める形になっている。以前は堀の形に沿ってクランクがあったが、近年の道路改修で消失している。丘陵のうち北東方面(現在の二本松第一中学校付近)はなだらかだが、その北を流れる鯉川の段丘崖があったと考えられ、相応の防御力を持っている。

寺社は観音丘陵の南面と城の開口部で水堀より東に続く谷の両側に集中して配置されている。特に沢地形の奥に寺社が築かれることが多く、外敵が進入したときに兵の駐屯場所と出撃拠点をかねるような形になっている。城下最大の寺社は二本松神社であるが、観音丘陵南面の尾根上に築かれており、独立した曲輪として機能するようになっている。

また、地形的な弱点である西側の搦手には、大隣寺・龍泉寺が配置され、防御力を補う形になっている。

丹羽氏が入部してから本丸はほとんど機能していなかった。これは城の中心が山麓に移ったことを示している。しかし、室町期から城として活用されてきただけあり、本丸周辺には年代が特定できないものを含めて無数の平場がそのまま残されている。

現地情報 

城跡は県立霞ヶ城公園として整備されている。復元された箕輪門近くには「二本松少年隊群像」がある。毎年10月 - 11月には二本松菊人形展が開催される。

所在地
  • 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
交通アクセス
  • 東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線二本松駅から徒歩約20分で内城入口、入口から本丸まで徒歩約15分
その他
  • 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(11番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

参考文献 

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」

二本松城の口コミ情報

2022年04月27日 感謝岩代守おのま
二本松城



山頂の天守からの眺めは最高です。山を登るのが苦手な方も近くまで車で行けますよ☺️

2022年04月09日 樋ノ口映劇
二本松城



天守閣(本丸)からの眺めは素晴らしい。山城だったことがよくわかりました。なかなか登城は大変だったでしょうね^_^

2022年03月29日 相模守こうちゃん播磨の守♡
二本松城



車で訪問しました🚗現地、無料駐車場になります😁ここは、本丸跡手前迄車で行けます☝️最後の最後の所で砂利道になります🙄近世と中世とのミックス城跡😳

2022年02月13日 井ノ口玄蕃允
高石垣[二本松城  遺構・復元物]

二本松城の最も古い石垣のひとつ。慶長初期ごろに蒲生氏郷に抱えられた穴太衆によって築かれた石垣とされる。

2021年09月20日 陸前守かたちん
二本松城

石垣、箕輪門、本丸はもちろんですが公園全体が素晴らしい!時間たっぷりかけてゆっくりと公園全体の散策をお勧めします。あちこちに城の仕掛けの痕跡が残っています(≧∇≦)b

2021年08月29日 ほよよ常陸介
二本松城



本丸周辺とその他と場所は遠いですが、どちらも見る価値はあります。本丸周辺は車で行くと駐車場まで行く途中にギリギリの箇所がありますが、ザ山城というように360度見晴らしが良いです。

2021年08月22日 うっちー西市正幸村
二本松城

矢穴がたくさん!本丸まで夏でも軽装備で行けます。しかし一応山城なので疲れます。本丸、搦手などの重要地点は石垣が見られます。本丸は、枡形が連続していて、櫓台からの景色最高!土塁もあります。行ってよかった!

2021年07月21日 うっちー西市正幸村
高石垣[二本松城  遺構・復元物]

矢穴、矢穴を開けたが割れなかった石なども見られる。

2021年07月17日 天下泰平宮内卿
二本松城



徒歩20分とありますが、天然の要害だけあって坂がきつい。まずはタクシーで山頂までワープをお薦め。あとは下りながら城を楽しんで。石垣はなかなかの見応え。

2021年05月30日 相模守新九郎
二本松城



離れた場所でも取れますが、本丸天守台からの景色はなかなかのものです。山上にも駐車場はありますが、途中に見所もあるので、箕輪門脇に車を止めてぜひ登って頂きたいです。

2021年04月19日 明石家船上
二本松城

大手口からみて、本丸裏側に、建築初期の、穴太積みの段石垣がある。
さらに奥へ進むと、山城建築初期の、堀切、竪堀がある。

2021年04月11日 ナリナリ
二本松城



桜の花もギリギリ間に合いました。また、本丸から眺めるうっすら雪の残った安達太良山も最高です。もちろん、本丸の石垣も圧巻です。

2020年11月22日 天河水宮内卿
二本松城



100名城でもあるということで気楽に立ち寄りましたが、予想外の良い城でした。二本松駅から徒歩で攻略をお勧めしたい。また予習して行くとさらに楽しめると思います。石垣、虎口の遺構も良好。

2020年10月05日 桜井民部卿静龍
二本松城



箕輪門からの右側ルートで本丸へ向かうと、昔の名残が体験できます。平山城ですが、本丸へ向かう各所各所に城の魅力がありましてたぶん全国の平山城の中でも楽しい5本指に入るかと。裏山ルートも楽しめます。

2020年08月16日 真田岩代守ゆあ
二本松城



ここにたどり着くまでの道は狭めです。かの戦国武将、伊達政宗も苦戦した
天然の要害に守られた難攻不落の城。穴太積みの石垣など、見どころ沢山あります。秋は紅葉も素晴らしいですのでおすすめです。

