清水山城(しみずやまじょう)

清水山城の基本情報

通称・別名

所在地

長崎県対馬市厳原町西里

旧国名

対馬国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

毛利高政

築城年

天正19年(1591)

主な改修者

主な城主

毛利高政

廃城年

遺構

曲輪、石垣、堀切

指定文化財

国史跡(清水山城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

厳原城(長崎県対馬市)[0.6km]
金田城(長崎県対馬市)[10.3km]
勝本城(長崎県壱岐市)[54.9km]
亀丘城(長崎県壱岐市)[63.6km]
大島城(長崎県平戸市)[85.2km]
名護屋城(佐賀県唐津市)[92.8km]
平戸御館(長崎県平戸市)[96.3km]
平戸城(長崎県平戸市)[96.9km]
箕坪城(長崎県平戸市)[97.4km]
日本山城(長崎県松浦市)[98.3km]

清水山城の解説文



清水山城(しみずやまじょう)は、長崎県対馬市厳原町西里の清水山(標高206メートル)にあった安土桃山時代の日本の城。国の史跡に指定されている。

概要 

豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して本陣の名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐と対馬に兵站基地となる城を築くことを命じ、厳原の西にある清水山上に毛利高政によって築城されたと伝えられている。

現在は一部の石垣のみが残されており、山麓の厳原市街地からも見ることができる。

周辺 

  • 長崎県立対馬歴史民俗資料館
  • 万松院
  • 石城

アクセス 

  • 厳原港より徒歩20分。

清水山城の口コミ情報

2024年07月19日 RED副将軍
泗川(さちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]



島津軍が明・朝鮮連合軍と戦った泗川の戦いの舞台⚔

オススメ度 ★★★★★

1597年に慶長の役に際して長宗我部元親・毛利良成が築城。島津義弘・島津忠恒が守備しました。
1598年9月に朝鮮・明軍が一大攻勢を開始。小西行長が守備する順天倭城、島津義弘が守備する泗川倭城、加藤清正が守備する蔚山倭城に対して同時攻勢を仕掛けました。
泗川倭城には董一元が率いる明・朝鮮連合軍の3万の兵が攻め寄せましたが、対する島津義弘•島津忠恒が率いる島津軍は1万の兵であったとされます。島津軍は数の上では不利でしたが明・朝鮮軍の食糧庫を焼き討ちに成功。兵糧不足により短期戦を強いられた明・朝鮮軍は泗川倭城に総攻撃を仕掛けます。島津軍は伏兵と鉄砲を駆使し、明軍の火薬庫を爆撃し混乱に乗じて攻勢に転じ、明・朝鮮軍に壊滅的被害を与えました。
泗川の戦いの前月に豊臣秀吉は既に没しており秘匿されたままでしたが、明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させて終結する方針が決定。ようやく11月に帰国命令が降ります。しかし順天倭城の小西行長らは順天沖に朝鮮水軍が現れて海路が封鎖され退路が断たれます。しかし巨済島から島津義弘、立花宗茂、宗義智らの水軍が救援に現れて朝鮮水軍を敗り、小西行長らを無事に帰還させています。
これらの戦いにより「鬼島津(鬼石蔓子)」の武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡ったとされます。

見所
東側に泗川湾を望む、標高30mほどの低丘陵上に築かれています。かつては北側と南側は入江であり三方を海に囲まれた海城でありました。
本丸は北西隅には天守台を配し、南西と南東に虎口が開口。天守台の北西下には空堀で隔てられた小郭があります。南から東にかけては帯郭が広がり、南東虎口の先にも南へ突出した郭が広がります。
東には二の丸、三の丸と続き、延々と外郭線が続きますが、耕作地となり緑の中に土塁のみが認められました。
本丸周辺が石垣造りで船津公園として整備されていますが石垣はほぼ積み直しであり石材も新しくみえます。内桝形虎口には城門が復元されていますが、姫路城を参考にしたため家紋には池田氏の揚羽蝶が配われるなど史実とは異なる改変が為されています。
改変には残念な気もしますが文禄・慶長の役において欠かすことの出来ない歴史的な史跡です。

2024年06月23日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
西生浦(そせんぽ)倭城[清水山城  周辺城郭]

