江馬氏城館(えましじょうかん)
江馬氏城館の基本情報
通称・別名
- 江馬氏城館[下館・高原諏訪城・傘松城・土城・寺林城・政元城・洞城・石神城]
所在地
- 岐阜県飛騨市神岡町殿他(地図は下館を示す)
旧国名
- 飛騨国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 江馬氏[下館・高原諏訪城・石神城]、不明[土城・寺林城・政元城]、麻生野直盛[洞城]、吉田国家[傘松城]
築城年
- 不明[下館・土城・寺林城・政元城・石神城]、永禄7年(1564)[高原諏訪城]、大永年間(1521〜1528)[洞城]、永仁7年(1299)[傘松城]
主な改修者
- -
主な城主
- 江馬氏[下館・高原諏訪城・石神城]、一の瀬氏[土城]、久米氏[寺林城]、吉村政元[政元城]、麻生野氏[洞城]、吉田氏[傘松城]
廃城年
- -
遺構
- 曲輪[すべて]、土塁、横堀(空堀)[土城・政元城・傘松城]、堀切[高原諏訪城・洞城・石神城・傘松城]、竪堀[高原諏訪城・洞城]
指定文化財
- 国史跡(江馬氏城館跡)
再建造物
- 庭園、会所、主門、土塀、空堀[下館]、碑[すべて]、説明板[すべて]
周辺の城
-
神岡城(岐阜県飛騨市)[0.8km]
増島城(岐阜県飛騨市)[14.7km]
姉小路氏城館(岐阜県飛騨市)[18.0km]
高山城(岐阜県高山市)[21.4km]
三木氏城館(岐阜県高山市)[23.3km]
猿倉城(富山県富山市)[26.5km]
中地山城(富山県富山市)[27.6km]
尾畑城(富山県富山市)[28.2km]
城生城(富山県富山市)[30.0km]
大道城(富山県富山市)[32.5km]
江馬氏城館の解説文
[引用元:Wikipedia「江馬氏城館」の項目]
江馬氏城館跡(えまししろやかたあと[1])は岐阜県飛騨市神岡町に点在する北飛彈領主江馬氏の居館および城跡群で、中世武家館の様相を窺い知ることのできる遺跡であるとして、昭和55年(1980年)3月21日に国の史跡に指定されている[2]。
史跡に指定されているのは、神岡町殿にある江馬氏下館および背後の保木戸平山頂の高原諏訪城、玄蕃山の寺林城、牛首城山の土城、越中東街道を見下ろす丘陵上に築かれた政元城、上宝への街道沿いにある丘陵上に設けられた洞城、石神城、観音山山頂の傘松城である。
各史跡の概要
- 江馬氏下館
- 飛騨市神岡町殿に所在しており、平時における根拠地であった。西側に薬研堀、北と南に箱堀が設けられており、会所、常御殿、対屋、台所、宿直屋ならびに馬屋の他工房施設が発見されている。会所に面して発見、整備された庭園は中世武家屋敷のものとして希少であり、復元された会所と共に平成29年(2017年)に「江馬氏館跡庭園」(えましやかたあていえん)として国の名勝に指定されており、現在は史跡江馬氏館跡公園となっている[3]。
- 高原諏訪城
- 飛騨市神岡町和佐保にあった山城。下館の背後、城山山上に築かれた山城で山之村道と上宝道を監視し有事の際には詰城として用いられた。主に土塁と堀によって構成されているが、築城者及び築城時期は不明。天正10年(1582年)の八日町の戦いで落城したと伝わる[4]。
- 寺林城
- 飛騨市神岡町寺林の玄蕃山山頂に築かれた山城で、別名は玄蕃城。天文年間の建造と伝わる。築城者は分かっていないが、城主の名前として寺林玄蕃、寺林蔵之介、寺林大蔵等の名が伝わる。越中東街道を見下ろす位置にあり、街道の監視と姉小路氏への押さえを目的として造られたと考えられる。主郭には虎口が設けられているという構造上の特徴がある。また、付近には馬場の地名が残っている。
- 政元城
- 飛騨市神岡町西の大国寺裏山越中東街道の脇街道との分岐点にその押さえとして築かれた山城で、狼煙で各城と連絡を行っていたとみられる。別名山田城[5]。築城時期、築城者は不明。城主の名前として吉村政元、正本主馬が伝わる。山頂の主郭が腰曲輪と堀切により守られる構造となっている。標高が低く、西側の政元奥城が詰め城という説がある[6]。
- 洞城
