城生城(じょうのうじょう)

城生城の基本情報

通称・別名

城生城、蛇尾城

所在地

富山県富山市八尾町城生

旧国名

越中国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

斎藤常喜?

築城年

南北朝時代?

主な改修者

佐々成政?

主な城主

斎藤氏、佐々与左衛門(佐々氏家臣)、青山佐渡守・篠島織部(前田氏家臣)

廃城年

慶長5年(1600)以降

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切、切岸、虎口、馬出、土橋

指定文化財

市史跡(城生城跡)

再建造物

周辺の城

猿倉城(富山県富山市)[4.9km]
蜷川館(富山県富山市)[8.2km]
布市城(富山県富山市)[9.1km]
富崎城(富山県富山市)[9.4km]
尾畑城(富山県富山市)[10.0km]

城生城の解説文

城生城(じょうのじょう)は、富山県富山市八尾町城生字城鉄炮町に在った城。市史跡。蛇尾城とも云う。

規模
神通川西岸に在る独立した丘陵全体に築かれた山城。佇まいは軍艦を連想させる。城域は南北約750m、東西約150m。丘陵の標高は124m(比高差は約50m)。東は神通川、西から北は土川と、南を除く三方に天然の堀を有する。更に北端には堀切が在り、その向こうは高さにして40mはあろうかという崖によって遮断されている。南に大手口が在り、土橋、馬出し、石積みを備えた二重の虎口を設け、うねる様に連なる郭群には空堀、土塁が巡らされている等、城域南部は非常に堅固な作りとなっている。恐らくは佐々成政によって大規模な改修が施されたものと思われる。中央に位置する主郭は周囲より約10m程高く、北を除く三方は切岸、大きな空堀に囲まれている。一方北部は広大な平坦地であり、居住施設や物資の備蓄に使用されたと見られ、長期の籠城戦にも対応出来る様になっていた。飛騨街道に面しており、飛騨国から富山平野に向かう者は必ずといっていい程この地を通過せねばならなかった。また神通川の水運にも影響を与えていたと思われる。

歴史
越中国婦負郡南部を支配した斎藤氏の居城である。斎藤氏は藤原利仁の流れを汲むと云われているが、確証を得ない。平盛嗣(越中次郎兵衛盛嗣)の後裔であるという意見も在る。南北朝時代に斎藤左衛門大夫入道常喜が北朝方に属して功を挙げ、足利尊氏より越中国楡原保を与えられた(『仁和寺文書』)のが史料における斎藤氏の初見である。恐らくはこの頃に築城されたものと思われる。戦国時代になるとこの地は飛騨勢の北進を防ぐ拠点として、また飛騨越中間の交易の拠点として各勢力より重要視された。越後国守護代長尾為景の要請に応えて飛騨口を守備したり、また越中国守護代で富山城主神保長職や越中国願海寺城主寺崎盛永、飛騨国人で北進を続けて越中国猿倉城主となっていた塩屋秋貞に攻められたりしている。天正年間には上杉謙信の配下となっていたが、やがて謙信が死去。城生城主斎藤信利は弟の信吉と共に織田信長へ誼を通じ、信吉が上杉方の越中国今泉城を落城させるなど織田方の越中進出に積極的に協力した。しかし数年後には再び上杉景勝に接近、織田方へ反旗を翻す。越中国を治めていた成政はこれを攻め、1年余りに及ぶ籠城戦の末、落城。成政は家臣の佐々与左衛門に1万石を与えて城生城を守備させた。富山の役により成政が降伏した後は前田利長の持ち城となり、家臣の青山吉次が入った。吉次が越中国魚津城へと移った後には越中国今石動城代篠島清了が入ったと云うが、この時清了は今石動城代の任を解かれていないと思われ、また両城の距離も離れているなど疑問が残る。関ヶ原の戦いに関連した、一時的なものではなかろうか。少なくともこの後さして日を置かずに廃城となったと思われる。

逸話
成政が城生城を落とした後、井戸山の水を飲んだ者は腹痛を起こす様になったと云われている。これは攻防戦で亡くなった者の祟りであると伝えられている。

現在
城の南端が土砂採掘の為に削られてはいるものの、それ以外はほほ完璧な形で残されており、非常に見応えのある城跡である。地元の方々による整備も行き届いており、案内板も見やすく丁寧である。見晴らしも素晴らしい。周辺には斎藤氏と協力して成政に反発し、結果神保氏張に攻め落とされた一向一揆の拠点、聞名寺が在るが、周囲を石垣で囲ったその佇まいは城郭伽藍を想起させるに充分である。そしてこの寺の御正忌法要では氏張に攻略された事に因んだ、他寺には見られない或る「決まり」が有る。

:斉藤氏と佐々成政の争いに際し、聞名寺は越中・飛騨・美濃までの門徒を招集して斉藤氏に味方した。佐々方の武将神保氏張は街道に関所を設けて門徒の集結を遮断した。寺の北方に人形や篝火を大量に設置し、あたかも大軍が北方より攻め寄せる風に仕立てた上で、寺で親鸞の命日祭である御正忌法要が営まわれている時を狙い、寺の南東の城ヶ山から急襲した。読経の最中であった住職は猛烈なスピードで読経を終えると、寺宝の親鸞聖人像を持って、井波方面に逃げたと伝わる。この伝説からか、現在でも同寺の御正忌法要では平時より早く読経し、住職は途中から参加して、すぐに無言で途中退席する慣例となっている。

城生城の口コミ情報

カーネル様[2016年06月10日]
高山本線 東八尾駅から県道25号線を南へ

県道は右側に歩道があるのですが、それがなくなってから少し先の道路左に、本丸コースの看板と入り口があります。ここまで駅から30分ほど

入ってすぐに『西中段、腰曲輪』の看板があるので往復しました。普通の平地でした

ここから南へ大堀切、南の曲輪群、東の竪堀、本丸と見てから北の堀切・井戸と首切り場に行くのが効率がいいです

大堀切も竪堀も幅広く、土塁の高さもあり迫力があります

私は北端の首切り場に最初に行ってしまい、本丸まで戻るなどしたので、城内を1時間以上さ迷うはめになりましたが、効率よく回っても時間がかかるので、時間に余裕を見た方がいいと思います

帰りは北端の首切り場に抜ける城内ルートで帰りました。登山口にでたらロープが張ってあり、またいでからロープにかかってる看板を見ると『危険、立ち入り禁止』

・・・でも、道は近年に整備された形跡もあり、歩きやすかったです

駅まで戻ってトータル2時間

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

三河守コーキしゃん様[2012年10月16日]
大沢野大橋を渡り、突き当たりの県道25号を右折します。

道なりに800m程進むと右手に入り口の看板が立っています。
周りに駐車場スペースはないので、適当な路肩に停めました。

入り口から城郭までの道のりが崖沿いの獣道になっていますので、足元注意です。

全体的に遺構が残っていますが、ネザサが一面を覆っているので、雪溶けの季節に行ったほうがいいかもしれません。

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