三春城(みはるじょう)
三春城の基本情報
通称・別名
- 舞鶴城
所在地
- 福島県田村郡三春町大町
旧国名
- 磐城国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 田村義顕
築城年
- 永正元年(1504)?
主な改修者
- 松下長綱
主な城主
- 田村氏、松下氏、加藤氏、秋田氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
瀬戸川館(福島県本宮市)[10.8km]
宮森城(福島県二本松市)[11.8km]
小浜城(福島県二本松市)[13.7km]
常盤城(福島県田村市)[13.7km]
守山城(福島県郡山市)[14.3km]
宇津峰城(福島県須賀川市)[16.3km]
安子島城(福島県郡山市)[17.1km]
小手森城(福島県二本松市)[18.3km]
二本松城(福島県二本松市)[18.5km]
須賀川城(福島県須賀川市)[20.1km]
三春城の解説文
[引用元:Wikipedia「三春城」の項目]三春城(みはるじょう)は、陸奥国田村郡(現在の福島県田村郡三春町)にあった日本の城。別名舞鶴城。三春藩の藩庁であった。
【概要】
三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。城跡近くには、町役場など公共機関が集まっており、現在も三春町の中枢部である地域である。
【歴史・沿革】
〜室町時代・安土桃山時代〜
-田村氏時代1-
三春城がいつ頃築城されたのかはわからない。史料上はっきりしていることは、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が守山城(現在の福島県郡山市)より三春城に本拠を移したという。田村氏は田村郡全域を支配していた豪族で、系図上は坂上田村麻呂の子孫となっているがその点は疑問符が付く。田村氏は義顕の後、田村隆顕、田村清顕と続く。隆顕と清顕の時代、田村郡のある仙道地域(現在の福島県中通り)は、会津黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの周辺各地の有力豪族がその勢力拡大のため進出してきていた。それらの豪族より力の劣る田村氏は、各有力豪族と血縁関係を結び、それら豪族の利害関係を利用して、領地を保つ状況であった。
例えば、永禄元年(1568年)の蘆名盛氏の仙道侵攻に対しては、隆顕は自分の正室(伊達稙宗の娘)の実家・伊達氏を後盾にこれに対抗し、また、天正元年(1573年)の佐竹氏の仙道進出には、一転蘆名氏と連合を組んでこれを撃退している。しかし、翌年に蘆名氏と佐竹氏の同盟が成立、さらに同じ仙道地域の小豪族である二本松城の二本松義継や小浜城の大内定綱らもそれに呼応して反田村氏となったため、田村氏は四方を敵に囲まれることとなった。
このような危機的状況の中、田村氏は隆顕から義顕に代替わりした。清顕の正室は相馬顕胤の娘であったので、相馬氏とは友好関係が保たれてはいたが、さらに清顕の一人娘・愛姫を伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせて、伊達氏とも同盟関係を結ぶことにした。しかしこのころ、相馬氏と伊達氏は伊具郡(宮城県丸森町)を巡って対立を深めており、相馬氏は佐竹氏・蘆名氏等と手を組むこととなる。
-田村氏時代2−伊達政宗との関わり-
天正12年(1584年)に伊達政宗が伊達氏家督を相続すると、政宗は積極的に仙道進出を繰り返す。このため、田村氏を除く仙道地域の諸豪族は佐竹・蘆名・岩城・相馬などと連合を組み、伊達氏に対抗した。しかし政宗は、父・輝宗が二本松城主二本松義継に謀殺されるなどの試練を乗り越え、天正13年(1585年)冬、人取橋の戦いにおいて伊達・田村軍は数的に圧倒的不利な状況で佐竹氏・蘆名氏等の連合軍の仙道制覇を阻むことに成功する。その後、形勢は逆転し、政宗の南奥羽制覇につながっていくのだが、その過程において、天正14年(1586年)に清顕が死去し、清顕に男子がいなかったため田村氏家督が不在となる状況が生じた。そのため、清顕夫人(相馬顕胤の娘)が三春城主となったが、このとき、田村家中60数名が一致団結を約した誓書(血判状)をしたためている。しかし、血判状とは裏腹に田村家中は清顕夫人の縁に頼って相馬氏と同盟を組むべしと主張する一派(相馬派)とこれまでどおり伊達氏との同盟を継続すべしと主張する一派(伊達派)に分裂した。
このような家中の状況の中、天正16年(1588年)に相馬派は家中掌握のため相馬義胤を三春城に入城させようとする。義胤は三春まで進出するが、伊達派の田村月斎等の反撃にあい、撤退を余儀なくされた。その後、その年の8月に政宗は三春城に入城し、1ヶ月半程滞在して田村領の仕置を行い、家中から相馬派は一掃され、清顕の甥の田村宗顕を三春城主とした。この時をもって、田村氏は実質的に伊達氏に従属したといってよい。なお、田村氏は小田原征伐に参陣しなかった(政宗の指示による)ために豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となった。
田村家中はその後、伊達氏に仕えた者、新領主蒲生氏に仕えた者、帰農した者など、それぞれの道を歩むこととなった。宗顕は流浪した後、政宗の死後に愛姫のとりなしによって白石城主・片倉重長に仕えた。
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三春城の口コミ情報
2020年08月24日 じょん
三春城
車で本丸近くまで行けます
80才でも登れる程度になりますので
ご城印のある歴史民俗資料館への道は工事中の為市役所の手前の道を入ってください
2019年06月10日 うっちぃ
三春城
駐車場から山の中に入ると、道が分かれています。本丸跡に行くには、左の階段状の道です。案内表示などないので注意。
2019年04月24日 みつの尾張守ことよろ!