2020年02月05日 独眼竜弾正少弼
二本松城



登ってわかりましたが、天然の要害ですね❗️
登り始めに樹齢300年以上の松の樹がド迫力でした。
そして天守閣跡からの眺めは絶景ですね🎵
遠征した甲斐がありました🎵

2019年10月29日 野呂利左衛門督休三
大手門跡[二本松城  遺構・復元物]



元々、城の麓を通っていた奥州街道が今のように観音丘陵の南側を通るようになったのは丹羽光重の頃です。正保三(1646)年からおよそ10年をかけたと言われます。これにより武家町と町人町が分離されました。
奥州街道と城は4本の切通で結ばれ、それぞれに西から松坂、坂下、池ノ入八、竹田の各門が設けられていましたが、いずれも冠木門だったそうです。
光重は大手門のみは櫓門にしたかったそうですが果たせず。以後、そのことが丹羽家の宿願だったとか。丹羽長富の時、天保三(1832)年に幕府の許可を得て石垣と堀を、同五年に櫓門が建てられたそうです。
①昭和二十九(1954)年模写の大手門地割図や②大原文林の「二本松城之図」、③「富田家文書」内の「二本松城大手門図」、④丹羽家所蔵の「二本松御城郭全図」では、門の前に堀があり、さらに前に広場がある様子が描かれています。また①④からは広場の左右に本陣があったことがわかります。
門は城下側が平門で、入ったら右に折れて櫓門を潜り、左、左と折れて最後に右に折れて久保丁坂を城に向かって進むことになります。
また①③には西側にも冠木門の入り口が描かれています。
①には寸法も記載されており、堀の幅は8m、橋幅が4.9m、櫓門の載る矢倉台石垣は高さ4.9mで矢倉台同士の間が10.7mあったことがわかっています。
また「二本松城沿革誌」(平島群三郎著)には櫓門の扉は総欅造りで八寸(だいたい24㎝)以上の厚さがあったと記されています。
2002(平成十四)年に久保丁坂について、下水道工事による立会調査が行われており、遺構部については調査が行われていませんが、現在の地表面は当時の地表面に約1.5m嵩上げがされていることがわかっています。

造営を進めた家老の丹羽貴明は藩校敬学館の創設、消防組の編成、備荒法の発布などの改革を進めた人物でもあります。

[参考]
二本松商工会議所「二本松城」「二本松御城郭 全図と現代図」
デジタル版 日本人名大辞典+Plus「丹羽貴明」

2019年10月29日 野呂利左衛門督休三
旧久保丁[二本松城  碑・説明板]



大手門への切通沿いに武家町の久保丁が展開していました。地名の由来は窪地からの転訛とも言われます。

[参考]
碑の説明文
まちあるきの考古学「二本松」

2019年10月29日 野呂利左衛門督休三
旧作事屋[二本松城  碑・説明板]



藩の建築工事にあたる人々が詰める作事小屋があったことからの地名だそうです。作事屋の地域には御かじ屋という地名もあったそうです。
また切通の辺りに久保丁門がありました。

正保年間の絵図だと、この辺りには門もなく、町屋や寺がありました。作事小屋が建てられたのは丹羽光重による二本松の大改造からでしょうか。

[参考]
碑の説明文
国立公文書館デジタルアーカイブス「奥州二本松城之絵図」

2019年10月29日 野呂利左衛門督休三
小沢幾弥戦死の地[二本松城  碑・説明板]

朝河八太夫の隊で戦った少年隊です。
父が江戸詰だったことから、生まれも育ちも江戸で、二本松に来たのは戦いの直前の冬だったとか。江戸育ちだったことや蘭式鼓法の免状持だったとかで、国入りした直後は鼻持ちならず、反発した地元の連中に川に投げ込まれたこともあるそうです。
戦いの年の慶応四年から幾弥は、家中で蘭式鼓法を教えていたそうで、幾弥から教授された少年らが各隊に鼓手として従軍しています。
二本松での戦闘では前述の通り、朝河八太夫の隊に所属して供中口の戦いに参加しています。同隊は愛宕山から援護砲撃をしていましたが、供中口が突破されると新政府軍と交戦。その最中、至近距離で砲弾が破裂し、八太夫と幾弥は重傷を負い、幾弥が八太夫を担いで後退します。
しかし、大手門のところまで来たときには八太夫は絶命しており、幾弥は素手で門前の広場を掘り返して八太夫の遺骸を埋めたとされます。しかし、幾弥もここまでで力を使い果たしたのか、城に向かう途中の家の庭で倒れてしまいます。そこを通りかかった薩摩藩の隊長が声をかけますが、敵味方の識別も能わない様子で江戸弁で敵なのか味方なのかを問います。隊長が味方だと声をかけると手振りで介錯を請うています。
幾弥の願いを聞き届けた隊長は、身元を調べるべくその懐剣を携えて行きました。その隊は法輪寺に宿泊しますが、寺の位牌の中に懐剣のと同じ紋を見いだします。驚いた隊長は住職に小沢家の中に江戸弁を話す若者がいるかを問い、その身元を知ることができました。隊長は米二俵を託して供養と遺族へ知らせることを頼んだとのことです。