文禄の役でソウルから撤退してきた加藤清正が築きました。
慶長の役で再び渡海した加藤清正は蔚山(うるさん)倭城を築いて籠城戦に入り、救援部隊が西生浦(そせんぽ)倭城から送られました。蔚山倭城の籠城戦が終了後、西生浦倭城には伊東佑兵、高橋元種、島津忠豊、毛利吉成、黒田長政などが入り、撤退命令を受けて廃城となりました。
今回のツアーで訪れた倭城は6城ですが、最も遺構の状態がよかったのが最後に訪城した西生浦倭城でした。北登り石垣は概ね藪でしたが、それ以外は整備が行き届いており、石垣も一部積み直されているようですが、縄張の技巧性に目を奪われているうちに気にならなくなりました。
丁寧に折れを重ねている動線は熊本城のそれを思わせます。一方で大手門から主郭までの道は単線で迷う余地はあまりありません。これが清正という人の性格を反映しているとすれば、まじめで人を欺くようなことは苦手だったのかもしれません。
主郭で注目されるのは南北に開口する2つの虎口が石で埋めて封鎖されていることです。これは西側から敵に侵入されることを阻止するためと考えられます。これにより、城外への出入り口は南北の登り石垣のいずれかから出ていく以外には、大手門内を登っていったところの郭から南へ出られるきわめて厳重な虎口のみとなっています。この改修は蔚山倭城攻防戦の緊張状態下で行われたと想定されるため、毛利吉成か黒田長政によるとされますが、結果的に主郭はまるで海に突き出した岬の先端に築かれたかのようなどん詰まりになっています。
個々の郭自体も小さめで収容兵力には限界があるので、実際に蔚山倭城のような籠城戦になった場合にどのように運用するつもりだったのかが気になるところです。

2024年06月23日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
蔚山(うるさん)倭城[清水山城  周辺城郭]

倭城群の中で最も東に位置する城です。 慶長の役で西生浦(そせんぽ)倭城に入った加藤清正が縄張し、浅野幸長や宍戸元続とともに普請、40日ほどで完成目前となったところに朝鮮・明の連合軍が来襲し、総構を突破されました。城兵が内城まで引いて籠城に耐えるうち、毛利秀元や黒田長政らの援軍が朝鮮と明の連合軍を撃破。
翌慶長3年にも朝鮮・明軍が来襲しましたが、今度は準備万端の清正軍に撃退されました。
その年のうちに清正は帰国命令を受け、蔚山倭城は放棄されました。

激戦地として有名な城ですが、意外と小規模な城でした。普請も山の原地形をあまり改変せずに石を積んでいますが、虎口だけは厳重に横矢を利かせており、そのおかげで落城を免れたのかもしれません。
北虎口は櫓(天守?)からの横矢で厳重に守られているのですが、残念ながら旧状ははっきりしません。東虎口周辺と違って、石垣は復元されていませんでした。
舟入は発掘されて出てきたようです。現状では市街地がすぐ近くに迫っており、川に面してはいません。
本丸中央の池は「籠城して水がなくなり、馬の血や小便を溜めて飲んだ」という説明でしたが、縄張図には「噴水」と書かれており、遺構かどうかはわかりません。
今後の発掘調査が進めば新たな遺構が見つかるかもしれません。

2024年06月19日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
子城台(ちゃそんで)倭城[清水山城  周辺城郭]

釜山倭城(釜山浦城)は標高125メートルの山上に築かれた母城と、900メートル離れた港湾に面して築かれた子城からなります。文禄元年に初戦で釜山を占領した毛利輝元・秀元が築城し、慶長の役の終結まで倭城群の中枢として機能し続けました。
ここはツアーの団体行動ではなく(※)、最終日の小雨が降る早朝にホテルから有志数名で歩いて行きました。時間の関係で母城には行きませんでしたが、そちらはかなり開発されて遺構も点在しているといった状況のようです(なので、釜山広域市記念物に指定されているのは子城のみ)。母城と子城は一城別郭構造であったとの説もあります。豊臣秀吉の御座所と想定されていたのは子城のようです。
子城は日本が撤退した後に釜山鎮城として朝鮮にも利用されました。江戸時代の朝鮮通信使が出発式を行ったとされる建物も山麓にありました。
天守台の石垣は本丸との継ぎ目が謎ですが、積み方は広島城の天守台と似ているという指摘もあります。
虎口には横矢が掛かるものの、枡形のような構造ではありません。塁線にも鈍角が多用されており、原地形に依存していることがうかがえます。これは開戦最初期に突貫工事で普請したためかもしれません。
二の丸の下から西へ向かって登り石垣が残っていたようですが、縄張図を持参しなかった(現地の説明板⑨には記載がなかった)ため見逃しました。山自体の標高がわずか34メートルですから大規模なものではないのですが、なんとなく心残りではありますね。
(※団体行動といっても城址では各自が勝手に見たいところを見て歩くので、全員が団体行動をしているのは移動と食事のときだけ😅)