- 飛騨市神岡町麻生野の洞之山山上に立地し、高原郷と鎌倉街道を連絡する上宝道を見下ろす位置にある。麻生野城とも[7]。築城は大永年間とみられている。築城者は不明。城主として江馬時経の次男麻生野直盛とその子慶盛の名が伝わる。
- 傘松城
- 飛騨市神岡町吉田にある標高802mの観音山山頂に主郭が築かれた山城。別名は吉田城。主郭の北側に堀切が二つ掘られているほか、西側の尾根に三つの堀切と土塁が設けられており、高山や古川からの攻撃を想定した縄張りであると考えられている。構造は16世紀末ごろのもので、八日町の戦いあるいは金森長近の飛彈侵攻まで用いられていたとみられる。13世紀末ごろの城主として左兵衛国家の名が伝わっている[10]。令和6年2月21日に国史跡に追加指定された[11]。
文化財
国の史跡
- 江馬氏城館跡
- : 1980年(昭和55年)3月21日、高原諏訪城跡、土城跡、寺林城跡、政元城跡、洞城跡、石神城跡、下館跡の7ヶ所が指定。
- : 2024年(令和6年)2月21日、傘松跡が追加指定[12]。
国の名勝
- 江馬氏館跡庭園 - 2017年(平成29年)10月13日指定。
参考文献
- 『神岡町史』
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江馬氏城館の口コミ情報
2025年01月06日 RED副将軍
江馬氏城館
登録地点である「江馬氏下館」の口コミです。
北飛騨を支配した江馬氏の本拠地🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。室町時代に江馬氏によって築かれたと云われます。
江馬氏下館は北飛騨を支配した有力土豪である江馬氏の本拠であり、南東の高原諏訪城を詰城とした居館です。
江馬氏は、鎌倉北条氏の北条義時や北条時房の系譜とも云われますが定かではなく出自は不詳です。
戦国時代には北飛騨に勢力を誇り、近隣の姉小路氏や南飛騨の三木氏と争いましたが、隣国の武田信玄と上杉謙信からすると小規模勢力であり、1564年に江馬時盛は武田氏に属し、その先導で武田氏が飛騨に侵攻。しかし嫡男の江馬輝盛は上杉氏に与したため父子の関係が悪化。 1572年に武田信玄が没すると江馬輝盛は父の江馬時盛を暗殺、弟を追放するなどして家督を継ぎます。 1582年に織田信長が本能寺で没すると、江馬輝盛は後ろ盾を失った三木氏に攻め寄せます。しかし八日町の戦いで江馬輝盛は三木氏家臣の牛丸又太郎により討ち取られます。
江馬氏は総崩れとなり、小島城の小島時光により高原諏訪城は落城。江馬氏は滅亡し廃城となったとされます。
見所
会所、常御殿、対屋、台所、宿直屋、馬屋、工房施設の建物群が調査により見つかっており、西側に薬研堀、北と南には箱堀が設けられていました。
会所には庭石と池の遺構が見つかり庭園が併設されていたことも分かっています。
現在は国史跡に指定されており、発掘調査に基づいて会所・主門・土塀・堀などが復元されています。
2024年12月05日 RED副将軍
石神城[江馬氏城館 周辺城郭]
小規模ながら土橋と堀切が美しい江馬氏の城郭🏯
オススメ度 ★★★★ ⭐︎
天文年間(1532年~1555年)に江馬時経により築かれたと伝わります。
江馬時経は江馬氏十四代当主であり、高原諏訪城の支城として機能したと考えられています。
見所
高原川北岸の標高704mの山頂に築かれています。
山頂に主郭を配し、西に延びる尾根上に郭が連なる連郭式。
東背後の尾根は大堀切で断ち切り、その先にもう一条堀切が認められます。
西の二郭を区切る堀切には土橋が架かり、二郭側には土塁が施されており、土塁に登って土橋を渡り主郭に進入する動線となっています。
二郭より西側は鉄塔建造により大きく改変を受けていますが、尾根先端部にも土橋の架かる堀切が設けられています。
行き方は、石神集落内の白山神社から登城路が付いています。比高は約100mです。
2024年11月19日 RED副将軍
高原諏訪城[江馬氏城館 周辺城郭]
北飛騨を支配した江馬氏の本城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。室町時代に江馬時盛により築かれたとされます。