[参考]
@hono_mt「二本松藩人物紹介#5 小沢幾弥」

2019年10月28日 野呂利左衛門督休三
門を見下ろせます[二本松城  その他]



観音丘陵の尾根北側の道と尾根上にある成田園地を結ぶ階段の辺りからです。
成田園地には二本松出身の芥川賞(第18回)作家の東野辺薫の文学碑があります。

2019年10月28日 野呂利左衛門督休三
松坂御門橋[二本松城  その他]



松坂御門のあった新丁坂の切通に架かる橋です。ここからは箕輪門や本丸を見ることができます。
正保絵図だと切通の場所には門はなく、それよりも少し南に土塁?に囲まれた食違い虎口状の物が描かれています。
丹羽氏前は奥州街道は観音丘陵の南ではなく、城と観音丘陵の間を通っていたそうですので(さらに前の中世は城の西麓を抜けていたとか)、その頃はここを通っていたと思われます。

[参考]
省資源・省エネルギー型国土建設技術に関する研究「地方都市におけるケース・スタディー依怙都市『二本松』に関する分析」
国立公文書館デジタルアーカイブス「奥州二本松城之絵図」

2019年10月16日 野呂利左衛門督休三
檜物屋酒造店[二本松城  その他]



江戸時代は檜の曲げ物職人だったそうです。酒造自体は明治七(1874)年に始めたので藩政時代とは関係ありませんが、この店の面する路地が奥州街道です。江戸方向から見た場合、この店の北側を西から来ることになり、ここの角で右に折れ、次いで左に折れて、今の国道4号を真っ直ぐ進むことになります。

ここの銘柄は千功成で、丹羽長秀に名前をあやかった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の千成瓢箪に因むそうです。地元での消費にターゲットを絞っているので、二本松市外でお目にかかることは少ないそうです。
[参考]
東北・夢の桜街道「東北酒造街道 13番 檜物屋酒造店」
街道写真紀行「旧奥州街道ぶらり徒歩の旅107 47二本松宿・若宮~松岡枡形」

2019年10月16日 野呂利左衛門督休三
旧下馬[二本松城  碑・説明板]



丹羽家菩提寺の大隣寺への参詣道にあたる町で、参詣の時はこの辺りで下馬して向かうことになっていたことからこの名がついたそうです。

2019年10月16日 野呂利左衛門督休三
二本松神社[二本松城  寺社・史跡]



同社のホームページでは、平安時代後期の久安年間(1145-1150)に安達盛長が田地ヶ岡に館を築いた際に、熊野大神を祀ったのが始まりとされています。
室町時代に畠山満泰が二本松城を築城した際に城内で八幡社と合祀されたといいます。
江戸時代に丹羽光重が城主になると、寛文元(1661)年に現在地に遷されています。二十五石の社領(ホームページでは五十石)を与えられ、二本松の総鎮守とされました。社内には丹羽家の守護神も祀られていますが、下座の右手に祀られているそうです。
現在の社殿と拝殿は文化三(1806)年(同社ホームページではその前年)、随神門はその翌年の築です。
また県の重要無形民俗文化財に指定されているおはやしも奏される二本松提灯祭りはこの神社の例大祭で、毎年10月の第一土曜日から3日間の日程で執り行われています。

[参考]
由緒説明板
二本松神社ホームページ

2019年10月13日 野呂利左衛門督休三
称念寺[二本松城  寺社・史跡]



文治元(1185)年に創建されたと言われます。当初は「松念寺」の名の法相宗の寺でしたが、弘安三(1280)年に一遍(初代遊行上人)が来訪した際に住職が時宗に帰依し、称念寺に改めたとされます。
応永二十(1413)年頃に奥州探題の畠山満泰が二本松城を築城した時にその中腹に移されたそうです。
天正十四(1586)年に畠山氏が滅亡した際に高森に避難しますが、後に丹羽光重が二本松城下を整備する際の延宝三(1675)年頃に現在の場所に再興しました。

寺には畠山氏の歴代と、畠山義継とともに粟の須の戦いで討死した23人の家臣が祀られた墓所や、市指定有形文化財の浮彫阿弥陀三尊来迎供養塔墓(南北朝末期か)があります。
また安達三十三観音の二十番でもあります。

福島市の宝林寺の伝えでは時宗の真教(一遍の弟子で2代目の遊行上人)によって宝林寺、桑折寺(桑折町)とともに永仁五(1296)年に創建されたとされています。
畠山義継没後に一度廃寺になり、その際に位牌や寺宝は宝林寺に移されたということになっています。

[参考]
由緒書看板
二本松市観光連盟「称念寺」
福島市ふくしまWeb案内人「5.宝林寺」

2019年10月13日 野呂利左衛門督休三
旧鉄砲谷[二本松城  碑・説明板]



蒲生氏時代に二本松城は東と西に二分され、それぞれに城代を置いたとか。
東側は松森舘と呼ばれ、その大手が置かれたのが鉄砲谷だそうです。武具が集積されていたのではないかと見られています。
蒲生氏郷時代の城代は蒲生郷成と町野繁仍、町野幸和。秀行時代も城代を2人置いています。