2024年06月19日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
熊川(うんちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]

文禄の役で築かれ、講和に際して破却された城です。
秀吉は20ヶ所ほどの築城指令を一度に出しましたが、当初から具体的な地名まで特定して指示していたのは釜山のほかには熊川(「こもかい」と平仮名で記していた)だけでした。拠点として重要視されていたことがわかります。東に安骨浦城、西に明洞城という「端城」を従えた「本城」として、倭城の中でも有数の規模を誇りました。

縄張図の中でもひときわ目を引くのが長大な登り石垣です。本丸から直接落ちていく2本はいずれも竪堀を伴い、特に北西側は熊浦湾の河口部まで600メートルにも及びます。機能としては山の斜面を東西に分断するもので、東側の山麓にある港湾部を地続きの西側から守ろうとする意図が明らかです。
このような登り石垣は、国内では伊予松山城や洲本城にも見られます。
彦根城にも登り石垣は存在しますが、山麓の施設を囲い込むようなものとは目的が異なるため、似て非なる(むしろ山城の竪土塁に近い)ものだとする研究があるようです。

長大な登り石垣以外にも、織豊系らしく直角に折れる塁線や虎口の動線が印象的です。
このような直線的な塁線は、山の原地形に左右されていない縄張の自由度の高さを表しています。
織豊以前の山城は山の本来の地形を利用して縄張するので、地形の形に添って塁線が弧を描いたり、動線が斜めに横切ったりします。
織豊系の築城は先に削平ありきで切岸に頼らず、整地したところに土塁や石垣で郭を囲むので、このような自由な縄張が行なえます。地形の制約を一切受けない近世の平城と同じ発想が、山の上に持ち込まれているのです。織田氏や豊臣氏の故郷である尾張国には山地が乏しく、平城や平山城が多かったことが背景にあるのでしょう。
見どころの多い城で、本来ならもっとじっくり見たかったのですが、悪天候と藪、時間の関係もあってここまでとなりました。できれば冬季にリベンジしてみたいところですが、果たして叶うでしょうか…。

2024年06月19日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
泗川(さちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]

ここも 蔚山倭城 順天倭城 と並んで歴史的に重要な城なのですが、本丸周辺のごく狭いエリアのみが公園化され、周囲は緑が濃いという日本の公園にもありがちな状態でした💦 石垣は復元、虎口はどこまで正確な復元か不明、城門に至っては姫路城を参考にしたため瓦の紋が揚羽蝶でした(この場所にあったとすればおそらく櫓門でしょう。陣城だから当然ですが、全面瓦葺ということはなく、天守台付近や櫓門があったと想定される場所からしか瓦が見つかっていないのだそうです)。
道路を挟んだ東側にも郭が広がっていたはずですが、藪または耕作地で遺構の確認は困難でした。
ここは細部にこだわらず、雰囲気を感じて歴史に想いを馳せる場所ですね。桜の名所らしいので、春先の訪問がよいのだと思います。

2024年06月17日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
順天(すんちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]

