順天(すんちょん)倭城

順天(すんちょん)倭城([清水山城  周辺城郭])

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順天(すんちょん)倭城の口コミ情報

2024年06月17日 _ClaD雅楽頭夏でも山城
6か所の倭城をめぐるツアーに参加しました。まずは西端、全羅南道に唯一残る順天倭城です。
光陽湾に突き出た半島に築かれており、萩城や唐津城を思わせる縄張です。中堀の外側で海面に近い高さまでいったん下り、再び丘に上り詰めたところに外郭が築かれています。これは兵員の駐屯や物資の集積のためのスペースを、中堀と外郭の間に確保するためだったと思われます。城主の小西行長は本丸ではなく、ふもとの軍港に面した高台に館を構えていたそうです。
同時期に着工された蔚山倭城が未完成のまま敵に包囲され、落城寸前まで追い込まれたこともあり、順天倭城は突貫工事でわずか2ヶ月で完成。しかし(石垣はあまり高くないものの)広範囲に縄張された様子はとてもそうは思えません。
何度も屈曲した本丸への動線はテクニカルで、中世から近世へ移り変わる時期の築城の貴重なサンプルといえるでしょう。なにしろ築城時期も廃城時期も明確で、以前からあった古い城を再利用したわけでもなく、築城者の記録もあるのですから、城郭の研究者にとってこれほど参照するのに都合のいい城は国内にもそうそうないわけです。
非常にきれいに整備されていますが、石垣については復元が多く、きれいすぎてやや違和感があります。現地の石は割りやすいそうでほとんど矢穴がありません。風化もしやすいとみられ、石の角が取れていかにも古びた様子の部分は往時のもの(「生きている」)と思われます。塁線の位置は概ね原形をとどめているようです。
石垣はあまり高くないと書きましたが、それでも3〜4メートルはあります。倭城全般に言えることですが、陣城としては必要十分な高さが積まれていたのでしょう。なお天守台は別で、10メートルほどの高さがあります。
順天倭城では本丸の中に独立式天守として建てられていました。最初に訪れた倭城だったので気づきませんでしたが、これは倭城の中では唯一で、その他の倭城ではすべての天守(※)が郭の塁線に面して建ち、重要な火点として機能していたようです。
(※複数の天守を持つ城もあるが、それらも含めたすべて)

2024年06月16日 生駒讃岐守江現蔵✿


順天倭城(スンチョン倭城)は、1597年の慶長の役に小西行長、宇喜多秀家、藤堂高虎らに築城され、蔚山城が攻撃されたことを受け、2か月の突貫工事で完成させました。朝鮮半島南岸各地に倭城群を築いて布陣した中で最西端にあります。

倭城の事は歴史でサラッと習ったぐらいで、あまり知識が無く、まさか行ける事になるとは思ってもみませんでした。個人では行けなかったので、ツアーを企画してくださった城友さん達に感謝です。

韓国倭城オフ会〜兵どもの夢の先〜6月7日、釜山空港からバスで2時間、24名の城友さんとの1城目です。

城は標高60mの小さな半島状の地形に築かれ、三方は海に囲まれた天然の要害でした。外郭と本城の間には入り江があり、この入り江には艦船が停泊し軍港の役割を果たしていましたが、現在周囲の海は大部分が埋め立てられています。

慶長3年(1598年)の「順天の戦い」では、城を守備する小西軍約1万4千の兵力に対して、明・朝鮮連合軍約5万5千の兵力が城を包囲しましたが、遠浅の海がこれを寄せ付けず、明・朝鮮軍は攻略断念を余儀なくされたそうです。

現地に住む日本人女性の観光解説士さんが歴史を詳しく話してくれました。城の大部分は復元の石垣ですが、中には現存石垣もあり、空堀、虎口も確認できました。想像していた以上に遺構が残っていて、1時間の散策、楽しめました。

2024年06月10日 RED副将軍


慶長の役において宇喜多秀家、藤堂高虎が築き、小西行長が在城した倭城🏯

オススメ度 ★★★★★

1597年に宇喜多秀家、藤堂高虎により築城。
1593年に文禄の役が休戦。日本、明の双方の講和担当者は穏便に講和を進めるため虚偽の相手方の降伏を報告。豊臣秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていました。当然に講和交渉が上手くいくはずもなく決裂し、1597年に慶長の役が勃発。
日本軍は再度渡海。全羅道を支配した後は忠清道へ侵攻することが決定し、帰国予定の大名が拠点となる城郭を担当して築くことが命じられました。全羅道掃討中に開かれた井邑軍議において順天に小西行長の居城を築くことが決定し、宇喜多秀家、藤堂高虎によって順天倭城の築城が始められました。
僅か2ヶ月で完成し小西行長に引き渡されたと云われ、小西行長が松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の九州勢13,700の兵を率いて守備しました。
1598年9月に朝鮮・明軍が一大攻勢を開始。明の劉綎が率いる21,900人と朝鮮の権慄が率いる5,900人で構成された西路軍と、陳璘が率いる明水軍19,400人と李舜臣が率いる朝鮮水軍7,300人で構成された水軍が順天倭城に攻め寄せましたが日本軍は撃退。
順天倭城の戦いの前月に豊臣秀吉は既に没しており秘匿されたままでしたが、明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させて終結する方針が決定。ようやく11月に帰国命令が降りましたが、順天沖に朝鮮水軍が現れて海路が封鎖。小西行長らは退路が断たれましたが、巨済島の島津義弘、立花宗茂、宗義智らの水軍が救援に現れて朝鮮水軍を敗り、小西行長らは無事帰還しました。

見所
光陽湾沿岸の三方を海に面した標高60mの丘陵上に築かれています。また倭城の中で最も西に位置します。
丘陵上の中心部は総石垣造りでしたが、公園整備により大半が積み直されています。
最高所にある南北に長い主郭は北に天守台があり、南西と南に虎口が開口。主郭の周囲を二郭が取り囲みます。
西側麓から登ると二ヶ所の石垣造りの虎口があり、至るところに横矢が掛かります。西側は空堀であった様ですがヤブ化しておりました。
更に西には外郭が広がり、耕作地の中に土塁や空堀が残っている様です。

3日間のツアー初日に最初に行った倭城です。貸し切りバスで釜山空港から2時間かかりました。

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