蒲生郷成は柴田勝家旧臣で元は坂源二郎でしたが、岩石城攻めで豊臣秀吉に功が認められるなどしたため、蒲生姓を与えられています。氏郷時代は最終的に四万石にまで上り詰めています。
蒲生氏郷没後の蒲生騒動(蒲生家家臣内の争い。筆頭仕置奉行[家老]の蒲生郷安が失脚。郷成も関与)で蒲生家は宇都宮に減封されますが、郷成も三万石に減知されますが、笠間城主になっています。慶長五年の動乱後に蒲生家が会津若松に返り咲くと守山・三春の城代を経て須賀川四万五千石の城主になりますが、重臣の岡重政と対立して出奔し、藤堂高虎に仕えています。関ヶ原合戦で石田三成に属して戦った蒲生郷舎は子とも弟とも(関ヶ原合戦後は蒲生家に帰参)。

町野繁仍は竹田神社(東近江市。朝日野駅そば)神職家の安井家の出身。後に実家が途絶えたため継承のために戻っています。
幸和は残って仕えますが蒲生郷喜、蒲生郷舎兄弟との対立で出奔して旗本になっています。

[参考]
二本松市観光連盟「二本松城(霞ヶ城)・歴代城主・城代について」
Wikipedia「蒲生氏郷」「蒲生郷成」「町野繁仍」「町野幸和」「二本松城」


2019年10月05日 野呂利左衛門督休三
大隣寺[二本松城  寺社・史跡]



寛永四(1627)年に丹羽長重が父の長秀の菩提寺として白河(福島県白河市)に創建した寺です。長重が棚倉(福島県棚倉町)から白河に転封になった時です。その16年後に丹羽家(当主は次代の光重)は二本松へと転封となり、同寺もいっしょに移転しています。
移転当初は二本松城下の東の現在の遍照尊寺がある場所でしたが、承応二(1653)年に向原(東北本線の南側。大手門跡のある久保丁坂の向かい。大壇口古戦場近くに向原交差点があるが、そことは違う)、寛文二(1667)年に現在地へと移転が繰り返されています。
本堂は文化八(1811)年のものですが、江戸時代の建物はこれと経蔵のみです。かつては山門もありましたが、明治になっての資金難で売却されています。
この本堂向かって左に二本松少年隊の墓、裏山の中腹に丹羽家歴代の墓があります。
また市指定有形文化財の丹羽家歴代の肖像が伝わっています。長秀、長重に丹羽家二本松初代の光重から九代長富までの11名12幅です。束帯装束の画像全員分に加え、長重のみ甲冑像があるため一幅多くなっています。

2019年10月05日 野呂利左衛門督休三
大隣寺[二本松城  寺社・史跡]



[丹羽家墓所]
本堂向かって左側に沿って参道が続きます。まず、最初に当たるのが幕末の先代当主の九代長富(慶応二=1866年死去。戊辰戦争の二年前)の墓です。幕末の当主は長富の子の長国ですが、長国以降の当主の墓は東京になります。
続いて、歴代の実母の隠墓群があります。当主は名目上、正室の子とされていたため、実母を陰ながら供養するために建てられたものです。
その後は歴代当主の墓で、手前から八代長祥、四代秀延、三代長之、六代高庸、五代高寛、初代光重(参道からは正面中央の位置)、七代長高と続いています。二代の長次は江戸で亡くなったため泉岳寺に葬られました(現在は青山墓地に改葬)。
なお、この寺を創建した長重の墓は白河の円明寺(地名です)にあります。

2019年10月05日 野呂利左衛門督休三
大隣寺[二本松城  寺社・史跡]



[二本松少年隊の墓]
ここに隊長の木村銃太郎と副隊長の二階堂衛守を初めとする大壇口での戦死者が葬られています。毎年7月28・29日に墓前祭が執り行われています。

2019年10月05日 野呂利左衛門督休三
大隣寺[二本松城  寺社・史跡]



[二階堂衛守と岡山篤次郎戦死の地 ]
大壇口から撤退した少年隊はこの寺の門前で新政府軍の攻撃を受けます(最初のみが一斉斉射で後は威嚇射撃だったとも)。この時に副隊長の二階堂衛守が即死、隊士の岡山篤次郎が重傷を負い、その日のうちに亡くなっています。

二階堂衛守は家老の大谷信義の次男とされる人物で(異説を記す文献もあるそうだが、大谷一族であることは間違いないらしい)、二階堂姓は藩主に気に入られた衛守が名乗ることを許された先祖の姓名です(いつからか不明だが安政五[1858]年には名乗っていたらしい)。
江戸詰や郡山に住むなど二本松城下にいることは少なく、郡山に住んでいた理由も現在は不明など解明することが多い人物だそうです。藩での役職も編纂物で異同があります。少年隊での役割も副隊長ではなく、世話係だったようです(そもそも副隊長という役職はなかったらしい)。
大壇口で負傷で動けなくなった隊長の木村銃太郎をその頼みで介錯した後、退却の途上の大隣寺前で、すでに寺を占拠していた新政府軍の攻撃を受けて戦死しています。墓は大隣寺です。
大谷家は鎌倉幕府の有力御家人の二階堂家の尾張に住んだ庶流で、戦国時代には丹羽家に仕えていました。戦国後期から江戸初期に活躍した大谷元秀は長秀・長重父子に仕え、観音寺城の戦いで初陣、大坂夏の陣まで数々の戦いに参加しています。佐々成政との戦いでは成政の家臣の佐々隼人を討ち取りますが、この時に隼人から奪った槍が後に丹羽家の持槍となる笹切だそうです。丹羽家が慶長五年の動乱で改易になっても、元秀は長重に付き従い、御家再興後は幕府への領民の越訴で申開きをして勝つなど家中で重きを置いています。

