泗川(さちょん)倭城
泗川(さちょん)倭城([清水山城 周辺城郭])
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泗川(さちょん)倭城の口コミ情報
2024年07月19日 RED副将軍
島津軍が明・朝鮮連合軍と戦った泗川の戦いの舞台⚔
オススメ度 ★★★★★
1597年に慶長の役に際して長宗我部元親・毛利良成が築城。島津義弘・島津忠恒が守備しました。
1598年9月に朝鮮・明軍が一大攻勢を開始。小西行長が守備する順天倭城、島津義弘が守備する泗川倭城、加藤清正が守備する蔚山倭城に対して同時攻勢を仕掛けました。
泗川倭城には董一元が率いる明・朝鮮連合軍の3万の兵が攻め寄せましたが、対する島津義弘•島津忠恒が率いる島津軍は1万の兵であったとされます。島津軍は数の上では不利でしたが明・朝鮮軍の食糧庫を焼き討ちに成功。兵糧不足により短期戦を強いられた明・朝鮮軍は泗川倭城に総攻撃を仕掛けます。島津軍は伏兵と鉄砲を駆使し、明軍の火薬庫を爆撃し混乱に乗じて攻勢に転じ、明・朝鮮軍に壊滅的被害を与えました。
泗川の戦いの前月に豊臣秀吉は既に没しており秘匿されたままでしたが、明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させて終結する方針が決定。ようやく11月に帰国命令が降ります。しかし順天倭城の小西行長らは順天沖に朝鮮水軍が現れて海路が封鎖され退路が断たれます。しかし巨済島から島津義弘、立花宗茂、宗義智らの水軍が救援に現れて朝鮮水軍を敗り、小西行長らを無事に帰還させています。
これらの戦いにより「鬼島津(鬼石蔓子)」の武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡ったとされます。
見所
東側に泗川湾を望む、標高30mほどの低丘陵上に築かれています。かつては北側と南側は入江であり三方を海に囲まれた海城でありました。
本丸は北西隅には天守台を配し、南西と南東に虎口が開口。天守台の北西下には空堀で隔てられた小郭があります。南から東にかけては帯郭が広がり、南東虎口の先にも南へ突出した郭が広がります。
東には二の丸、三の丸と続き、延々と外郭線が続きますが、耕作地となり緑の中に土塁のみが認められました。
本丸周辺が石垣造りで船津公園として整備されていますが石垣はほぼ積み直しであり石材も新しくみえます。内桝形虎口には城門が復元されていますが、姫路城を参考にしたため家紋には池田氏の揚羽蝶が配われるなど史実とは異なる改変が為されています。
改変には残念な気もしますが文禄・慶長の役において欠かすことの出来ない歴史的な史跡です。
2024年06月19日 _ClaD雅楽頭リアの季節
ここも 蔚山倭城 順天倭城 と並んで歴史的に重要な城なのですが、本丸周辺のごく狭いエリアのみが公園化され、周囲は緑が濃いという日本の公園にもありがちな状態でした💦 石垣は復元、虎口はどこまで正確な復元か不明、城門に至っては姫路城を参考にしたため瓦の紋が揚羽蝶でした(この場所にあったとすればおそらく櫓門でしょう。陣城だから当然ですが、全面瓦葺ということはなく、天守台付近や櫓門があったと想定される場所からしか瓦が見つかっていないのだそうです)。
道路を挟んだ東側にも郭が広がっていたはずですが、藪または耕作地で遺構の確認は困難でした。
ここは細部にこだわらず、雰囲気を感じて歴史に想いを馳せる場所ですね。桜の名所らしいので、春先の訪問がよいのだと思います。
2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
泗川倭城(サチョン倭城)は、1597年の慶長の役に長宗我部元親、毛利良成らが築城し、島津義弘・忠恒が守備しました。別名は「船津里城」で入り口に大きな石碑があります。
慶長3年(1598年)の「泗川の戦い」では攻め寄せる明・朝鮮連合軍数万の大軍に対して守備する島津軍7000の兵力で撃退に成功したと伝えられています。
韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月8日、麗水ヨスから東へバスで2時間、24名の城友さんとの2城目です。
城址は公園として整備され、姫路城を模倣した復元により、ほぼ遺構は消失。軒平瓦の家紋は姫路城主池田家の家紋の「揚羽蝶」になっていました。
一部、当時の石垣かな?と思われる物もありましたが、はっきりと言い切れません。土塁は当時のものかな?と思いました。雨で傘さし、1時間の散策でした。