6か所の倭城をめぐるツアーに参加しました。まずは西端、全羅南道に唯一残る順天倭城です。
光陽湾に突き出た半島に築かれており、萩城や唐津城を思わせる縄張です。中堀の外側で海面に近い高さまでいったん下り、再び丘に上り詰めたところに外郭が築かれています。これは兵員の駐屯や物資の集積のためのスペースを、中堀と外郭の間に確保するためだったと思われます。城主の小西行長は本丸ではなく、ふもとの軍港に面した高台に館を構えていたそうです。
同時期に着工された蔚山倭城が未完成のまま敵に包囲され、落城寸前まで追い込まれたこともあり、順天倭城は突貫工事でわずか2ヶ月で完成。しかし(石垣はあまり高くないものの)広範囲に縄張された様子はとてもそうは思えません。
何度も屈曲した本丸への動線はテクニカルで、中世から近世へ移り変わる時期の築城の貴重なサンプルといえるでしょう。なにしろ築城時期も廃城時期も明確で、以前からあった古い城を再利用したわけでもなく、築城者の記録もあるのですから、城郭の研究者にとってこれほど参照するのに都合のいい城は国内にもそうそうないわけです。
非常にきれいに整備されていますが、石垣については復元が多く、きれいすぎてやや違和感があります。現地の石は割りやすいそうでほとんど矢穴がありません。風化もしやすいとみられ、石の角が取れていかにも古びた様子の部分は往時のもの(「生きている」)と思われます。塁線の位置は概ね原形をとどめているようです。
石垣はあまり高くないと書きましたが、それでも3〜4メートルはあります。倭城全般に言えることですが、陣城としては必要十分な高さが積まれていたのでしょう。なお天守台は別で、10メートルほどの高さがあります。
順天倭城では本丸の中に独立式天守として建てられていました。最初に訪れた倭城だったので気づきませんでしたが、これは倭城の中では唯一で、その他の倭城ではすべての天守(※)が郭の塁線に面して建ち、重要な火点として機能していたようです。
(※複数の天守を持つ城もあるが、それらも含めたすべて)

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
西生浦(そせんぽ)倭城[清水山城  周辺城郭]



西生浦倭城(ソセンポ倭城)は、1593年にソウルから撤退した加藤清正が築城して守備しました。

文禄の役の和睦交渉が決裂すると1597年に加藤清正が再び渡海して西生浦倭城に入城、その後、清正は蔚山倭城を前線に築いて移ると浅野幸長らが入城しました。

蔚山倭城が敵軍に包囲されると、救援部隊が西生浦倭城を経て蔚山倭城に向かい、明・朝鮮の大軍を撃退しました。西生浦倭城には島津豊久、毛利吉成ら九州勢が入城、その後、亀浦倭城から黒田長政が移って守備していましたが、秀吉の死とともに撤退して廃城となりました。

日本軍が撤退した後は、朝鮮水軍の西生鎮城が置かれました。先ほど口コミした蔚山倭城と関わりが深い倭城です。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月9日、蔚山倭城から南へバスで30分、24名の城友さんとのラスト5城目、私自身では今回のツアーで6城目の倭城です。

本日のお昼は美味しいチヂミとうどんのような麺類でお腹いっぱい、バスから降りると立派な登り石垣が出迎えてくれ、皆テンションが上がります。

当時は天守や御殿のある本格的な城だったとみられています。清正の築城技術を知る上でも貴重な遺構です。山麓の居館跡が宅地化されていますが、それ以外は保存状態がかなり良く、山頂の天守台、石垣、埋め戻しされた虎口、曲輪など見学がしやすく見応え充分。

特に長大な登り石垣と土塁、横堀は必見です。
山上と山麓を一体化して守る登り石垣の技術は、彦根城、洲本城、松山城などに伝承され、日本ではとても希少な遺構となっています。

お昼に城友さんから今回訪れる倭城の中で一番楽しみにしていると聞いていましたが、これほど素敵な遺構が残っているとは驚きでした。曇り空でしたが、途中で雨も上がり、ツアーのラストを飾るに相応しい1時間半の楽しい探索でした。

運営さんが倭城を周辺城郭としてスポット追加して頂いたおかげで、口コミ投稿する事が出来、感謝しています。まだまだ口コミの無い倭城のスポットがあるので、ツアー第2弾があれば、また探索に行きたいです。

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
蔚山(うるさん)倭城[清水山城  周辺城郭]



