熊川(うんちょん)倭城

熊川(うんちょん)倭城([清水山城  周辺城郭])

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熊川(うんちょん)倭城の口コミ情報

2024年06月19日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
文禄の役で築かれ、講和に際して破却された城です。
秀吉は20ヶ所ほどの築城指令を一度に出しましたが、当初から具体的な地名まで特定して指示していたのは釜山のほかには熊川(「こもかい」と平仮名で記していた)だけでした。拠点として重要視されていたことがわかります。東に安骨浦城、西に明洞城という「端城」を従えた「本城」として、倭城の中でも有数の規模を誇りました。

縄張図の中でもひときわ目を引くのが長大な登り石垣です。本丸から直接落ちていく2本はいずれも竪堀を伴い、特に北西側は熊浦湾の河口部まで600メートルにも及びます。機能としては山の斜面を東西に分断するもので、東側の山麓にある港湾部を地続きの西側から守ろうとする意図が明らかです。
このような登り石垣は、国内では伊予松山城や洲本城にも見られます。
彦根城にも登り石垣は存在しますが、山麓の施設を囲い込むようなものとは目的が異なるため、似て非なる(むしろ山城の竪土塁に近い)ものだとする研究があるようです。

長大な登り石垣以外にも、織豊系らしく直角に折れる塁線や虎口の動線が印象的です。
このような直線的な塁線は、山の原地形に左右されていない縄張の自由度の高さを表しています。
織豊以前の山城は山の本来の地形を利用して縄張するので、地形の形に添って塁線が弧を描いたり、動線が斜めに横切ったりします。
織豊系の築城は先に削平ありきで切岸に頼らず、整地したところに土塁や石垣で郭を囲むので、このような自由な縄張が行なえます。地形の制約を一切受けない近世の平城と同じ発想が、山の上に持ち込まれているのです。織田氏や豊臣氏の故郷である尾張国には山地が乏しく、平城や平山城が多かったことが背景にあるのでしょう。
見どころの多い城で、本来ならもっとじっくり見たかったのですが、悪天候と藪、時間の関係もあってここまでとなりました。できれば冬季にリベンジしてみたいところですが、果たして叶うでしょうか…。

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿


熊川倭城(ウンチョン倭城)は、1593年の文禄の役に小早川隆景、上杉景勝、小西行長らが築城しました。和平交渉の際に廃城になりました。

少し歴史を紹介すると、豊臣秀吉の朝鮮出兵は2回、文禄の役は1592年〜1593年、慶長の役は1597年〜1598年です。この期間の間に朝鮮半島南側に建てた城を倭城と言い、30余りの城が確認されていて、石垣が残っていたり、復元整備されています。

倭城は地図で見るとほぼ海が見える丘か山、高台に建てられていて、当時は海に面した立地になっていました。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月8日、昼食にビビンバを食べて、泗川サチョンから東へバスで2時間、24名の城友さんとの3城目です。

標高184.5mの南山に築かれていて、登山道が整備されています。雨の中の登山だったので、手ぶらでカッパの上下で登ります。途中に登り石垣があり、破城跡が確認出来ました。

日本語の上手な男性韓国人ガイドさんが詳しく説明してくれました。ガイドさんは私より年配の人でしたが、登り石垣を下から登って本丸に行った事があるとの事。今回は雨で行けずに残念でした。

途中海側の石垣を見せたいと城域の端まで連れて行ってくれましたが、絶壁だったため、高所恐怖症の城友さんは先端まで行けず、引き返していました。

登り石垣の他にも防御の石垣がたくさん残り、虎口も確認でき、1時間半の山歩きを楽しめました。

2024年06月10日 石田四成民部卿


熊川倭城の駐車場から見た登山口、右側の道が入口です。トイレは登山道の途中にあります。

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