西生浦(そせんぽ)倭城
西生浦(そせんぽ)倭城([清水山城 周辺城郭])
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西生浦(そせんぽ)倭城の口コミ情報
2024年06月23日 _ClaD雅楽頭リアの季節
文禄の役でソウルから撤退してきた加藤清正が築きました。
慶長の役で再び渡海した加藤清正は蔚山(うるさん)倭城を築いて籠城戦に入り、救援部隊が西生浦(そせんぽ)倭城から送られました。蔚山倭城の籠城戦が終了後、西生浦倭城には伊東佑兵、高橋元種、島津忠豊、毛利吉成、黒田長政などが入り、撤退命令を受けて廃城となりました。
今回のツアーで訪れた倭城は6城ですが、最も遺構の状態がよかったのが最後に訪城した西生浦倭城でした。北登り石垣は概ね藪でしたが、それ以外は整備が行き届いており、石垣も一部積み直されているようですが、縄張の技巧性に目を奪われているうちに気にならなくなりました。
丁寧に折れを重ねている動線は熊本城のそれを思わせます。一方で大手門から主郭までの道は単線で迷う余地はあまりありません。これが清正という人の性格を反映しているとすれば、まじめで人を欺くようなことは苦手だったのかもしれません。
主郭で注目されるのは南北に開口する2つの虎口が石で埋めて封鎖されていることです。これは西側から敵に侵入されることを阻止するためと考えられます。これにより、城外への出入り口は南北の登り石垣のいずれかから出ていく以外には、大手門内を登っていったところの郭から南へ出られるきわめて厳重な虎口のみとなっています。この改修は蔚山倭城攻防戦の緊張状態下で行われたと想定されるため、毛利吉成か黒田長政によるとされますが、結果的に主郭はまるで海に突き出した岬の先端に築かれたかのようなどん詰まりになっています。
個々の郭自体も小さめで収容兵力には限界があるので、実際に蔚山倭城のような籠城戦になった場合にどのように運用するつもりだったのかが気になるところです。
2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
西生浦倭城(ソセンポ倭城)は、1593年にソウルから撤退した加藤清正が築城して守備しました。
文禄の役の和睦交渉が決裂すると1597年に加藤清正が再び渡海して西生浦倭城に入城、その後、清正は蔚山倭城を前線に築いて移ると浅野幸長らが入城しました。
蔚山倭城が敵軍に包囲されると、救援部隊が西生浦倭城を経て蔚山倭城に向かい、明・朝鮮の大軍を撃退しました。西生浦倭城には島津豊久、毛利吉成ら九州勢が入城、その後、亀浦倭城から黒田長政が移って守備していましたが、秀吉の死とともに撤退して廃城となりました。
日本軍が撤退した後は、朝鮮水軍の西生鎮城が置かれました。先ほど口コミした蔚山倭城と関わりが深い倭城です。
韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月9日、蔚山倭城から南へバスで30分、24名の城友さんとのラスト5城目、私自身では今回のツアーで6城目の倭城です。
本日のお昼は美味しいチヂミとうどんのような麺類でお腹いっぱい、バスから降りると立派な登り石垣が出迎えてくれ、皆テンションが上がります。
当時は天守や御殿のある本格的な城だったとみられています。清正の築城技術を知る上でも貴重な遺構です。山麓の居館跡が宅地化されていますが、それ以外は保存状態がかなり良く、山頂の天守台、石垣、埋め戻しされた虎口、曲輪など見学がしやすく見応え充分。
特に長大な登り石垣と土塁、横堀は必見です。
山上と山麓を一体化して守る登り石垣の技術は、彦根城、洲本城、松山城などに伝承され、日本ではとても希少な遺構となっています。
お昼に城友さんから今回訪れる倭城の中で一番楽しみにしていると聞いていましたが、これほど素敵な遺構が残っているとは驚きでした。曇り空でしたが、途中で雨も上がり、ツアーのラストを飾るに相応しい1時間半の楽しい探索でした。
運営さんが倭城を周辺城郭としてスポット追加して頂いたおかげで、口コミ投稿する事が出来、感謝しています。まだまだ口コミの無い倭城のスポットがあるので、ツアー第2弾があれば、また探索に行きたいです。