小手森城(おでもりじょう)

小手森城の基本情報

通称・別名

小手森館

所在地

福島県二本松市針道愛宕森

旧国名

岩代国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

石橋氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

菊池氏(大内氏家臣)、石川氏(伊達氏家臣)

廃城年

遺構

曲輪、石垣

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

小浜城(福島県二本松市)[7.0km]
河股城(福島県伊達郡)[7.4km]
宮森城(福島県二本松市)[8.4km]
八丁目城(福島県福島市)[13.6km]
二本松城(福島県二本松市)[13.7km]
田地ケ岡館(福島県二本松市)[14.1km]
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三春城(福島県田村郡)[18.3km]
大波城(福島県福島市)[18.4km]
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小手森城の解説文



小手森城(おでもりじょう)は、福島県二本松市針道にあった戦国時代の城館(日本の城)。現在は本丸跡に愛宕神社が祀られており、城跡各所に石垣や曲輪の遺構が残存している[1]

歴史・沿革 

概要

小手森城のある中通り北部の阿武隈川東部一体は塩松とよばれ、16世紀後半は小浜城主・大内氏の支配地域であった。この時期の小手森城は小浜城の支城であり、菊池氏が城を守っていた。

政宗の撫で斬り

1585年(天正13年)8月27日の伊達政宗による全城兵の殺戮が行われた。

1585年(天正13年)、出羽国米沢城主・伊達政宗は小浜城主・大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、小手森城を囲んだ。

8月27日、政宗は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。このとき、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。同日付で伯父の山形城主・最上義光へ送った書状には、城主・菊池顕綱や大内定綱の親類など500人を討ち取ったほか、城内にいたものは人のみならず、犬に至るまで全て撫で斬りにし、その数は総勢1,000人に及んだと記載している。ただ、数については正確な数字ははっきりとわかっておらず、翌28日付で家臣の後藤信康に送った書状によれば200人、9月2日付で資福寺・虎哉宗乙宛の書状では800人と記載されている。また、籠城中に内部から切り崩されて降った者もいたとみられている(大内氏の庶流の中にも政宗から本領安堵を得たものや仕えた者がいるため)[2]。しかし、数はどうであれ、城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱やその一派は言うに及ばず、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。伊達氏ゆかりの祝歌として有名な「さんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯では現在でも歌われることはないという。

1987年(昭和62年)に放映されたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では第11話の「八百人斬り」で、このときの撫で斬りの様子が描かれている。

廃城

その後、小浜城も落城し、塩松は政宗の所領となったが、天正16年(1588年)、政宗の命で塩松を守っていた石川弾正が相馬義胤の誘いに応じて政宗に反旗を翻した。閏5月16日に政宗は弾正の籠もる小手森城を攻撃し、約500人を討ち取り、落城させた。この時の伊達軍にはこの年の3月に許されて政宗の家臣となったかつての領主・大内定綱も加わっていた(佐藤貴浩は定綱が許された一因として石川弾正の謀反の噂を知った政宗が定綱を味方に入れようとした可能性を指摘している)[3]

これ以後、小手森城が史料に表れることはなく、このとき廃城になったと思われる。

小手森城の口コミ情報

2024年06月06日 みっこん岩代守
小手森城



時間の都合で途中の常盤神社⛩️から引き返しましたが、解説通り二本松方面(西)からと川俣方面(東)からの街道合流地点から小浜(南)方面に向かう街道の途中に築城されており本城(小浜城)の北部防衛の要衝で有る事は現地で感じました。

麓からの参道(300m)と車で本丸近くまで行くルートが案内図に記載されています。

当日は車で行きましたが対向車がすれ違うのが難しい箇所が多いので注意が必要ですね。

2021年05月18日 ああ福島県大膳大夫城弾正
小手森城

天正13年閏8月、小手森城攻撃、撫切りの様子を最上義光に宛てた伊達政宗自筆書状です。
※文中の 」は、文章の改行位置を示す。なお、漢字は常用漢字。

急度以脚力申届候、仍今日廿七日、先達」申候ッ小手森之要害、昨日◦取廻及近陳ニ」候処ニ、通路者相留候得共、十日廿日者、彼要害」先以相抱可申候様ニ見当申候間、自身乗寄、」相手之鉄炮八千丁あまり相懸、則とり」付候間、落城申候、尤城主ヲ為始、大備(大内備前)身類」共相添五百余人討捕、其外女童申ニ」およはつ、犬訖なて(撫)切ニ為成候条、以上千百」余人きらせ申候、因之ニ二時計か内ニ、一 新城、」一 木こり山、一 かち内館、一 ひたち(常陸)館、一 小手森相添、五ヶ」所属手裏候、四ヶ所者自落申候、大備」居館小浜より前ニ者、敵地一ヶ所も無之候、」拙子名理も候哉与存候、此上者須加河訖」打出、関東中も手安候、万々期後音候、」恐々謹言、
(奥上追書)追啓、」定而当世之ならひにて、」是をも偽とおほし候へく候、」世上より其隠、」不可有之候、以上、
(天正13年)
八月廿七日 政宗(花押)
山形殿(最上義光)

書状の日付は八月とあるが正しくは閏八月である。
予想外の戦果に高揚した政宗の気持ちが文面に現れている。冥利に尽きると記し、「この上は須賀川まで打ち出で、関東中も手安く候」とまで語っている。これは最上義光へのデモンストレーションの意図も推定される。
但し、千百余人という人数は疑問があり翌日付の後藤孫兵衛宛書状には200人、資福寺宛書状には800人と記される。これも奥上追書の内容を考え合わせると最上義光を意識しての事なのか、高揚し自信に満ちた政宗の気持ちの表れなのか、興味が尽きない。

2020年11月19日 kurobuta
小手森城



平日休みを利用して二本松5城のリア攻めを敢行。その中で1番苦戦したのがここです😭

国道349を川俣方面から南下。旧東和町に入り7〜8分ほどで左手に入口の看板が見えてきます。曲がってすぐに今度は小さな看板が、あります。この先に防火用水があり軽なら横に、普通車なら道を挟んで駐車出来ます🚗

100メートルほど先が今は愛宕神社になっている小手森城の入り口です。⛩をくぐりひたすら登ります。今の時期、落ち葉が積もって滑り易いので注意が必要です💦半分ほどでようやく石段が現れます。途中、土塁や石垣の遺構が見てとれます。登った先の社は荒れ果てています。

降りる時は慎重に🚶‍♂️登りの倍は掛かります😂こんな場所を攻め落とし撫で斬りまでした政宗に恐れ入ります😣このシーンは大河でもかなりインパクトがあったと記憶してます。実際に訪れてみると感慨もひとしおです。二本松を訪れる方、100名城の二本松城だけでなくこちらもど〜ぞ😊

2015年11月22日 Nabeppu左馬頭
小手森城

車を駐車するスペースは無いが、停めるとしたら、鳥居の前。ただし、1台が限界かも。鳥居を真っ直ぐ行けば、社殿(本丸跡)だがかなり急な上に荒れている。最初に登り切った辺りに舗装された道が有るので、それを右手に迂回した方が少しは登り易い。暫く行くと右手に階段が有るので、そこを登れば、社殿に着きます。

2014年05月09日 三日左馬助落人
小手森城

本丸跡に建つ愛宕神社への参道はやや荒れているので、サンダル等では歩きにくいようです。登りきるのにさほど時間はかかりませんが、しっかりした靴をはいて登ることをお勧めします。
また、周囲には駐車スペースがほとんどないのでご注意を…

小手森城の周辺スポット情報

 小手森城址入口看板(碑・説明板)

 駐車場(駐車場)

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