魚津城(うおづじょう)

魚津城の基本情報

通称・別名

小津城

所在地

富山県魚津市本町

旧国名

越中国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

椎名氏

築城年

建武2年(1335)

主な改修者

主な城主

椎名氏、佐々氏、前田氏

廃城年

江戸時代前期

遺構

石垣

指定文化財

市史跡

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

天神山城(富山県魚津市)[4.9km]
松倉城(富山県魚津市)[7.4km]
上梅沢館(富山県滑川市)[8.3km]
生地台場(富山県黒部市)[9.6km]
若栗城(富山県黒部市)[10.9km]
小出城(富山県富山市)[11.6km]
大村城(富山県富山市)[14.1km]
仏生寺城(富山県中新川郡)[14.6km]
内山城(富山県黒部市)[14.6km]
弓庄城(富山県中新川郡)[15.9km]

魚津城の解説文



魚津城(うおづじょう)は、富山県魚津市にあった日本の城(平城)。別名、小津城、または小戸城。松倉城の支城のひとつ。天正10年(1582年)6月の本能寺の変直前の魚津城の戦いの際、柴田勝家率いる織田軍が攻囲していた城として有名。魚津市指定史跡[1]。とやま城郭カードNo.4[2][3]

歴史 

伝承では、建武2年(1335年)椎名孫八入道によって築城されたとされる。城の周囲は鴨川(神明川)、角川、富山湾、友道の沼に囲まれた場所に立地し、本城は二重の堀と石垣に守られ、天守閣も備えられていたと伝えられている[4]

戦国時代に椎名康胤が上杉氏から離反すると、椎名氏を追討に出た上杉軍の手に落ちた。以後上杉氏の越中支配における重要拠点となり、河田長親が長く城代を務めた。天正10年(1582年)の魚津城の戦いで織田軍と上杉軍が凄まじい攻防戦を繰り広げた。 しかし、直後の6月6日に本能寺の変の報が届いたため、織田軍は撤退し、すぐに上杉軍が奪回した[5]

その後、天正11年(1583年)3月[6]に態勢を整えた佐々成政により再び攻囲され、城将須田満親は開城し信濃の海津城に転出した、その成政も富山の役で前田・上杉軍に挟撃されたうえ秀吉の大軍の前に降伏、天正15年(1587年)に肥後移封されたが一揆が発生し没落した[7]

文禄4年(1595年)には前田利長に新川郡が加増され、上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を受け取る[8]。 これにより長尾能景以来の上杉氏による越中支配が終わった。前田氏の治下では青山吉次などが城代を務めた他、富山城焼失後の慶長14年(1609年)3月22日から高岡城に移る同年9月13日まで前田利長が拠点としていたが[9]、元和の一国一城令により廃城となったとみられる。廃城後は加賀藩の御蔵「古城御蔵屋敷」として使用された(1785年発行の魚津町惣絵図にも記載されている)[10]

現在、本丸跡地は大町小学校跡(2018年4月に魚津市本江にある魚津市立よつば小学校に統合された。)、二の丸跡は魚津簡易裁判所などの敷地となっており、遺構は殆ど残っていない[11]

遺構・復元建造物 

明治初期には、堀や土塁などが残されていたが破却されている。

  • 旧大町小学校(魚津城本丸) - 校門に直江氏の兜前立て「愛」と「魚津城址」の字旗。グラウンドの築山は魚津城の櫓台だった可能性が残る。
  • 「史跡 魚津城跡」石碑 - 隣に「常盤の松」。周囲に富山城から運ばれたとされる矢穴石を配置[12]
  • 松倉城塁群立体模型 - 本城の松倉城を含む城塁群が水平に設置された立体図(山・海など)に配置。
  • 「上杉謙信の歌碑」 - 「武士(もののふ)の鎧の袖を かたしきて枕に近き 初雁の声」[13]の歌碑
  • 模擬石垣と「魚津城の戦い」幟 - 「越中魚津町惣絵図」などに描かれた本丸の縄張りを参考にした石垣で当時の遺構ではない[14]

近隣施設・ 関連資料など

  • 「魚津城の戦い」案内板 - 紙芝居のような木枠に描かれた絵。上杉景勝の肖像や「魚津在城衆十二名連署状」の写真が載っている。
  • 「大町校区に残る旧跡・史跡」 - 「江戸時代の大町の絵図」が現在の市街地地図とともに掲載。
  • 魚津城復元模型 - 魚津歴史民俗博物館に展示[15]

支城 

魚津城や松倉城周辺には数多くの城跡がある。現在の魚津市内のみでも、坪野城、北山城(金山城・金山谷城)、升方城、天神山城(萩城)、小菅沼城、水尾城、水尾南城、石の門などがある。

