小沢幾弥戦死の地

小沢幾弥戦死の地([二本松城  碑・説明板])

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小沢幾弥戦死の地の口コミ情報

2019年10月29日 野呂利左衛門督休三
朝河八太夫の隊で戦った少年隊です。
父が江戸詰だったことから、生まれも育ちも江戸で、二本松に来たのは戦いの直前の冬だったとか。江戸育ちだったことや蘭式鼓法の免状持だったとかで、国入りした直後は鼻持ちならず、反発した地元の連中に川に投げ込まれたこともあるそうです。
戦いの年の慶応四年から幾弥は、家中で蘭式鼓法を教えていたそうで、幾弥から教授された少年らが各隊に鼓手として従軍しています。
二本松での戦闘では前述の通り、朝河八太夫の隊に所属して供中口の戦いに参加しています。同隊は愛宕山から援護砲撃をしていましたが、供中口が突破されると新政府軍と交戦。その最中、至近距離で砲弾が破裂し、八太夫と幾弥は重傷を負い、幾弥が八太夫を担いで後退します。
しかし、大手門のところまで来たときには八太夫は絶命しており、幾弥は素手で門前の広場を掘り返して八太夫の遺骸を埋めたとされます。しかし、幾弥もここまでで力を使い果たしたのか、城に向かう途中の家の庭で倒れてしまいます。そこを通りかかった薩摩藩の隊長が声をかけますが、敵味方の識別も能わない様子で江戸弁で敵なのか味方なのかを問います。隊長が味方だと声をかけると手振りで介錯を請うています。
幾弥の願いを聞き届けた隊長は、身元を調べるべくその懐剣を携えて行きました。その隊は法輪寺に宿泊しますが、寺の位牌の中に懐剣のと同じ紋を見いだします。驚いた隊長は住職に小沢家の中に江戸弁を話す若者がいるかを問い、その身元を知ることができました。隊長は米二俵を託して供養と遺族へ知らせることを頼んだとのことです。

[参考]
@hono_mt「二本松藩人物紹介#5 小沢幾弥」

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