江馬氏は、鎌倉北条氏の北条義時や北条時房の系譜とも云われますが定かではなく出自は不詳です。
戦国時代には北飛騨に勢力を誇り、近隣の姉小路氏や南飛騨の三木氏と争いましたが、隣国の武田信玄と上杉謙信からすると小規模勢力であり、1564年に江馬時盛は武田氏に属し、その先導で武田氏が飛騨に侵攻。しかし嫡男の江馬輝盛は上杉氏に与したため父子の関係が悪化。
1572年に武田信玄が没すると江馬輝盛は父の江馬時盛を暗殺、弟を追放するなどして家督を継ぎます。
1582年に織田信長が本能寺で没すると、江馬輝盛は後ろ盾を失った三木氏に攻め寄せます。しかし八日町の戦いで江馬輝盛は三木氏家臣の牛丸又太郎により討ち取られます。江馬氏は総崩れとなり、小島城の小島時光により高原諏訪城は落城し廃城となったとされます。
見所
江馬氏城館跡として国史跡に指定されています。
高原川右岸にある江馬氏下館の南東背後にある丘陵頂部に築かれています。
北から南へと弓型に伸びる尾根頂部に主郭を置き、南側尾根に二郭群を配した連郭式。
北側尾根は三重の堀切で遮断され、南北に長い北郭は東側に低土塁を設けており、北郭と主郭の間も堀切と竪堀で遮断されています。
主郭の北東尾根にも複数の竪堀を用いた小規模な段郭が連なり、尾根先はV字堀切で区切られます。
主郭の南に大堀切があり二郭群に続きます。南尾根の先端も大堀切で遮断され、南斜面に竪堀を併設しています。
行き方は、県道484号沿いに登城口があり、周辺の路側帯に駐車することが出来ます。車で城域近くまで登ることが出来ます。
2024年11月05日 RED副将軍
傘松城[江馬氏城館 周辺城郭]
高原郷を一望できる江馬氏の拠点🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。鎌倉時代末期に藤原国家により築城されたと推定されています。
現在に残る複雑な縄張りの城郭遺構は戦国時代のものであり、江馬氏により姉小路氏に備えて改修されたものと考えられています。
見所
標高802mの観音山頂部に築かれており、江馬氏の本拠地を一望できるかなりの高所です。
山頂の主郭から北と西へ伸びた尾根に郭が連なる連郭式。
主郭は西側に虎口を開口し、北側に横堀が巡ります。
西尾根には三段の郭が連なり大堀切で遮断。更にに下った所に折れの付いた土塁と大堀切があります。
2024年2月に国史跡として江馬氏城館跡への追加指定をされました。
城域まで車道が付いていますが立入禁止です。朝浦不動院から登山道が付いていますが比高は約320mあるためガッツリ登山と思ってください。
また城内の木には新しいベアークローがありましたのでご注意下さいませ。
2024年08月16日 泰之助内記
江馬氏城館
当時の様子が伝わってきます。建物も綺麗に再現されています。
2024年02月18日 RED副将軍
洞城[江馬氏城館 周辺城郭]
江馬氏重臣の麻生野氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
大永年間 (1521年〜1528年)に麻生野直盛により築かれたと云われます。
麻生野直盛は江馬氏14代当主である江馬時経の次男であり、高原諏訪城の東方を守備する支城として洞城を築いて麻生野氏を称しました。
1559年、武田信玄による飛騨侵攻において山県昌景が攻め寄せると、宗家の江馬時盛とともに麻生野直盛も降伏し所領は安堵されました。
麻生直盛直から麻生野慶盛に家督を承継。宗家も江馬時盛から嫡子の江馬輝盛へ家督を承継するも、江馬輝盛は上杉氏との同盟を望んだことから江馬時盛と不和となります。
1572年に武田信玄が上洛途上に甲斐へ撤退し、武田信玄逝去の噂が流布されると、江馬輝盛は父である江馬時盛を殺害。更に親時盛派の家臣を粛正。
親時盛派の麻生野慶盛も攻め寄せられ自害し麻生野氏は滅亡。洞城は落城し廃城となりました。
見所
江馬氏城館跡を構成する城郭として国史跡に指定されています。
高原川支流の麻生野川北岸にある標高535mの山頂に築かれています。
山頂の主郭と西下の二郭で構成されており、主郭の北東背後は二重堀切で遮断され、西の二郭とは堀切で区切られ土橋が架かります。堀切は両サイドに竪堀となり中腹まで落ちています。
