大壇口古戦場

大壇口古戦場([二本松城  寺社・史跡])

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大壇口古戦場の口コミ情報

2019年09月30日 野呂利左衛門督休三


二本松少年隊が戦った大壇口そばの高台に説明板や碑があります。向原交差点に面した高台で、二本松城が遠望できます。
高台の下段に二本松少年隊関連の碑、上段に忠魂碑などがあります。少年隊が祀られたことで軍人関係が祀られる場所になったのでしょうか。
国道459号が通っていることから、知らないとそちらがわが奥州街道のように思えてしまいますが、東北本線の線路沿いに下っていくのが当時の街道です。
地図で見るとここの南面は急な斜面になっています。斜面は北西と南東を結ぶ線上に走っていますが、この高台の北側、東北本線が通っている場所がへこんでおり、奥州街道もそこから台地に上がっていたそうです。
つまり、大壇口は奥州街道を二本松のある台地へと登る敵に横矢を掛ける位置にあると言えます。

二本松少年隊は隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守ら22名が出撃し、大壇口に陣取りました。そして七月二十九日、二本松へと進む新政府軍と交戦。この高台から砲撃、射撃で応戦しますが、衆寡敵せず隊長の木村銃太郎の負傷で撤退を開始します。その退却準備の最中に銃太郎は腰に銃弾を受けて動けなくなり、頼みを受けた二階堂衛守が介錯します。
この戦場では隊長の木村銃太郎以下16名が戦死。生き残った隊員も全員が負傷しています。

2019年09月30日 野呂利左衛門督休三


[二勇士]
二勇士の碑に記された青山助之丞と山岡栄治は、はじめ大谷与兵衛(元清。千石)の隊に所属して三春藩救援のため、小野新町に出陣しますが、七月二十六日、三春藩が一方的に降伏したため、孤立し、散り散りに退却します。二本松に戻った助之丞と栄治は、二十八日夜、今後について話し合いますが、徹底抗戦を唱える助之丞と恭順を主張する栄治は斬り合わんばかりの激論になったそうです。
二十九日の大壇口の戦闘にはどのように参加したかは不明です。少年隊の他にも三個小隊が参戦しているとのことなので、そこに参加していたのでしょうか。
二本松藩側が退却し、進撃する新政府側が、一文字石の前の茶屋を通りすぎようとした時、潜んでいた助之丞と栄治が斬りかかり奮戦しますが、戦死しています。
この時の新政府側の部隊長で、その襲撃で自身も負傷した野津道貫(後に陸軍大将。日清戦争の第一軍司令官)によれば9名が戦死したとのことです。また助之丞と栄治の剣技が相当なものだったと証言しているそうです。
なお、助之丞は文久元(1861)年の砲術試合で準優勝でした。その時の優勝が木村銃太郎でした。栄治は木村銃太郎の父の貫治の門下でした。
助之丞の墓は台雲寺、栄治の墓は正慶寺にあるそうです。

[参考]
説明板
二本松市観光連盟「大壇口古戦場」
まちあるきの考古学「二本松」
幕末散歩「二人の勇士」
青空亭「人物紹介 青山助之丞正誼」
二本松堂「青山助之丞 21歳」
霞―奥州二本松藩「大檀口の二勇士(青山助之丞・山岡栄治)」
同「『二本松藩士』主要人物名簿(早見表)」
(説明板以外はいずれもインターネット)

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