岡山篤次郎は木村銃太郎の最初の門下生です。市内の蓮華寺に藩主に墓があります。

[参考]
大隣寺ホームページ
Privatter「二本松藩人物紹介#2 二階堂衛守」
青空亭「人物紹介 二階堂衛守信近」
Wikipedia「大谷元秀」

2019年10月05日 野呂利左衛門督休三
蓮華寺[二本松城  寺社・史跡]

二本松での戦闘の直後は新政府軍の宿舎に割り当てられていますが、新政府軍の兵の振る舞いがひどく、客殿で肉食までしていたそうです。十九世住職の日勇はその行いに抗議して、団欒する兵たちの前で腹を切ったそうです。
寺には少年隊の岡山篤次郎、岩本清次郎、三番組番頭の樽井弥五左衛門、その父で農兵司令士の黒田兵庫らの墓があります。

境内の寛永二十(1643)年に植えられたと伝えられるシダレザクラは市の天然記念物です。

岡山篤次郎は木村銃太郎の最初の門下生でした。一番弟子であった篤次郎は大壇口の戦いでは成田虎治とともに砲術助手として参加しています。大壇口からの撤退途上、大隣寺門前の新政府軍による斉射で重傷を負い、新政府軍の救護所になっていた称念寺に収容され、そこで志望しています。そこで「銃をよこせ」などのうわごとを述べていたことが感嘆を呼び、新政府方の隊長から反感状(かえりかんじょう。敵方からその功を証する。出したのは土佐藩の広田弘道と言われる)が出されています。墓碑にその文面が刻み込まれたとのことですが風化著しく読み取ることは困難になっているそうです。
砲術の腕前があった篤次郎でしたが美男子でもあったそうです。しかし字は下手だったそうで、母親に身元確認用の名前を装備一式に書いてもらったそうです。

岩本清次郎は木村銃太郎の父の貫治の門下でした。二本松の攻防戦では樽井弥五左衛門の部隊に所属し、七月二十七日の上ノ内の戦いに参加して戦死しています。この戦いで奇襲を受けた樽井隊は敗退。130人いた隊員は光現寺に再集合した際には17人しかいなかったそうです。
清次郎は体調不良にも係わらず撤退命令に従わずに同年の中村久次郎と射撃を続けたそうです。後年この2人は上ノ内の二銃士と呼ばれるようになったとのこと。

[参考]
戊辰掃苔録「蓮華寺」
二本松市「蓮華寺のシダレザクラ」
二本松堂「岡山篤次郎 13歳」
青空亭「岡山篤次郎道貫」
霞―奥州二本松「岩本清次郎」

2019年09月30日 野呂利左衛門督休三
大壇口古戦場[二本松城  寺社・史跡]



二本松少年隊が戦った大壇口そばの高台に説明板や碑があります。向原交差点に面した高台で、二本松城が遠望できます。
高台の下段に二本松少年隊関連の碑、上段に忠魂碑などがあります。少年隊が祀られたことで軍人関係が祀られる場所になったのでしょうか。
国道459号が通っていることから、知らないとそちらがわが奥州街道のように思えてしまいますが、東北本線の線路沿いに下っていくのが当時の街道です。
地図で見るとここの南面は急な斜面になっています。斜面は北西と南東を結ぶ線上に走っていますが、この高台の北側、東北本線が通っている場所がへこんでおり、奥州街道もそこから台地に上がっていたそうです。
つまり、大壇口は奥州街道を二本松のある台地へと登る敵に横矢を掛ける位置にあると言えます。

二本松少年隊は隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守ら22名が出撃し、大壇口に陣取りました。そして七月二十九日、二本松へと進む新政府軍と交戦。この高台から砲撃、射撃で応戦しますが、衆寡敵せず隊長の木村銃太郎の負傷で撤退を開始します。その退却準備の最中に銃太郎は腰に銃弾を受けて動けなくなり、頼みを受けた二階堂衛守が介錯します。
この戦場では隊長の木村銃太郎以下16名が戦死。生き残った隊員も全員が負傷しています。

2019年09月30日 野呂利左衛門督休三
大壇口古戦場[二本松城  寺社・史跡]