主郭の東側に虎口が開口し、南側下の犬走り状の通路が二郭への土橋に繋がります。
行き方は少し難しいです。
城域南西麓の麻生野集落の道沿いに城跡碑が立ちます。この周辺に路肩駐車し林道を進むのですが、右手の小屋付近で直ぐに林道から外れて沢を渡ります。そのまま尾根を進めば辿り着きますが途中で何の案内板もありません。国指定史跡とは思えないくらい分かりづらいです。
2024年01月16日 RED副将軍
政元城[江馬氏城館 周辺城郭]
江馬四天王のひとりに数えられる吉村政元の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代、築城主等の詳細不詳。
平治年間(1159年〜1160年)に鎌倉悪源太こと源義平が傘松城に籠もった際に、家臣の正本主馬により築かれたとも伝わります。
その後、高原郷に地頭職として入部した江馬氏は勢力を拡大。政元城には江馬氏家臣の吉村氏が入城。戦国末期の城主として吉村政元、吉村政延の父子の名が伝わります。吉村氏は河上氏、和仁氏、神代氏とともに「江馬四天王」のひとりに数えられる重臣でした。
1582年、姉小路氏との八日町の戦いにより江馬輝盛が討死し 江馬氏が滅亡。吉村氏も没落し 政元城は廃城になったと考えられています。
見所
山田川左岸に張り出した丘陵上に築かれた平山城。
古川盆地から数河峠を越える東街道と大阪峠からの脇往還が合流する交通の要衝です。
頂部に主郭を置き、西に二の郭を配し両郭は堀切で区切られています。
二の郭の西側尾根は鞍部を利用した堀切で遮断し
その先に土塁囲みの狼煙台があります。
主郭の周囲に帯郭、一段下の北側と南側に郭を配します。
コンパクトながら江馬氏城館跡として国史跡に指定されており整備されています。
行き方は、麓の大国寺を目標に設定し駐車場をお借りしました。比高は約50mで遊歩道があり案内板の通り進めば辿り着きます。
2023年11月27日 EMA右近衛少将
江馬氏城館
江馬館発掘調査の思い出。
昭和50年代に水田であった江馬館跡の発掘調査が始まりました。現在の庭の美しい石の配列は当時水田の上に出ていたものです。
初めは水のある池があったと考えられていたため、太鼓橋のような板が出土した際、池の証拠ではないかと現場は興奮し、岐阜大学にて放射性炭素による年代鑑定を行う予定でしたが、発掘が進み丸釘が出土したため、橋は新しい事が確認されました。
青磁など当時の物と明治以降の大量の陶磁器が混在したため、手分けの作業なども大変でした。
現在の江馬館は単に再現するのでは無く建築基準法や消防法に準ずる形で造られたので、様々に活用する事が出来る建造物となっています。
殿様のお部屋から見られる山に雲がたなびく東曇方面の景色が美しく「飛騨の神岡、雲居の御殿」と歌われる意味が判ります。
2023年09月27日 飛騨守はるき
江馬氏城館
江馬氏城館は、戦国時代神岡を治めていた江馬氏が作った館。上館と下館があるが、3000城の中にはまとまって登録されている。館は、少し広い作りで塀で囲まれている。館の中には今は展示物がある。庭園は外からは見えないよう囲まれていて、縁側からしか見えない。今は水は引いているが、高く盛り上がっているところを山、低い所を海、そして海の中に島があるような風景が再現されている。
近くの観光は、道の駅にあるカミオカラボというところがおすすめ。ニュートリノやカミオカンデについてのことがゲームなどで学べる。さらに神岡城(東町城)も近くにあるので、行ってみてください。
2022年11月28日 ばらく~だ
江馬氏城館
会所内で展示されている出土品(陶器や青磁の破片)も手にとって見ることができます。通常ならガラスケース内に入っていそうなものですが、ちょっと得した気分になれました。
2022年11月13日 もっくん勘解由長官3号
江馬氏城館
戦国時代の江馬氏の館と庭園が復元されています。神岡城とセットで300円のチケットがお得です。色んな資料を頂きました。
2022年08月21日 信野望フリーク宮内卿
江馬氏城館
信長の野望で存在を知っていたが知名度が低い。復元がかなり凄いですね、徳川の現存陣屋が近くに有るからかな?