蔚山倭城(ウルサン倭城)は1597年の慶長の役に加藤清正、毛利秀元、浅野幸長らが築城しました。蔚山市は現在は工業都市として栄えています。

城跡は海岸から太和江という川を10kmほどさかのぼった所、支流との合流地点近くの標高50mほどの丘にあります。清正・幸長らは完成目前で明と朝鮮連合軍の6万の大軍に攻められ、西生浦ソセンポ倭城から黒田長政らの援軍が来るまで10日間籠城してなんとか凌ぎきったそうです。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月9日、釜山から北へバスで1時間、24名の城友さんとの4城目です。

城は鶴城公園として整備されていて、日本語で二之丸、本丸と書いたハングル文字の説明板があり、三丸趾、舟入趾の石碑もありました。主郭から南東と北東に伸びる2つの登り石垣、食料不足の籠城を耐えた池には今も水があります。

公園の入り口には、蔚山城の戦いの毎日の戦争日誌のような説明があるので、スマホ翻訳で読むと面白いです。戦いの様子のレリーフ、明と朝鮮の将軍の銅像もあります。曇り空の中、1時間半の楽しい散策でした。

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
子城台(ちゃそんで)倭城[清水山城  周辺城郭]



子城台倭城(チャソンデ倭城)は1592年の文禄の役に毛利輝元、毛利秀元によって築かれ、それ以降の朝鮮撤退まで日本軍の中心的な城として維持されました。日本軍が撤退した後は、釜山鎮城として再利用されました。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月9日、最終日の釜山のホテル朝食前に7人で訪城しました。ロビーに5時半集合だったので、起きれるか不安でしたが、城に行きたい気持ちが勝っているので、すんなり間に合いました。

釜山鎮城公園(旧子城台公園)となった丘陵に築かれていて、現在は埋め立てられていますが、かつては海に面した丘だったそうです。公園化による改変もありますが、石垣の残存度は良好です。
傘さしでの散策でしたが、来て良かったと思いました。

あとで知ったのですが、登り石垣もあったそうですが、見逃しているので、行かれた方は写真投稿をお願いします。ホテルから徒歩で40分かけて来たので、帰りは地下鉄で2駅、2時間の散歩で無事に朝食に間に合いました。

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
熊川(うんちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]



熊川倭城(ウンチョン倭城)は、1593年の文禄の役に小早川隆景、上杉景勝、小西行長らが築城しました。和平交渉の際に廃城になりました。

少し歴史を紹介すると、豊臣秀吉の朝鮮出兵は2回、文禄の役は1592年〜1593年、慶長の役は1597年〜1598年です。この期間の間に朝鮮半島南側に建てた城を倭城と言い、30余りの城が確認されていて、石垣が残っていたり、復元整備されています。

倭城は地図で見るとほぼ海が見える丘か山、高台に建てられていて、当時は海に面した立地になっていました。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月8日、昼食にビビンバを食べて、泗川サチョンから東へバスで2時間、24名の城友さんとの3城目です。

標高184.5mの南山に築かれていて、登山道が整備されています。雨の中の登山だったので、手ぶらでカッパの上下で登ります。途中に登り石垣があり、破城跡が確認出来ました。

日本語の上手な男性韓国人ガイドさんが詳しく説明してくれました。ガイドさんは私より年配の人でしたが、登り石垣を下から登って本丸に行った事があるとの事。今回は雨で行けずに残念でした。

途中海側の石垣を見せたいと城域の端まで連れて行ってくれましたが、絶壁だったため、高所恐怖症の城友さんは先端まで行けず、引き返していました。

登り石垣の他にも防御の石垣がたくさん残り、虎口も確認でき、1時間半の山歩きを楽しめました。

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
泗川(さちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]



泗川倭城(サチョン倭城)は、1597年の慶長の役に長宗我部元親、毛利良成らが築城し、島津義弘・忠恒が守備しました。別名は「船津里城」で入り口に大きな石碑があります。

慶長3年(1598年)の「泗川の戦い」では攻め寄せる明・朝鮮連合軍数万の大軍に対して守備する島津軍7000の兵力で撃退に成功したと伝えられています。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月8日、麗水ヨスから東へバスで2時間、24名の城友さんとの2城目です。

