生地台場(いくじだいば)

生地台場の基本情報

通称・別名

所在地

富山県黒部市生地芦崎328

旧国名

越中国

分類・構造

台場

天守構造

なし

築城主

加賀藩

築城年

嘉永4年(1851)

主な改修者

主な城主

加賀藩

廃城年

遺構

(発掘調査:土塁)

指定文化財

県史跡(生地台場)

再建造物

土塁、説明板

周辺の城

若栗城(富山県黒部市)[7.4km]
天神山城(富山県魚津市)[9.0km]
魚津城(富山県魚津市)[9.6km]
内山城(富山県黒部市)[13.4km]
松倉城(富山県魚津市)[16.2km]
宮崎城(富山県下新川郡)[17.1km]
上梅沢館(富山県滑川市)[17.7km]
小出城(富山県富山市)[20.4km]
大村城(富山県富山市)[21.1km]
仏生寺城(富山県中新川郡)[23.6km]

生地台場の解説文

嘉永3年(1850)8月、加賀藩は外国船の来航に伴い、海防のため領内海辺13箇所に台場を築造することを決定し、越中では伏木と新湊と生地の3箇所に設定した。

嘉永4年9月7日、砲台の築地見分のため、算用場奉行水原清五郎、改作奉行森権三郎等が出張し、10月20日より台場築作方に岩峅寺の門前久太郎が着工し、同年11月15日に完成した。

安政6年(1859)、生地村役人の神子田孫三郎から大筒打人として魚津馬廻の伜布目大太郎と馬場三郎が任命され、万延元年(1860)6月、宮腰浦(現・金沢市)から大砲や火薬が舟積みされてきた。

布施山開(十二貫野など)で生地村の人々が開拓している土地の作徳米(年貢を納めた残りの米)を入れる米蔵に一時保管し、文久元年(1861)8月、生地台場の南東108間(約196メートル)の龍泉寺裏の海浜に、3間(約5.4メートル)四方の半2階の大筒土蔵が完成した。

平成元年(1989)、台場の発掘調査が行われた。長さ62メートル、幅8メートルあり、形は弧状を呈する。幕末に造られた台場の上に史跡保存のため約1.5メートルの盛土がなされ大筒2基が置かれている。

交通 

・JR北陸本線「生地駅」下車、約2キロメートル

情報提供:黒部市教育委員会生涯学習課


生地台場の口コミ情報

2023年07月04日 RED副将軍
生地台場



加賀藩が日本海沿いに築いた13ヶ所の台場のひとつ💣

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1851年に加賀藩により外国船の来航に伴い異国からの備えとして築かれました。
加賀藩は藩内13ヶ所に台場を築くことを決定。越中国には、伏木・生地・放生津・氷見の4ヶ所が築かれました。
結局は実戦に使用されることは無く明治を迎えました。

見所
弓形状の土塁が造営され、その上に五門の大砲が設置されていました。
その内、二門の大砲が復元展示されており、大砲は臼砲(モルチール砲)と呼ばれる短砲身であったとされます。

行き方は、県道2号から生地公園を目指してください。隣が生地台場で公園化されており広い駐車スペースもあります。

2022年09月20日 もっくん勘解由長官3号
生地台場



台場の上はそれほど広くなく、ここに臼砲を並べてもと、幕末の混乱を想像しました。それともこの土手の裏から打ったのか?

2019年05月02日 龍馬備中守【】
生地台場



幕末期に外国船渡来に備えて海上防衛の必要から加賀藩が築く☆小さい砲台が可愛いw

2017年09月30日 近江守Silvine
生地台場

隣にあるYKK黒部越湖製作所の向かいに謙信手植えの松があります。看板がありますが黄色で見つけづらいです。製作所の正門から生地台場へ100mほど行った場所、フェンスに青地でYKKと書いてある場所の向かいです。

2011年08月13日 尾張守あんこ
生地台場

JR北陸本線の生地駅から自転車で10分くらい。駅前にある村椿公民館に無料レンタサイクルがあります。湧き水が美味しいイイ所でした。白黒カラーの生地鼻灯台の近く。駐車場もトイレも近くにあります。大砲が2門と案内板2枚がありました。

生地台場の周辺スポット情報

 謙信手植の松(寺社・史跡)

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