2022年05月16日 583系備前守きたぐに
江馬氏城館
ここ2年ほど城郭検定1級の問題に飛騨の城に関する出題があるので(何回落ちとんねん!)、飛騨攻めの一環として訪ねました。
城のある飛騨市神岡地区は東大小柴教授のノーベル賞受賞で一躍有名になったところですが、16年前に神岡鉄道が廃止になってからは公共交通機関によるアクセスがよくありません。
前日にJRで富山から飛騨に入り、古川、高山地区を巡り、高山から濃飛バスで平湯温泉に行き、平湯温泉泊。朝7時の平湯温泉発のバスで神岡城口下車、神岡城に行ってから10分ほど歩いて江馬氏城館着。帰りは20分歩いて西里、または30分歩いて神岡バスセンターから2時間に一本の古川を経由する高山駅行きバスでまた戻ってきて、高山からJRで帰宅という苦しい日程となりました。
江馬氏城館は、神岡町の市街地ではなく、神岡城と同じく、高原川の上の台地に築かれています。
また、地方豪族が室町幕府の花の御所を模した方形居館の一つとされてます。
現地のガイドさんによると、発掘、復元されたのは水田だったところだけで、民家が建っているところは発掘できないので、方形に復元されたわけではありません。そして、写真のように庭園も復元されていますが、ここは水田の中に岩だけが出ていたそうで、地元では江馬の殿様の岩と伝えられていたそうです。調査の結果、水を引き入れた形跡はなく、枯山水だったのだろうとのことです。
他にも当時の城主の食事を再現した写真などがあり、それをガイドさんが解説してくれ、こちらからの質問にも懇切丁寧に話をしてくれました。
2022年05月14日 583系備前守きたぐに
高原諏訪城[江馬氏城館 周辺城郭]
江馬氏館を見下ろす山の頂上にあります。車を使って先人様登録の江馬氏館周辺城郭Pにおけば山登りの大半を避けられますが、麓からの登城路にえげつないほどの急傾斜かつ深さの竪堀がある(写真を撮ったのですが迫力が伝わらず申し訳ないです。)ので、これが見れません。
徒歩攻めをする場合、登城路は幅が狭いうえに落ち葉で滑りやすく、足を滑らせて竪堀や砂防堰堤に落ちれば大怪我をしそうです。また、倒木で道がふさがっているところもあり(江馬氏館のボランティアの方が、来週現地に行くと言っていたので、ひょっとしたら、状況が変わっているかもしれません。)、登山靴や動きやすい服装など事前にしっかり準備をお願いします。
また、先に江馬氏館又は神岡城に寄られることをおすすめします。共通入場券300円がかかりますが、飛騨市山城マップが置いてあります。山城マップの江馬氏編に高原諏訪城の解説と簡単な登城路つき地図が載っています。
登城路で間違えやすいポイントを簡単に書き記しておきます。登城路の入口は江馬氏館から徒歩5分ほどの園城寺となっていますが、境内には特に案内板はありません。写真の鐘楼を目印に鬼瓦の建物と電信柱の間の道を進んでください。すると鳥居がありますので、鳥居をくぐって道なりに坂を上がると舗装路にでます。舗装路を横切ると登山道があります。
ここから先は道なのかわからないところが多々ありますが、道にはお地蔵様がありますので、お地蔵様を目印にして、リア攻めマップと飛騨市の山城マップを参考に進んでください。
また、辻がいくつかありますので、景色を記憶しておくか、忍者のように目印に枯れ枝を置くかしないと、帰りに違う場所にでてしまう可能性があります。
最後にアクセスですが、公共交通機関利用の場合、JR高山本線からは、猪谷発、又は高山駅発飛騨古川経由で、松本、上高地方面からは、平湯温泉発の濃飛バス神岡バスセンター行きを利用となりますが、高山駅発は2時間に一本程度あるものの、その他は極めて本数が少ないです。神岡鉄道廃止で、行きにくくなってますが、うまく利用してください。
2021年11月27日 大和大納言
江馬氏城館
2021/11/21
赤母衣イベに合わせて訪問。場所的にアクセスが難しいためか、訪問時は私一人でした。入館料は200円。神岡城とのセット券もあります。
興味深く見学しました。希望すれば受付の方に案内して頂けます。当時、徐々に実力がモノをいう世になりつつもこの地を治めるのにはこういった格式(室町様式の建物と庭園)を整えるのは必要な事だったのでしょうし、それを実現できる財力を持っていた事が分かります。
