石動山城(せきどうざんじょう)
石動山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 石川県鹿島郡中能登町石動山
旧国名
- 能登国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 石動山宗徒?
築城年
- 不明
主な改修者
- 上杉謙信
主な城主
- 石動山衆徒、直江景綱(上杉氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(石動山)
再建造物
- 石碑(石動山)、説明板
周辺の城
-
七尾城(石川県七尾市)[5.0km]
森寺城(富山県氷見市)[6.3km]
小丸山城(石川県七尾市)[9.2km]
阿尾城(富山県氷見市)[9.6km]
金丸城(石川県鹿島郡)[11.8km]
池田城(富山県氷見市)[15.0km]
二穴城(石川県七尾市)[17.0km]
飯久保城(富山県氷見市)[18.0km]
守山城(富山県高岡市)[19.9km]
古国府城(富山県高岡市)[20.4km]
石動山城の解説文
[引用元:Wikipedia「石動山城」の項目]
石動山(せきどうさん)は、石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市にまたがる標高564mの山。山頂は中能登町に位置し[1]、中能登町の最高峰でもある。
概要
石動山の古名の「いするぎやま」または「ゆするぎやま」とは、石の動く山の意味で、道教系の星辰信仰や修験道の影響を受けつつ、天から降ってきたという動字石の伝説によるものと考えられている。
加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七か国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は80を数える。南北朝時代と戦国時代の2度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。山頂の伊須流岐比古神社の境内地を中心とした区域は国の史跡に指定されている(1978年10月25日指定、中能登町が指定対象)。また、石川県側は都市公園法に基づく都市公園(県営公園)の「能登歴史公園(石動山地区)」として指定されている[2]。
歴史
石動山(石動山大御前)には古くから漁民や農民の信仰を集めた神社があり、これが延喜式の神名帳に記された「伊須流岐比古神社」に比定される。
石動山における開山については諸説あり、『石動山古縁起』によると崇神天皇6年に方道仙人が開山し、養老元年(717年)に智徳上人が登山して天平勝宝8歳(756年)に大礼殿(講堂)を造営したという[3]。一方、泰澄による開創の伝承が古くからあり、近世初期に林羅山により著された『新縁起』も泰澄により構築されたとする。鎌倉時代には真言系の修験道者によって伽藍堂宇が造営されて神仏習合の「石動寺」と称されるようになった。
南北朝時代初頭の1335年、建武の乱が起こると朝廷側の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏に呼応した同国守護普門俊清に焼き討ちされて一時衰退した(一度目の石動山合戦)[4]。その後、足利将軍家の支援で堂塔などが再建され、京都の真言宗勧修寺の末寺となったことで「天平寺」を称するようになった。
天正10年(1582年)には越後国の上杉家に逃げ込んでいた能登の温井景隆らが石動山衆徒と組んで石動山から峰続きの荒山砦に籠城したが、織田信長の家臣である前田利家や佐久間盛政らにより陥落し再び焼き討ちに遭った(二度目の石動山合戦、荒山合戦)。
天正10年の戦いでは山内のすべての建物が焼失したが、前田家の援助を受けて17世紀初頭から18世紀にかけて復興が図られた[5]。しかし、五重塔や多宝塔は再建されることはなかった。
その後、明治時代初頭の神仏分離政策のもとほぼすべての院坊が破却された。大半の坊は里に下りたが、数軒の坊舎は残り、明治8年(1875年)に白山麓から入植した人々とともに農耕が行われるようになった。
現状
自然
ヤマユリの一種「石動山ユリ」が石動山だけに自生している[6][7]。天平時代に新潟から種子が持ち込まれ自生したとされており、「石動山ユリ」は中能登町の町花となっている。乱獲やイノシシによる食害により自生数が減少し一時絶滅の可能性があった。このほかに、山頂には低山には珍しいブナが森を形成している。
登山
登山口へは、麓となる国道159号からの道路が狭隘であることから公共交通機関とのアクセスはなく、自動車(マイカー)を利用して向かうのみとなっている。中能登町立の石動山資料館に併設されている駐車場に停めて登山するのが主流となっている。