城址は公園として整備され、姫路城を模倣した復元により、ほぼ遺構は消失。軒平瓦の家紋は姫路城主池田家の家紋の「揚羽蝶」になっていました。

一部、当時の石垣かな?と思われる物もありましたが、はっきりと言い切れません。土塁は当時のものかな?と思いました。雨で傘さし、1時間の散策でした。

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
順天(すんちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]



順天倭城(スンチョン倭城)は、1597年の慶長の役に小西行長、宇喜多秀家、藤堂高虎らに築城され、蔚山城が攻撃されたことを受け、2か月の突貫工事で完成させました。朝鮮半島南岸各地に倭城群を築いて布陣した中で最西端にあります。

倭城の事は歴史でサラッと習ったぐらいで、あまり知識が無く、まさか行ける事になるとは思ってもみませんでした。個人では行けなかったので、ツアーを企画してくださった城友さん達に感謝です。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月7日、釜山空港からバスで2時間、24名の城友さんとの1城目です。

城は標高60mの小さな半島状の地形に築かれ、三方は海に囲まれた天然の要害でした。外郭と本城の間には入り江があり、この入り江には艦船が停泊し軍港の役割を果たしていましたが、現在周囲の海は大部分が埋め立てられています。

慶長3年(1598年)の「順天の戦い」では、城を守備する小西軍約1万4千の兵力に対して、明・朝鮮連合軍約5万5千の兵力が城を包囲しましたが、遠浅の海がこれを寄せ付けず、明・朝鮮軍は攻略断念を余儀なくされたそうです。

現地に住む日本人女性の観光解説士さんが歴史を詳しく話してくれました。城の大部分は復元の石垣ですが、中には現存石垣もあり、空堀、虎口も確認できました。想像していた以上に遺構が残っていて、1時間の散策、楽しめました。

2024年06月10日 RED副将軍
順天(すんちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]



慶長の役において宇喜多秀家、藤堂高虎が築き、小西行長が在城した倭城🏯

オススメ度 ★★★★★

1597年に宇喜多秀家、藤堂高虎により築城。
1593年に文禄の役が休戦。日本、明の双方の講和担当者は穏便に講和を進めるため虚偽の相手方の降伏を報告。豊臣秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていました。当然に講和交渉が上手くいくはずもなく決裂し、1597年に慶長の役が勃発。
日本軍は再度渡海。全羅道を支配した後は忠清道へ侵攻することが決定し、帰国予定の大名が拠点となる城郭を担当して築くことが命じられました。全羅道掃討中に開かれた井邑軍議において順天に小西行長の居城を築くことが決定し、宇喜多秀家、藤堂高虎によって順天倭城の築城が始められました。
僅か2ヶ月で完成し小西行長に引き渡されたと云われ、小西行長が松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の九州勢13,700の兵を率いて守備しました。
1598年9月に朝鮮・明軍が一大攻勢を開始。明の劉綎が率いる21,900人と朝鮮の権慄が率いる5,900人で構成された西路軍と、陳璘が率いる明水軍19,400人と李舜臣が率いる朝鮮水軍7,300人で構成された水軍が順天倭城に攻め寄せましたが日本軍は撃退。
順天倭城の戦いの前月に豊臣秀吉は既に没しており秘匿されたままでしたが、明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させて終結する方針が決定。ようやく11月に帰国命令が降りましたが、順天沖に朝鮮水軍が現れて海路が封鎖。小西行長らは退路が断たれましたが、巨済島の島津義弘、立花宗茂、宗義智らの水軍が救援に現れて朝鮮水軍を敗り、小西行長らは無事帰還しました。

見所
光陽湾沿岸の三方を海に面した標高60mの丘陵上に築かれています。また倭城の中で最も西に位置します。
丘陵上の中心部は総石垣造りでしたが、公園整備により大半が積み直されています。
最高所にある南北に長い主郭は北に天守台があり、南西と南に虎口が開口。主郭の周囲を二郭が取り囲みます。
西側麓から登ると二ヶ所の石垣造りの虎口があり、至るところに横矢が掛かります。西側は空堀であった様ですがヤブ化しておりました。
更に西には外郭が広がり、耕作地の中に土塁や空堀が残っている様です。