庭園は周囲の山を借景にしていたようですが、東南方向には高原諏訪城があり、当時は木々が払われていて丸見えだったと思われるので真南向きが見せたい正面になるのかなどと考えつつ、少しゆっくりした時間を過ごせました。
また、飛騨の姉小路氏、江馬氏の山城を訪問予定の方は一度訪れてここで山城マップを入手された方が良いかと。各城の縄張り図と登城時の取り付き口が記載されており参考になると思います。
(他の方の情報では飛騨古川駅の案内所にもありそうな感じでしたが、私が訪れた時はありませんでした)
それと、小型犬3頭を連れた近所の方が毎日来られているようで、自分も戻る時に歓迎?を受けました。確か14:00頃だったと思いますのでタイミングの合う方はどうぞ。興奮してはしゃぐのは分かるが、私が頂いた資料の上で飛び跳ねるのはお止め頂きたい😅
2021年11月07日 国府左京大夫城介
傘松城[江馬氏城館 周辺城郭]
高原諏訪城に比肩する江馬氏の山城
【歴史】
築城者は不明だが、永仁7年(1299)に築城と伝わる。
江馬氏の城郭であったという資料は残っていないが、近年の研究では江馬氏の城である可能性が極めて高くなっているとのこと。
別名:吉田城
【遺構】
傘松(からかさまつ)城は、江馬氏下館より南西2kmにある観音山(標高803m/比高363m)山頂に築かれた山城。
山頂に主郭があり、土塁や虎口があり、その周囲を横堀が北・西・南に張り巡らされていた。特に南側の横堀は令和2年の発掘調査で新たに発見されたものです。北尾根には段曲輪や堀切、南尾根には両竪堀、西尾根にはこの城で最大の堀切がある。
【感想】
当初の予定には全くない城攻めで、江馬氏館の方が「傘松城もいいお城ですよ」の一言で登城を決めました。だけど、登り始めるとかなり後悔するレベルでキツく高原諏訪城が楽勝に思えるレベルでした。また、日没や終バスの時間もあったので、かなりギリギリの城攻めでした。
しかし、山頂の遺構を見始めると「ここまで頑張って登ってよかった」と思えるくらい素晴らしいお城でした。しかも、飛騨市が発掘調査をして新たな横堀を発見しているなど、まだまだ隠された遺構があるような気がします。また、山頂からは江馬氏館や高原諏訪城を容易に視認でき、樹木がなければ、他の江馬氏城館(洞城、石神城、寺林城、政元城)をも見渡すことができる重要な拠点であることが分かります。そう考えると、この城が江馬氏の城であることは明白だと思います。
もし、神岡に来ることがあれば、是非リア攻めすることをお奨めします。公共交通機関の場合は、時間配分には気を付けてください。
【アクセス】
江馬氏館より不動院登城口まで徒歩10分。主郭まで徒歩で40~50分。
登城口は複数あります。
山頂近く(標高700m)まで林道が通っており、数台停車するスペースはある。
【写真】
1:遠景(江馬氏館より)
2:標柱
3:説明版
4:主郭から江馬氏館を望む
5:堀切(北尾根)
6:主郭北側の土橋と堀切
7:主郭の西側の横堀
8:堀切(西尾根)
2021年11月07日 池田信濃守輝幸【若】
江馬氏城館
室町から戦国にかけて北飛騨を治めた江馬氏の館の跡に、中世の武家屋敷が綺麗に再現されていました。復元されているのは主門、土塀、庭園、会所です。
主門を入ると右側に庭園を鑑賞するための建物(会所)があります。壁があり庭園は外からは見えません。靴を脱いで上がると、まずチケットを買います。神岡城との共通券のほうがお得です。チケットを買い、中に入っていくと発掘調査の資料や写真などが展示されています。
展示ゾーンを抜けると庭園が見えてきます。庭園には木がなく石と草、苔で構成されていました。今、水はありませんが、石によって囲まれていたので昔は水があったのかもしれません。それを抜けると今で言う応接室みたいな部屋にきます。ここからも庭園が見えます。またこの部屋には納戸(忍者隠)がありました。
各都市からは行きづらい場所ではありますが神岡を一望できるところでもあるので是非行ってみてください!