[二勇士]
二勇士の碑に記された青山助之丞と山岡栄治は、はじめ大谷与兵衛(元清。千石)の隊に所属して三春藩救援のため、小野新町に出陣しますが、七月二十六日、三春藩が一方的に降伏したため、孤立し、散り散りに退却します。二本松に戻った助之丞と栄治は、二十八日夜、今後について話し合いますが、徹底抗戦を唱える助之丞と恭順を主張する栄治は斬り合わんばかりの激論になったそうです。
二十九日の大壇口の戦闘にはどのように参加したかは不明です。少年隊の他にも三個小隊が参戦しているとのことなので、そこに参加していたのでしょうか。
二本松藩側が退却し、進撃する新政府側が、一文字石の前の茶屋を通りすぎようとした時、潜んでいた助之丞と栄治が斬りかかり奮戦しますが、戦死しています。
この時の新政府側の部隊長で、その襲撃で自身も負傷した野津道貫(後に陸軍大将。日清戦争の第一軍司令官)によれば9名が戦死したとのことです。また助之丞と栄治の剣技が相当なものだったと証言しているそうです。
なお、助之丞は文久元(1861)年の砲術試合で準優勝でした。その時の優勝が木村銃太郎でした。栄治は木村銃太郎の父の貫治の門下でした。
助之丞の墓は台雲寺、栄治の墓は正慶寺にあるそうです。

[参考]
説明板
二本松市観光連盟「大壇口古戦場」
まちあるきの考古学「二本松」
幕末散歩「二人の勇士」
青空亭「人物紹介 青山助之丞正誼」
二本松堂「青山助之丞 21歳」
霞―奥州二本松藩「大檀口の二勇士(青山助之丞・山岡栄治)」
同「『二本松藩士』主要人物名簿(早見表)」
(説明板以外はいずれもインターネット)

2019年09月26日 野呂利左衛門督休三
成田才次郎戦死の地碑[二本松城  碑・説明板]

二本松少年隊群像の刀を突き出す少年像と駅前の「霞城の太刀風」は同型の像ですが(作者は二本松出身の橋本堅太郎氏)、成田才次郎の故事を元にしています。

二本松丹羽家の家中では、松の廊下の刃傷事件で浅野長矩が斬り付けたことで仕損じたことから、その報を聞いた光重が突きを重視する剣術に変えさせたとのこと。
また才次郎の父も、才次郎に敵を見たら隊長と思しき人物を突けと助言していたそうです。
墓は他の隊士とともに大隣寺にあるそうです。

白井小四郎は奇兵隊に参加もしていました。ここを通りかかった際に潜んでいた才次郎に襲撃されました。突っ込んでくるのが少年であったことから周囲を制止して命を落としました。落命の際に才次郎を討たぬよう命じますが、才次郎は殺されてしまいます。
小四郎の墓は市内の真行寺にあるそうです。

[参考]
「霞城の太刀風」プレート
Wikipedia「成田才次郎」「白井小四郎」

2019年08月31日 かなやん太政大臣
二本松市歴史資料館前駐車場[二本松城  駐車場]

2台分の駐車スペースあり。

2019年06月15日 あおっちS左馬助
二本松城



先週末、攻城!朝まで雨だったのか足元が悪かったです。
道の案内がざっくりだったので、こっちかな?と探り探り登りましたが無事天守台までたどり着けました(^^)二本松市内を一望できる見事な眺望に、頑張って登ってきた家族も感激していました。しかしこの天守台の石垣、すごーーー!!^_^

2019年05月23日 下沼下総守雄信
成田才次郎戦死の地碑[二本松城  碑・説明板]

長州藩隊長白井小四郎を刺し殺した直後、戦死。享年14歳。

2019年05月22日 下沼下総守雄信
洗心亭[二本松城  遺構・復元物]



城内に唯一残る江戸時代期の建造物。県指定史跡。

2019年05月22日 下沼下総守雄信
案内所[二本松城  その他]



スタンプはここではありません。二本松駅か歴史資料館へ。ここでガイドマップを貰って城巡りを。

2019年05月22日 下沼下総守雄信
旧二本松藩戒石銘碑[二本松城  碑・説明板]



五代藩主、丹羽高寛が、藩儒学者の岩井田昨非の進言により、藩士の戒めとするため、1749年に藩庁前に露出していた自然石に刻ませたもの。1935年国指定史跡。刻まれた文字と意味は以下のとおり。「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」(お前がお上から戴く給料は 民の汗と脂の結晶である 下々の民は虐げ易いけれども 神を欺くことは出来ない(汗水流し年貢を納めてくれる民を大切にせよ。さもなくば天罰が下るぞ。)

2019年05月13日 ねこいんこ左京亮
二本松城

近くの二本松歴史資料館は大きくはないですが、信長さんより下賜されたという采配と軍扇等々が100円で見ることができます。お城の広場から本丸へは搦手門の方へ遠回りした方が、多少上りが楽かも。

2019年05月10日 織田上総介晃司
二本松城

復元された箕輪門、付櫓のある麓と復元石垣のある本丸までかなり離れているので駐車場は山頂の本丸前と麓の箕輪門付近の大まかに分けると2ヶ所あります。

本丸に向かう道は途中から舗装されてない道になります。道中に堀切と空堀があります。

毎年秋になると麓では菊人形展が開催され最も賑わいます。

二本松少年隊も薩長の新政府軍と戦った若人たちだが、知名度では会津若松の白虎隊とは比較にならない。
もっとPRしてもいいと思う。




2018年11月10日 藤右京大夫重真
二本松城

二本松市歴史資料館にて、戊辰150年特別企画展・二本松藩と戊辰戦争を開催中です。

2018年10月14日 陸前守仙臺むすび丸JUN
二本松城

2018年の菊人形まつり開催期間中に訪れました。菊人形まつりの会場が三ノ丸上段・下段になっているため、このエリア内は菊人形まつり入場券を購入しなければならず、有料になります。