交通 

  • 富山地方鉄道本線・電鉄魚津駅から徒歩5分
  • 魚津市民バス・市街地巡回ルート「県総合庁舎前」
  • 北陸自動車道・魚津ICから10分

魚津城の口コミ情報

2023年01月04日 曲輪但馬守削平
魚津城



明けましておめでとうございます。
2023年1月1日、城初めに魚津城跡へ行って来ました。そして魚津市HPにある「魚津城ゆかりの地・てくてくウォークラリー」のパンフレットを手に歩いてみました。一周するのに二時間弱かかりました。スポット登録も致しましたので興味あるかたは実際に歩いてみられては如何でしょうか。関連史跡、痕跡しかありませんが魚津の歴史をより感じられる事間違いなしです。

江戸時代に再興された愛宕社は小学校の南門辺り(城址碑付近)にありました。グラウンドの北西角にあるスキー山は愛宕社(昭和41年遷座)のあった跡地の築山(土塁跡?…絵図では本丸南東角辺りになります)を移したものだそうです。

江戸時代の絵図で悪水溜めとなっている池は魚津城の大外堀の可能性があるとか(今は跡形もありません)。そうだとすると旧北陸街道の内側までが城郭だったように見えます。
とはいえ本格的な発掘調査が行われていないので江戸時代とそれ以前の縄張りが同じかどうか分からないとか。発掘調査して欲しいです。

(写真のコメントはリア攻めマップのスポット写真から見れます)

2022年08月04日 内灘守
魚津城



魚津の旧市街にあり、現在は大町小学校が立ってます。説明板あり、だが、魚津なのに、青山佐渡守のことが何もかかれてないのが残念。

2022年07月24日 FUKU
魚津城

織田VS上杉の戦が有ったとは思えぬほど跡形も有りません。小学校たち児童に昔すごい戦有ったんだよと告げたく思いました。

2022年06月30日 きむねこ
魚津城



小学校の中にあるため、初めは本当に入っていいのか戸惑います(笑)石碑と説明文がありますがじっくり見ても30分はかからないと思います。

2021年11月07日 楊近江守威利
魚津城



廃校になった大町小学校が跡地です。東側の旧正門(プール横)に車を停めさせていただきました。児童玄関前の植え込みに案内板がありました。また、グラインドに出ると北側に土塁?のようなものがあります。城跡西には近代の米騒動発祥の地があります。

2020年09月22日 織田上総介晃司
魚津城

大町小学校(廃校)の駐車場に停車。

小学校と幼稚園の敷地になってたのでほとんど遺構はありません。
グラウンドの隅に土塁があるくらいです。

2020年08月20日 
魚津城

富山地方鉄道本線の電鉄魚津駅から徒歩7~8分です。駅から通りまで商店街のアーケードがあります。あいの風とやま鉄道の魚津駅は離れているのでご注意を。大町小学校跡の再利用がされるまでは、駐車場はありません。

2018年07月11日 安田大蔵卿秀俊
魚津城

城跡の魚津市立大町小学校は2018年4月で閉校となりました。
(今後、城跡解説板などの管理は大丈夫なのだろうか?)

2015年08月05日 まー刑部卿
魚津城

大町小学校校庭の部分が本丸跡という。体育館脇から校庭に出た時の右端にある小山は土塁の跡かなと思ってしまった。石碑前にある大町歴史館は平日で開校している時に行かないと開いていない。駐車場は小学校前に数台停められます。

2010年08月28日 傾奇揚げ仙兵衛
魚津城

城跡から蜃気楼は見えませんが海沿いにでると海の駅蜃気楼が在ります。

2010年06月17日 徳川内大臣源朝臣康武
魚津城

城跡に建つ大町小学校の空き教室を、魚津城資料館として解放していました(休日のみ?)。また、オプショナルとして、校長先生が学校の屋上へ案内してくれ、城跡全景を見ながら、魚津城や市内の城跡、蜃気楼の話しをしてくれました。
・・・去年の話しだけど、今もやってるのかな?

魚津城の周辺スポット情報

 二の丸跡(遺構・復元物)

 石碑・説明板等(碑・説明板)

 魚津浦の蜃気楼(御旅屋跡)(碑・説明板)

 上杉軍将兵之供養塔(碑・説明板)

 長教寺(魚津町奉行所跡)(碑・説明板)

 旧出丸町(碑・説明板)

 上杉謙信の詩碑(寺社・史跡)

 万灯台(寺社・史跡)

 照顕寺(寺社・史跡)

 諏訪神社(寺社・史跡)

 伏見稲荷魚津大社(寺社・史跡)

 愛宕社(寺社・史跡)

 角川(その他)

 大堀跡の排水路(その他)

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