2021年07月24日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
江馬氏城館
会所からしか見えませんが、素晴らしい庭園があります。京都のお寺や大名庭園とは違った、無骨ながらも味わい深い庭園が見事に復元されてます。
2021年07月23日 戸沢夜叉九郎正樹
江馬氏城館
館跡が見事に復元されています。景観、雰囲気など一乗谷朝倉館跡と似ているかも。
詰めの城としてすぐ後ろに高原諏訪城があります。
2021年06月27日 特にありません
江馬氏城館
かなり整備されている館跡。ただ、高山陣屋からも白川郷からも白骨温泉からもそれなりに距離があるので、観光ルートでは行きづらいかな。
2020年09月27日 くっしー式部大輔尚人
高原諏訪城[江馬氏城館 周辺城郭]
スカイドーム神岡(道の駅)から主郭まで約30分、途中に確認できる竪堀・堀切・切岸が素晴らしい。主郭からの眺めが最高。飛騨市の担当者によると保存会が精力的に動いてくださるとのこと。また、主郭から江間氏館跡が見えるというのが良いですね!
2020年09月22日 織田上総介晃司
江馬氏城館
史跡江馬氏館跡公園に2〜3台停めれますが足の不自由な方用に残しておいて、道の駅 宙ドーム・神岡に停めて歩いて行きましょう。
復元会所で係りの方が丁寧に説明して下さいました。
江馬氏館跡から見える山に高原諏訪城がありますが今回リア攻めは断念しました。
2019年06月18日 龍馬備中守【】
江馬氏城館
二重堀切☆中央部に土塁を置き(右)張出部から先手を撃つ☆八日町の戦いで三木自綱に攻められ更に小島時光に攻められ高原郷の領主としての江馬氏は滅亡する☆
2019年05月30日 龍馬備中守【】
江馬氏城館
江馬氏の詰城・高原諏訪城☆二重堀切を上部より☆神岡盆地を見下ろす南北に延びた稜線尾根の南端ピーク標高622mに築かれた戦国の山城☆
2019年04月30日 大隅守上
駐車場[江馬氏城館 駐車場]
この辺りの余白に停めます。
2015年05月01日 まー刑部卿
江馬氏城館
駐車場は道の駅に停め徒歩5分ほどだがわざわざ200円払ってまで見る価値はなし。そばの高原諏訪城跡は路駐しましたが対面走行が、なんとか出来るところですが停めるとこは十分注意して停めると良い。
2013年06月29日 三日左馬助落人
江馬氏城館
山麓の館と山上の詰の城(高原諏訪城)で構成される城館で、山麓の館部には発掘成果をもとに会所などが復元されています。
会所の背後、東南方向に見える山が高原諏訪城です。
は道の駅「宙ドーム神岡」を利用すると館まで徒歩約5分で行けます。高原諏訪城も近くまで車道はあるものの、スペースはないのでご注意を。
館部分がしっかり整備されてるためそこで見学完了してしまいそうですが、高原諏訪城にも二重堀切や片側土塁の道など、見逃すには惜しい遺構があります。
伐採もされてて、見晴らしも良かったですよ〜
2011年10月03日 三河守コーキしゃん
江馬氏城館
駐車スペース有りです。入場料200円で親切に館の説明をしてくれます。
高原諏訪城の縄張り図をもらえるので先に館に寄るといいと思います。