3日間のツアー初日に最初に行った倭城です。貸し切りバスで釜山空港から2時間かかりました。

2024年06月10日 石田四成民部卿
熊川(うんちょん)倭城[清水山城  周辺城郭]



熊川倭城の駐車場から見た登山口、右側の道が入口です。トイレは登山道の途中にあります。

2024年01月07日 RED副将軍
清水山城



石垣が見事な豊臣秀吉による朝鮮出兵の重要拠点🏯

オススメ度 ★★★★★

1591年に豊臣秀吉の命により毛利高政が築いたとされます。対馬領主の宗義智、肥後人吉の相良長毎、筑後三池の高橋直次、筑後福島の筑紫広門も協力したとも云われます。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役で肥前名護屋から壱岐の勝本城、朝鮮半島の釜山につながる重要な軍事的中継点として築かれました。
1598年に豊臣秀吉が没し、朝鮮から日本軍が撤退すると役目を終えました。

見所
標高219mの清水山に築かれています。
山頂に本丸を配し、南東に伸びる尾根先へ二の丸、三の丸と並びそれぞれの曲輪間の斜面を含めて全て石垣で固められています。
全長500m以上におよび、麓の金石城を根小屋とし詰め城として機能しました。
本丸は、二の丸に続く南東側と搦手の北西側に虎口が開口。南東虎口は二重虎口になっています。
二の丸は、三の丸に続く東側に桝形虎口、南側と西側は櫓台が併設する平虎口が開口しています。
三の丸は、細長い尾根に石塁が続き、南東側に虎口し、6ヶ所に横矢桝形があります。

行き方は、対馬歴史民俗資料館を目標に設定し駐車場を利用。ここから案内板の通りに進めば迷うこと無いです。国史跡に指定されており比高は210mで整備された登城路を30分くらいで辿り着きます。

2023年02月27日 気分爽快陸奥守
清水山城



フェリー出航までの待ち時間が2時間あったので、己の脚力を信じて登城してきました。ここまで石垣を多用した城をこの地に作る必要はあったのか疑問ですが(海を越えて攻めたのは、こちら側なので)、石垣好きの人は楽しめるお城かと思います。

①ニの丸虎口
②登り石垣(石塁?)その2
③一の丸虎口
④一の丸
⑤登り石垣(石塁?) その3
⑥二の丸
⑦登り石垣(石塁?)を横から
⑧登り石垣(石塁?) その1

2022年10月01日 あらし肥前守
清水山城



厳原港から徒歩か、レンタカーの場合は観光情報館ふれあい処つしまに駐車する事ができます。
情報館でパンフレットを貰い、登山口までの徒歩ルートを親切に教えてくれます。
登山口まで15分、登山口からルートは2つで尾根道ルートで三の丸、二の丸、一の丸と回るのがお勧め。ゆっくり往復2時間位はあった方が良いと思います。
遊歩道ルートは史跡を通らないから注意。
一部急斜面があるので靴と服装はハイキングができる程度の準備が必要。
尾根の左右10〜15mの幅で約500mに渡る石塁や、石垣、虎口とかなり良い状態で残ってます。
それと三の丸や一の丸からの見晴らし、眺望が抜群です

2020年11月17日 カズ@大高の信長
清水山城



下から三の丸、二の丸、一の丸(何故か本丸ではない)が登り石垣が続いて囲んでるようなイメージの変わった城です。
ただ、曲輪も内部にそのまま自然石があり、かなり適当な感じがします。まあ、岩を加工するのはかなりの手間なのでしょうがないのかもしれません。
因みに隣の壱岐とこの対馬の道路建設単価は地元の古老によると10倍との事。あまりに岩が多く、道をつくるのも大変で、お城も大変だったかと思います。

2020年10月02日 作兵衛三河守侵掠如火♪
清水山城



対馬といえば最強の城金田城を思い浮かべますが、秀吉が朝鮮出兵の際に中継地として築かせたのが対馬清水山城です。数多くの遺構が残っているのでこちらも訪れて欲しいお城です。
金田城で時間と体力を使うので1日ずらしての登城が良いでしょう。
厳原町や厳原港から徒歩での訪問は可能です。
駐車場やトイレは無いので厳原城(金石城)で済ませてからの登城になります。水分も事前に準備して下さい。住宅街には看板も設置されてるので迷わず行く事が出来るでしょう。
登城口からは階段になっていて登りやすいです。途中から急勾配になり足場も悪くなるので確りとした靴で登ってほしいです。
多くの独特な石垣や石類を見ながら30分ほどで一ノ丸まで登る事が出来ます。一ノ丸では猪が飛び出して来たので注意して下さい。
一ノ丸、三ノ丸からは厳原の街並みや厳原港を見下ろす眺めが素晴らしいです。