それ以外の城内や本丸をめぐる場合は、三ノ丸東側にある児童遊園地そばの本坂御殿側からか、もしくは三ノ丸西側の庭園になっている霞ヶ池や傘松方面から無料でリア攻めできます。

2018年02月05日 嗚呼 軽蔑大膳大夫城弾正
二本松城

二本松城の戒石銘碑、碑文は原文で、

爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺
寛延己巳之年春三月

とある。読み下しは、

爾(なんじ)の俸 爾の禄は
民(たみ)の膏(こう)民の脂(し)なり
下民は虐げ易きも
上天は欺き難し
寛延己巳之年(つちのとみのとし)春三月

で、寛延己巳之年春三月とは、寛延2年(1749)である。意訳すると、
「あなたのいただく俸禄は人民の汗であり脂(あぶら)である。下民は虐げやすいが上天をあざむくことはできない」
という意味である。

2017年05月14日 こうひろ☽☽☽
二本松城

二本松駅で周辺地図を貰い、歩いてみました。久保丁坂入口を入った大手門跡と歴史資料館前道程は思った以上に急坂でした。

虎口を抜けると城跡が見えてきます。箕輪門付近は近世ですが池や滝周辺は中世城郭を味わえます。訪れた時は菊人形展で賑わっていました。

天守石垣からの展望は疲れを忘れる程の見晴らしです。交通要所で築城する理由が良く判ります。いい季節に周辺史跡もゆっくりと観光したい風情に溢れています。

電車で訪れた際には30分程度なので、城下町を味わって駅から歩いてみてください。但し、私の様に革靴スーツの場合、素直にタクシーを使った方が無難です。後で地獄を見ます。

2017年01月12日 カーネル
二本松城

東北本線二本松駅から正面の道を右折して最初の信号を左折

曲がったところに大手門の看板があります
先人も書かれてますが、大手門から城域までかなりの距離があり、城の規模に驚かされます。図書館のところには礎石・石垣もあります

左折後は坂を登り切ってから左折して、霞ヶ城公園着。箕輪門から中に入り、三の丸を抜けて本丸を目指します
道はいっぱいありますがとにかく上へ
井戸・南西大石垣を経由して本丸へ。反対側に降りると石垣・堀・土塁・井戸があります
南へ戻って搦手門を経由して駅へ。ぐるっと1周できるので行きに通った道を帰りに通るとは限りません
「ここは帰りに撮影しよう」という考えは危険です

2回目だったのでさらっと行くつもりが、圧倒的な迫力に負けて、駅から往復した行動時間は、ついつい長居して2時間強ほどほどでした


2016年09月21日 すずママ玄蕃頭合戦参加中
二本松城

20160919 見学 ちょうど菊人形祭りの準備中でしたがお邪魔にならない程度に見学できました。名城スタンプはJRの駅にありました。ポケモンGoの影響のせいか人が多く箕輪門近くは写真を撮るのが難しいです。子どもが一緒だったので天守台までは行きませんでしたがとても眺めがよく、駅との間にある丘は物見台のようにもとれました。お土産は二本松インターそばの三万石でままどおるとエキソンパイを購入。二本松城そばの薄皮饅頭が買えなかったのが心残りです

2016年04月20日 野呂利左衛門督休三
二本松城

(続き)
公園に入り新城舘、搦手門を経て、さらに北側に。山頂の総石垣の本丸を取り巻いて曲輪や堀切、土塁といった土の城の遺構が続く。本丸から三の丸へも土の曲輪が続き、まさに中世と近世のハイブリットな城を堪能できます。

時間の都合上、東側の松森舘跡や城下町などはオミット。3時間の滞在でしたが(資料館含む。城跡は1時間程)、城下も回るとしたら最低丸一日必要です。

16.01.08訪城

2016年04月20日 野呂利左衛門督休三
二本松城

駅を出るとすぐに奥州街道。右に折れ、すぐの道が大手道。大手道の西には二本松神社。元は城内にあっりましたが、丹羽光重により現在地に。

大手道の東側に歴史資料館。ここの敷地に江戸の上屋敷の石垣の一部が移築されています。このすぐ側に大手門跡。大手門跡の石垣には門の木材を受ける穴がはっきり。大手門跡を過ぎても城跡はまだ見えません。今は両側には民家が立ち並んでいますが古絵図には何も無し。以外と車の通りが多いので注意。

大手道を登り詰めると左手に行く道が。真っ直ぐ行くと箕輪門等のある三の丸ですが、車通りに堪えかね、そちらへ。

隔絶された道に不安になりながらしばらく進むと右手に二本松城を一望。何となく別世界に来たような不思議な感覚。気を取り直しますが、下りる道は見当たらず。

さらに進むと丘陵が一旦切れます。切れ目にかかる橋の名前を見ると松坂御門橋。堀切?にしては深いし、先も門跡ぽくない。後で調べると谷間に門があったとのこと(汗)