三春城
口コミ読んでスタンプは二之丸なんだと前知識で行きました、保健センターの横より車で上がっていき途中「二之丸散策路」の看板を見てこっちだ!と路駐して行ってみたけど何もなし、
本丸の案内板も道沿いでは分からず、先ず車を止めようとなり「P」の看板の方向に上がっていったら、本丸の案内板があった、
更に本丸の方に上っていったらあずま屋があった!
あった場所は「二之丸跡」、
行ってみてスタンプの場所説明納得でした。
2018年11月04日 陸奥守たろす
三春城
↓先の方の書き込みにも見られますが、このお城の縄張り表記は紛らわしく私も悩みました(^-^;)
色々調べてみると、パンフレットに記されている本丸部分は、戦国時代には、上段が本丸、下段が二の丸だったとされ、現在建てられている標柱も、この呼び名になっているようです。
本アプリのスタンプ設置場所説明はここから来ており、間違いとは言えません。
ちなみ江戸時代初期の松下氏による改修において、かつての「主城」の一部である本丸(この時に上下段ともに本丸としたか)西の山麓部分に二の丸(現在児童公園)、東側の山麓に三の丸が設けられたとのことで、パンフレットはこの江戸時代の縄張りが反映されています。
続100名城ガイドブック(第3刷)にはスタンプは「本丸に設置予定」とあります。
2018年10月02日 みず
三春城
郡山駅からバスで行きました。
本数は少ないですが三春城直下の
三春町役場まで約30分¥740
私は郡山駅7:25→三春町役場7:57
で行きました。
ゆっくりと見てまわり三の丸まで行きました。
スタンプは案内板だと二の丸ですがパンフレットには本丸と明記してます。
帰りは三春町役場からまた郡山駅のバスもありますが三春駅まで約30分歩きました。
みず
2018年07月02日 みやび姫
三春城
続日本100名城のスタンプは本丸ではなく、二の丸の東屋隣りの箱の中にありました。パンフレットもあります。(7/1時点)
2018年04月15日 藤弾正大弼重真
三春城
三春城のスタンプは本丸跡に設置されています。三春町保健センター脇から車で中腹まで登れますが、麓から歩いて登ると色々発見があります。
2014年03月24日 三日陸奥守落人
三春城
保健センター脇の登り口(お城坂)を登ってゆくのがルートですが、けっこうな急坂です。
二の丸あたりに駐車場があるので、クルマならそこに止めたほうが楽です。
桜の時期にはたくさんの人が訪れるようですが、私が訪れた3月にはほとんど人影がありませんでした。
ただ、遺構は冬のほうが明確に確認できていいように思いました。
本丸跡に立つと町が一望できるんですが、風が強くて冷たくて、涙が出そうになる程なのでご注意を(*_*;
そのせいか、城跡のトイレまで閉鎖されてます。冬に訪れる方は必ず麓の公衆トイレで用を済ませて登ることをお勧めします…
2012年05月02日 3000ロス征夷大将軍マイリバ
三春城
滝桜だけを見て三春町から去らずに、この城の本丸にも行ってみてください
独眼竜の正室・愛姫が生まれ育った地で「めごい」桜が歓迎してくれるはずです\(^o^)/