対馬に船で行く場合、博多港よりフェリーかジェットフォイルが出てます。船に弱い方はジェットフォイルがオススメです。壱岐島経由で2時間半の快適な船旅が出来ます。
コロナ禍で居酒屋など島民以外入れないお店もあるので事前にチェックしてみて下さいね。

国境の島、対馬の歴史に触れてみては如何でしょうか。また再訪したい島になりました(^○^)

2020年09月22日 明石家船上
清水山城



清水山城跡から見た厳原の湊

小西行長や加藤清正も見た情景

武将も兵士も、戻って来た時は、「助かった」と思ったことでしょう

そのあと、関ヶ原が起きたわけですが

2019年07月31日 織田上総介晃司
清水山城

豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、築かせた城。
石垣で築かれ、織豊時代の特徴を持った城。

金石城からの登山道に案内板があり、迷わず行くことができます。

最初の案内板に「有明山まで2,850m 標高558m」と書いてありますが、清水山城は有明山のかなり手前になるので、諦めないで〜

2019年04月23日 大隅守
対馬藩の御舟江[清水山城  その他]

江戸時代の港湾施設です。当時の石垣が残ってます。説明板があります。

2019年04月23日 大隅守
駐車場[清水山城  駐車場]

ここに車を停めて登城口まで歩きます。

2018年05月13日 三木肥前守上の丸
清水山城

金石城門から緑色の案内板が丁寧に登山口まで案内してくれます。登って降りて約一時間。三ノ丸石垣がきれいです。一ノ丸からは景色がよいです。


清水山城の周辺スポット情報

 二の丸跡(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 一の丸跡(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 清水山城・説明板(碑・説明板)

 一の丸説明板(碑・説明板)

 二の丸跡案内板(碑・説明板)

 二の丸三の丸行き先案内板(碑・説明板)

 三の丸跡説明板(碑・説明板)

 西生浦(そせんぽ)倭城(周辺城郭)

 蔚山(うるさん)倭城(周辺城郭)

 林浪浦(いむなんぽ)倭城(周辺城郭)

 機張(きじゃん)倭城(周辺城郭)

 東萊(とんね)倭城(周辺城郭)

 釜山(ぷさん)倭城(周辺城郭)

 子城台(ちゃそんで)倭城(周辺城郭)

 亀浦(くぽ)倭城(周辺城郭)

 加徳(かどく)倭城(周辺城郭)

 加徳(かどく)支城(周辺城郭)

 金海竹島(きめじゅくど)倭城(周辺城郭)

 東三洞(とむさんどん)倭城(周辺城郭)

 梁山(やんさん)倭城(周辺城郭)

 農所(のんそ)倭城(周辺城郭)

 馬沙(まさ)倭城(周辺城郭)

 永登浦(よんどぅんぽ)倭城(周辺城郭)

 松真浦(そんじんぽ)倭城(周辺城郭)

 長門浦(ちゃんむんぽ)倭城(周辺城郭)

 廣里(くわんに)倭城(周辺城郭)

 安骨浦(あんごるぽ)倭城(周辺城郭)

 熊川(うんちょん)倭城(周辺城郭)

 子馬(ちゃま)倭城(周辺城郭)

 明洞(みょんどん)倭城(周辺城郭)

 馬山(まさん)倭城(周辺城郭)

 固城(こそん)倭城(周辺城郭)

 泗川(さちょん)倭城(周辺城郭)

 南海(なめ)倭城(周辺城郭)

 望晋(まんじん)倭城(周辺城郭)

 順天(すんちょん)倭城(周辺城郭)

 観光情報館 ふれあい処つしま(御城印)

 公衆トイレ(ふれあい処つしま内)(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 対馬藩の御舟江(その他)

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