資料館周辺の能登史跡公園は平坦となっているが、山頂へは急坂のコースとなる。山頂を中心として周遊コースとなる登山道が整備されており、石動山城址や荒山城址、宿坊跡などが散策できる。
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石動山城の口コミ情報
2024年10月30日 雪那【槍の又左】
石動山大御前遺構[石動山城 遺構・復元物]
石動山の最高峰大御前の西方に堀切が3つ、北方に1つ設けている。藪漕ぎな堀切だが、西方の手前の堀切は上幅20m、深さ14mもある巨大なもの。
2023年10月02日 RED副将軍
荒山城[石動山城 周辺城郭]
幾度も戦いの舞台となった加越境目の城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。元々は石動山天平寺により築かれた砦が始まりともされます。
戦国時代には阿尾城の菊池氏の属城であったともされ、1577年の上杉謙信による能登侵攻の際には能登国守護の畠山氏が防衛の拠点とした様です。
1582年に本能寺で織田信長が没すると、石動山天平寺衆徒は上杉景勝を後ろ楯として畠山氏旧臣の温井氏、三宅氏とともに荒山城を改修し能登奪還の拠点としました。
これに対して羽柴秀吉は前田利家や佐久間盛政に石動山への侵攻を命じ、荒山城は落城。石動山衆徒は滅亡しました。
その後は越中を支配した佐々成政の出城として機能しましたが、1584年の末森城合戦で前田利家が攻め落とし、佐々成政討伐の拠点とします。
1585年に佐々成政は羽柴秀吉に降伏し、荒山城は廃城となりました。
見所
標高486mの枡形山頂部に築かれており、山頂に主郭を配して北側の尾根に段郭が連なります。切岸の鋭さはなかなかのものです。
石動山城へと通じる東の尾根道には土橋を残した片堀切がある様ですがヤブとなり判別出来ず。
派生する尾根に多数の郭を配した広大な山城ですが公園化による改変とヤブ化が進んでいました。冬期は見えやすいかも知れませんが積雪を考えると期間は短いと思います。
行き方は、県道18号沿いに枡形山登山口があります。案内板が立ち、広い駐車場もあるので見落とすことは無いです。
車で結構高くまで行けるので城域まで近いと思って登り始めましたが、駐車場から比高は100mほどあり20分くらい階段を登る必要があります。
公園となり遊歩道が付いていますが、あまり整備はされておらず階段も崩れた箇所がありました。
2023年06月10日 RED副将軍
石動山城
上杉謙信が七尾城攻略のために改修した城郭寺院🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
石動山は古くから信仰の対象とされた神社があり伊須流岐比古神社に比定されます。
諸説ありますが、717年に智徳上人が開山したのが始まりとされ山岳信仰の霊場として栄え、鎌倉時代には石動寺と称されました。石動山衆徒が砦を構え、古くから城郭寺院の様相を呈していたと思われます。
室町時代には動乱の中、焼き討ちに遭いましたが、足利将軍家の庇護を受けて再建され天平寺と称される様になります。
1577年、上杉謙信が畠山氏の七尾城攻略のため石動山城を築き、守将として直江景綱が入城したとされます。上杉謙信が没すると織田信長の支配下となりましたが、1582年に織田信長が本能寺の変で没すると、石動山宗徒と畠山氏の旧臣が上杉景勝の助勢で蜂起し、石動山から峰続きの荒山城に籠城。前田利家、佐々成政、柴田勝家、佐久間信盛などの軍勢が攻め寄せ、再び全山焼き討ちになりました。
江戸時代になると天平寺は前田氏の寄進により復興しましたが、明治になると廃仏毀釈により破却され廃寺となりました。
見所
標高約520mの山頂に主郭を配し、東の二郭、北の三郭を中心に僧坊らしい郭群が無数に展開される城郭寺院特有の縄張りです。
特徴的なのは東林院跡から二郭まで続く竪堀状の切り通し。そのまま二郭東の尾根に切り通しが続き、東端は堀切で遮断されています。
大宮坊は水堀と石垣が敷設されており完全に城郭寺院の様相です。
行き方は、石動山資料館を目標に設定。国指定の史跡だけあり広い駐車場にトイレもあります。
標高は520mと高いですが、車で山頂近くまで行けるため比高は約70mくらいです。
大宮坊の東側に登城口があります。
2022年11月24日 気分爽快豊後守
石動山城
麓の大宮坊、東林院跡には立派な石垣が残っています。主郭東側は横堀で守られています。
2022年04月25日 後藤大蔵大輔康家
石動山城
歴史を感じる形跡が至る所に。向かいの枡形山、荒山城跡と合わせての登城をおすすめします。
2010年09月25日 徳川内大臣源朝臣康武
石動山城
大宮坊を中心とする天平寺僧坊跡群。大宮坊の一部が復元されている。近くに、天平寺僧兵と共に織田勢に挙兵した、七尾畠山氏の残党が築いた荒山城跡がある。
てか、SoftBankでは山麓では攻略できず、山頂では圏外になった