富山城(とやまじょう)
富山城の基本情報
通称・別名
- 安住城、浮城
所在地
- 富山県富山市丸の内
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 梯郭式平城
天守構造
- 複合連結式望楼型[3重4階/1954年築/RC造模擬]
築城主
- 神保長職
築城年
- 天文12年(1543)
主な改修者
- 佐々成政、前田利次
主な城主
- 神保氏、佐々氏、前田氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守、石碑、説明板
周辺の城
-
大峪城(富山県富山市)[2.6km]
新庄城(富山県富山市)[3.7km]
白鳥城(富山県富山市)[4.3km]
太田本郷城(富山県富山市)[4.6km]
安田城(富山県富山市)[4.7km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- (続)134 富山城
設置場所
- 富山市郷土博物館 [地図]
関連施設
- 富山市郷土博物館
富山城の解説文
[引用元:Wikipedia「富山城」の項目]富山城(とやまじょう)は、富山県富山市丸の内にあった日本の城である。「浮城(うきしろ)」「安住城(あずみじょう)」ともいわれた。
【概要】
富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中中央の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれていた。
また、瀧廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。現在、城跡は「富山城址公園」となっている。
【歴史・沿革】
〜中世〜
室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を守護代として治めさせていた。
富山城は1543年(天文12年)頃に越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる。
しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられている。また、神保氏時代の富山城は今の場所ではなく、約1キロメートル南方の小高い所にあったとする説もあったが、この発掘結果によってほぼ現在の位置にあったことが明らかとなった。なお、天文年間(16世紀中期)の名称を「安住の館(あずみのやかた)」とする研究者もいる。
慶長年間以前に成立したことが確実な『富山之記』という往来物には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子がくわしく書かれており、中世富山城を知るための貴重な史料となっている。
ところが、神保長職は1560年(永禄3年)、上杉謙信により富山城を追われ、神保氏の治世は僅かな間であった。その後、富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、1578年(天正6年)、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。しかし、1582年(天正10年)3月、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、佐々成政である。ただし信長が成政を越中に封じた時期については、前年2月の上杉方による小出城攻囲への救援の功を賞して天正9年に既になされていたとする説がある。なお、当時織田家と富山城の争奪戦を繰り広げた上杉家では、天正年間の一時期、富山城のことを「安城」と呼称していたとする古くからの説があるが、近年の研究では概ね否定的なようである。
〜安土桃山時代〜
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、1585年(天正13年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。この際に、秀吉は本陣を富山城西方4kmの白鳥城まで進めたものの富山城には入らず帰還したとするのが従来の定説であるが、成政が降伏した直後の1585年(天正13年)閏8月1日に富山城に入城していたとする説が新たに提起されている。...[続きを見る]
富山城の口コミ情報
治部卿織田晃司様[2017年10月11日]
車で富山城に行かれる方、富山城天守東側に市営の駐車場があったかと思います。
今回私は天守南側、道路を挟んだ100円パーキングに停めました。
天守は戦後、富山市郷土博物館として模擬復興され、復興天守としては珍しい国登録文化財の指定を受けています。
富山で私のお目当てグルメは富山駅の駅弁で有名な「ますのすし」と「富山ブラックラーメン」です。どちらも美味しくいただきました♪
富山ブラックラーメンの詳細については「安田城」の口コミで
源摂津守@宿泊遠征憧れ♪様[2017年03月31日]
富山駅から南へ路面電車と違う道を歩いて10分、まず見えるのが、緑瓦を葺き、ナマコ壁を持つ三層望楼型建物。「佐藤記念美術館」でした。風格あります。
石垣を愛でつつ南へ行くと千歳御門前に。当時はここに入口は無かったそう。薬医門です。
門を潜ると、富山城に用いられた石垣の石材があちこちに展示や日本庭園が目に入ります。石の刻印など見つつ模擬天守前に。
城門だった石垣の上に建てられた模擬天守。中は富山市郷土博物館になっており、国の登録有形文化財に登録されてるそうです。
時間がなかったので入館せず、その脇にある御鉄門跡の石垣を見てましたが、鏡石がよく目に入り、石も丸こいのがあったりで楽しめました。
現在城址公園は、本丸と西の丸(間の水濠は埋め立て)、それらの南面の水濠および二の丸の一部のみです。公園内や周囲を歩いても一時間もかからないです。
ここから佐々成政は、冬の立山連峰越えをしたんやと超人的な行軍やその時背負った甕は埋蔵金として山中に眠ってるのか等に想い馳せました。
帰りは、丸ノ内から路面電車で駅に戻りましたが、富山市内は路面電車が充実してて便利です。
まー宮内卿様[2015年08月05日]
日本のど真ん中スタンプラリーのために来たら開館時間過ぎてましたが押印の旨を話したら入れてくれました。富山城の下に有料駐車場有り。一時間以内なら320円です。
越中守寿虎都様[2014年05月02日]
近くの、富山市役所展望台(無料)から、全景がみられますよ。
さくら主膳佑にゃ〜様[2011年03月28日]
3月29日(火)13:30〜現地説明会実施。江戸時代の土塁構造が残っている事が判明したそうです。
平日の現説とあれば、普通の状況ならば10数年振りに富山までゴー♪なんですが…さすがに行かれません
tomm加賀守様[2010年10月12日]
平成17年に外観と共に展示も全面リニューアルされとても分かりやすくなっています。
またHPには「富山城址の変遷」というPDFファイルもありますのでご覧になって下さい
傾奇揚げ仙兵衛様[2010年08月28日]
富山ブラックは塩辛くてライスなしでは食べられません