宮森城(みやもりじょう)
宮森城の基本情報
通称・別名
- 四本松城、宮守城、上館
所在地
- 福島県二本松市小浜字上館
旧国名
- 岩代国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇都宮氏広
築城年
- 応永3年(1396)
主な改修者
- 大河内修理
主な城主
- 宇都宮氏、大河内氏、大内氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、礎石
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
小浜城(福島県二本松市)[1.9km]
小手森城(福島県二本松市)[8.4km]
二本松城(福島県二本松市)[9.0km]
田地ケ岡館(福島県二本松市)[10.2km]
瀬戸川館(福島県本宮市)[10.9km]
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八丁目城(福島県福島市)[13.3km]
河股城(福島県伊達郡)[14.8km]
常盤城(福島県田村市)[17.3km]
安子島城(福島県郡山市)[19.4km]
宮森城の解説文
[引用元:Wikipedia「宮森城」の項目]
宮森城(みやもりじょう)は、福島県二本松市小浜にあった日本の城。
歴史・沿革
応永3年(1396年)、奥州管領に任じられた宇都宮氏広が築城。当初はこの城を四本松城(しおのまつじょう)と称した。宮森城と名を改めたのは、文明3年(1471年)にこの城を修築して入った塩松石橋氏家臣・大河内修理である。
永禄11年(1568年)、塩松石橋氏最後の当主・石橋尚義が、田村氏に内応した小浜城主大内義綱らによって追放され石橋氏が亡ぶと、翌永禄12年(1569年)に義綱は石川有信・寺坂信濃と共に宮森城主・大河内備中を攻め滅ぼし(大河内・大内・石川・寺坂を石橋四天王と称した)、宮森城は大内領となる。義綱の子・定綱が家督を継ぐと、大内氏は田村氏からの独立を画策したため、天正13年(1585年)、田村清顕の娘婿・伊達政宗によって攻められ、定綱は小浜城を放棄して二本松城へと逃れ、宮森城もまた伊達領となった。政宗は引き続き二本松城主・二本松義継を攻めるため小浜城に入り、その後を追うようにして政宗の父・輝宗(伊達氏先代当主)が宮森城に入った。義継が政宗に降伏を申し入れると、政宗は二本松氏の所領のほとんどを召し上げるという条件を突き付けたが、輝宗の斡旋により条件が緩和されることになった。10月8日、義継は輝宗の尽力に謝意を表すため宮森城を訪れたが、その帰り際に突如輝宗を拉致した。政宗は阿武隈川河畔で義継に追いつくと、輝宗もろとも義継を銃撃して射殺した(粟之巣の変事)。この後、宮森城には白石宗実が入って塩松地方を押さえた。
天正19年(1591年)、葛西大崎一揆鎮圧後に政宗が岩出山城へ転封されて安達郡を没収されると、宮森城は蒲生氏郷の所領となる。江戸時代には二本松藩領となり城代が置かれたが、やがて廃城となった。
構造
現在、宮森城跡には神社が建てられているが、当時の郭跡や石垣、堀切などを確認できるほか、本丸跡には礎石や庭石に使われていたと思われる石が残されている。宮森城跡の北方約2kmに小浜城跡がある。宮森城を上舘、小浜城を下舘とも称し、両城は連携して防衛体制を形作っていた。
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宮森城の口コミ情報
2024年06月07日 みっこん岩代守
宮森城
解説の通り小浜城の南側近くに有ります。門を潜ると石畳の参拝道になっており本丸は山頂の静謐な森の中に有りました。
本丸には神社、狛犬、建物の礎石、小さな公園が有り周囲には土塁跡も見られました。
宮森城の西側に小浜城に通じる街道が有りますが川沿いの隘路なので大軍での行軍は難しい感じです。南からの敵勢行軍に関しては少数の城兵による防衛は有利だったと思います。
当日は早朝に車で訪問。門前に駐車して徒歩で本丸を探索しました。周囲には史跡めぐり散策コ-スも有ると案内看板に記載されていました。小浜城と合わせて訪問されると良いと思います。
2022年06月01日 RED副将軍
宮森城
伊達政宗の父である伊達輝宗ゆかりの城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1396年、奥州管領の宇都宮氏広が築城。南朝方であった宇都宮氏は北朝方の斯波氏・石橋氏に敗れ、1471年に塩松石橋氏家臣の大河内修理が入城し改修。1580年には、主家の石橋氏を滅亡させた大内定綱の所領となります。しかし、伊達政宗の侵攻により大内定綱は、姻戚である二本松氏を経由して会津の蘆名氏のもとへと逃げ落ちます。伊達政宗は蘆名氏に侵攻するも失敗し、代わって二本松城主の畠山義継へ侵攻します。
1585年、畠山義継は政宗に降伏。伊達政宗の父である伊達輝宗が宮森城に在城しており、畠山義継は和議調停のため訪れますが、輝宗を拉致する事件を起こします。所領の境目にあたる阿武隈川河畔で、伊達輝宗は自分を撃てと叫び、伊達勢は一斉射撃を行い全員が死亡。畠山義継とともに伊達輝宗も非業の死を遂げました。粟之巣の変事と呼ばれています。
その後は伊達家臣の白石宗実が入城し塩松地方を支配。1591年に伊達政宗が転封されると、蒲生氏郷の所領となります。江戸時代には二本松藩領となり城代が置かれましたか、やがて廃城となりました。
見所
現在は神社の境内となり、土塁、石垣、堀切、礎石が確認できます。
整備はあまりされておらず下草が茂っていました。
2016年04月09日 永眠武蔵守釋 葱進
宮森城
先の口コミでも苦労されてる駐車場の件ですが、門(模擬)をくぐり階段手前(狛犬のあるあたり)右側のやや広くなっている場所まで車の乗り入れ可能だそうです。
(たまたま居合わせた関係者の方より伺いました)
あわせて腹切石や御膳清水といった関連史跡もめぐるなら、門の前や御膳清水そばの待避所に停めた方が動きやすいとは思います。
2014年10月12日 ああ福島県大膳大夫城弾正
宮森城
御膳清水のそばに退避所ような所があり、車を止めるには丁度よいと思われます。
2014年05月09日 三日左馬助落人
宮森城
駐車スペースを見つけるのにやや苦労しますが、城の周囲には関連史跡も点在しています。
・大河内備中の一族が落城の折、城門外の岩の上に立ち腹を切ったという「腹切石」
・同じく落城の折、城内から子を抱いて逃げ出した母親が敵に囚われ、子は斬殺された「稚児の墓」
・伊達輝宗の御用となり、今もこんこんと水を湛える「御膳清水」
など…
ぜひ城の周囲もぐるりと回ってみて下さい。
2012年06月24日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
宮森城
近くに駐車場は見当たらず、入口の門の前に止めて行きました!