まだ下りる道が見当たらず進んでいくと霞ヶ城公園の入口に。西側に安達太良山の雄大な景色。

2015年04月28日 タコ武蔵守イカ
二本松城

2015/4/28 登城
100名城だし駅からも近そうなのでちょっと寄ってみようかと、軽い気持ちで訪れましたが、城跡にたどり着くまでに丘を一つ越え、城跡も天守台に行くには結構きつい坂を登る必要があります。

ただ、天守台からの眺めは素晴らしかったので、天気がよく、時間に余裕のある場合にはお勧めです。

2013年07月18日 コロ助
二本松城

朝、訪れたら、霞ヶ城公園前にある喫茶店の方がお店の入口を掃除されていました。通り過ぎる際に「おはようございます」と挨拶したら「パンフレット要る?」と、まだ開店時間前なのに店内に招き入れてパンフレットを下さいました。「気を付けてね。もしトイレ行くなら、営業前だけど使っていいからね」と仰って頂き嬉しかったです。

箕輪門内側の石垣は震災の修復工事中です。工事の為に通行止になっている所が少しだけありましたが、見学には差し支えありません。

2013年05月04日 金沢流北条掃部助しんのすけ
二本松城

天守台の石垣は穴太衆の子孫が築いたみたいです! そして天守台の石垣の裏に蒲生氏時代の石垣が埋まってるみたいです!!箕輪門から歩いて全て見て回っても一時間位です!!

2012年10月07日 関白独眼竜梵天丸
二本松城

今月13日〜11月18日まで菊人形祭りが開催され最寄り駅からバスが運行するそうです。片道210円

2012年08月05日 弾正少弼夢民
二本松城

歴史資料館の100名城スタンプは、「新しくなった」と書かれていました。確かに城までの坂道、僕にはキツかったです

2012年05月01日 マイリバ
二本松城

100名城スタンプは駅にある観光案内所にも設置されており、こちらのほうが歴史[資料館の物よりも状態がgoodです4(^^)d 本丸直下には日本三井のひとつ「日影の井戸」がありますので、日本三大○○ハンターにもオススメの城跡です(^-^)/

2011年08月06日 さくら主膳佑にゃ〜
二本松城

2011年8月13日(土)13時30分〜現地説明会が開催されますよ〜。ここ数年参加出来てませんがまた今年も…お盆に開催されても休み取れないよう(>_<。

2010年09月25日 徳川内大臣源朝臣康武
二本松城

大雨の朝駆けで行ったら、菊人形まつりの準備中で、城内は繁雑。山城本丸までは、徒歩でも車でも登れる。城下の大手門跡付近に市歴史資料館があり、城の詳しいパンフや、百名城スタンプが置いてある。大手門石垣と共に見学されたは

二本松城の周辺スポット情報

 箕輪門(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 日影の井戸(遺構・復元物)

 洗心亭(遺構・復元物)

 搦手門跡(遺構・復元物)

 二合田用水(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 るり池(遺構・復元物)

 霞池(遺構・復元物)

 高石垣(遺構・復元物)

 とっくり井戸(遺構・復元物)

 本宮舘(遺構・復元物)

 千人溜(遺構・復元物)

 三ノ丸上段(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 東櫓台(遺構・復元物)

 西櫓台(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 桝形虎口(遺構・復元物)

 6面旧石垣(移築展示)(遺構・復元物)

 乙森(二丸)(遺構・復元物)

 城内路(遺構・復元物)

 蔵屋敷(遺構・復元物)

 大手道(遺構・復元物)

 遠裡門(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 L字堀切(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 高石垣(遺構・復元物)

 枡形(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 旧二本松藩戒石銘碑(碑・説明板)

 霞ヶ城趾碑(碑・説明板)

 マップ(碑・説明板)

 安部井又之丞・丹羽和左衛門自刃の地碑(碑・説明板)

 二本松少年隊顕彰碑(碑・説明板)

 智恵子抄詩碑(碑・説明板)

 土井晩翠歌碑(碑・説明板)

 成田才次郎戦死の地碑(碑・説明板)

 小沢幾弥戦死の地(碑・説明板)

 旧作事屋(碑・説明板)

 旧鉄砲谷(碑・説明板)

 旧下馬(碑・説明板)

 旧久保丁(碑・説明板)

 久保丁門跡(碑・説明板)

 新城館(周辺城郭)

 丹羽霊嗣殿(寺社・史跡)

 大壇口古戦場(寺社・史跡)

 大隣寺(寺社・史跡)

 蓮華寺(寺社・史跡)

 称念寺(寺社・史跡)

 二本松神社(寺社・史跡)

 粟ノ須古戦場(寺社・史跡)

 二本松市歴史資料館受付窓口(スタンプ)

 二本松駅構内観光案内所(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(無料)(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 二本松市歴史資料館前駐車場(駐車場)

 二本松少年隊の像(その他)

 案内所(その他)

 アカマツ(その他)

 笠松(その他)

 万葉歌碑(その他)

 門を見下ろせます(その他)

 松坂御門橋(その他)

 檜物屋酒造店(その他)

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