大手門跡
大手門跡([二本松城 遺構・復元物])
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大手門跡の口コミ情報
2019年10月29日 野呂利左衛門督休三
元々、城の麓を通っていた奥州街道が今のように観音丘陵の南側を通るようになったのは丹羽光重の頃です。正保三(1646)年からおよそ10年をかけたと言われます。これにより武家町と町人町が分離されました。
奥州街道と城は4本の切通で結ばれ、それぞれに西から松坂、坂下、池ノ入八、竹田の各門が設けられていましたが、いずれも冠木門だったそうです。
光重は大手門のみは櫓門にしたかったそうですが果たせず。以後、そのことが丹羽家の宿願だったとか。丹羽長富の時、天保三(1832)年に幕府の許可を得て石垣と堀を、同五年に櫓門が建てられたそうです。
①昭和二十九(1954)年模写の大手門地割図や②大原文林の「二本松城之図」、③「富田家文書」内の「二本松城大手門図」、④丹羽家所蔵の「二本松御城郭全図」では、門の前に堀があり、さらに前に広場がある様子が描かれています。また①④からは広場の左右に本陣があったことがわかります。
門は城下側が平門で、入ったら右に折れて櫓門を潜り、左、左と折れて最後に右に折れて久保丁坂を城に向かって進むことになります。
また①③には西側にも冠木門の入り口が描かれています。
①には寸法も記載されており、堀の幅は8m、橋幅が4.9m、櫓門の載る矢倉台石垣は高さ4.9mで矢倉台同士の間が10.7mあったことがわかっています。
また「二本松城沿革誌」(平島群三郎著)には櫓門の扉は総欅造りで八寸(だいたい24㎝)以上の厚さがあったと記されています。
2002(平成十四)年に久保丁坂について、下水道工事による立会調査が行われており、遺構部については調査が行われていませんが、現在の地表面は当時の地表面に約1.5m嵩上げがされていることがわかっています。
造営を進めた家老の丹羽貴明は藩校敬学館の創設、消防組の編成、備荒法の発布などの改革を進めた人物でもあります。
[参考]
二本松商工会議所「二本松城」「二本松御城郭 全図と現代図」
デジタル版 日本人名大辞典+Plus「丹羽貴明」