飯久保城(いくぼじょう)
飯久保城の基本情報
通称・別名
- 伊久保城、飯窪城、伊窪村山城
所在地
- 富山県氷見市飯久保字向山
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 狩野氏
築城年
- 長享2年(1488)以降
主な改修者
- 佐々氏?
主な城主
- 狩野氏、三善氏
廃城年
- 天正13年(1585)以降
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、枡形虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
守山城(富山県高岡市)[5.1km]
池田城(富山県氷見市)[6.8km]
赤丸城(富山県高岡市)[8.0km]
高岡城(富山県高岡市)[8.3km]
古国府城(富山県高岡市)[8.7km]
阿尾城(富山県氷見市)[9.0km]
二塚城(富山県高岡市)[11.0km]
森寺城(富山県氷見市)[11.7km]
放生津城(富山県射水市)[12.4km]
木舟城(富山県高岡市)[13.3km]
飯久保城の解説文
[引用元:Wikipedia「飯久保城」の項目]
飯久保城(いいくぼじょう)は、富山県氷見市飯久保に在った日本の城。飯窪城、伊窪村山城、伊久保城ともいう。とやま城郭カードNo.36[1][2]。
規模
仏生寺川を見下ろす細長い尾根上に在る山城。比高差は約60メートル。主郭の周りには厚みのある土塁、南東部には櫓台が設置され、南北には大きな堀切が見られる。主郭の東には尾根の先端に向かってもう一つの郭が在るが、両者の間は大きな堀切によって区切られている。主郭の北西に一段下ると小規模ながらも枡形虎口[3]が在り、主郭と虎口との区切りにはまたも小規模ながら堀切が使われている。尾根の地形を利用しつつ、効果的に堀切を設置する事で防御力の強化を狙った築城者の意図が感じ取れる。
歴史
富山県氷見市南部を支配していた狩野氏の居城。越中国鞍骨山城、越中国惣領砦も狩野氏の持ち城だったと云われており、以前は鞍骨山城が狩野氏の居城であったとされていたが、近年ではその立地から飯久保城が居城であり鞍骨山城はその詰城だったのではないかと考えられている。もしくは当初は山間部の鞍骨山城に拠っていたが、勢力を強めて徐々に平野部へと進出した過程で飯久保城が築かれ、これを拠点としたとも考えられよう。また戦国時代の一時期には越中国池田城城主三善一守が拠っていたと云うが、正確な時期は不明。
狩野氏は元々は加賀国の在地領主であった。鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてこれに拠っており、中先代の乱では宮方として活躍している。その後は加賀国守護富樫氏の家臣であったが、長享2年(1488年)に発生した加賀一向一揆によって当主の富樫政親が敗死。加賀国の支配権は富樫氏から一向一揆勢力へと移行した。狩野氏はこの難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと云う。飯久保城の正確な築城年代は不明だが、これ以降であろう。
狩野氏は越中国守護代神保氏の配下であった様だが、その動向を窺うべき史料は少なく、不明な点が多い。永禄年間(1558年-1569年)には狩野中務丞良政の名が見える。良政は富山城主神保長職に人質を差し出して臣従していたことが知られる。永禄4年(1561年)には一族の宣久が飯久保城の近くに在る光久寺に対して寺領を寄進し租税を免除している(『光久寺古文書』)。また上杉謙信や佐々成政に仕えている事から、神保氏の中でも越中国守山城主神保氏重、氏張系統の家臣団に組み込まれていた様である。狩野右京入道道州は、神保家没落後上杉家に臣従し、子の狩野秀治は上杉景勝に仕え重用されている。天正13年(1585年)8月に豊臣秀吉が越中へと攻め込んで成政が降伏した(富山の役)後、狩野氏は没落して飯久保城を離れたと云う。その後飯久保城の名が史料から見えなくなり、また前田氏が領する事でその戦略的利用価値を失ったと考えられる事から、さほど時を置かずして廃城になったと思われる。
逸話
- 飯久保の瓢箪石:国の天然記念物。上杉軍が飯久保城を攻略し、更に別の城へと向かう途中で一休みしていた時、謙信が腰に付けた瓢箪に入れていた酒を飲もうとして勢い余ってこぼれ落ちた酒の雫が瓢箪形の石になったと云われている。元々は自然が作り出したもので江戸時代には氷見の特産品として流通し、現在でもその姿を見ることが出来る[4]。
現在
地元のボランティアや近隣の児童らによって遊歩道が整備されたり各所に案内板が設置されたりしており、非常に手が行き届いている。城跡の保存状態も良好である。
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飯久保城の口コミ情報
2025年06月22日 曲輪中務大輔削平
神代城[飯久保城 周辺城郭]
氷見市神代(こうじろ)にある標高約70mの丘陵上に城跡があります。
飯久保城からは直線距離で東に約1kmの位置です。
今回は飯久保城の第二駐車場に車を停めて城跡に向かいました。
城跡のある丘陵の北端には加久彌神社があります。石段を登り、そのまままっすぐ境内の東端に行くと尾根に取り付く踏み跡がありました。足場は悪く結構足元も見えない藪ですが、踏み跡ははっきりしており、何とか城域に到達する事が出来ました。
遺構は郭、堀切など。
小規模な城跡ですが縄張図によると堀切は11もあります。
特に主郭回りの堀切が見応えあります。
(8枚では足りませんので別に口コミしました)
城域西端側にはビニールテープが張られており、進入は見合せました(樹木の伐採絡みかも)。
なので堀切11は未踏です。伐採で藪も酷そうでした。
帰路は城跡の南側に踏み跡をたどり、尾根に立つ鉄塔から西側へ送電巡視路を下り神代集落に下りて来ました。登城口が分かりにくいと思いますが、こちらから登る方が良いかもです。
整備された道はありませんのでそれなりの装備で登城して下さい。
①加久彌神社
②堀切1
③堀切4(訂正します帯曲輪東は⑧に投稿)
④主郭
⑤帯曲輪(西)
⑥堀切10
⑦鉄塔直下から伐採地を下りました。
⑧帯曲輪(東)
2025.6.7
2025年06月22日 曲輪中務大輔削平
神代城[飯久保城 周辺城郭]
ほぼ単郭、神代砦とも呼ばれる小規模な城跡ですが、縄張り図によると堀切は11あるようです。特に主郭まわりの堀切は見応えあります。
①堀切2
②堀切3
③堀切4
④堀切5
⑤堀切6
⑥堀切7
⑦堀切8
⑧堀切9
堀切1〜4は北側、5〜6は東側、7〜10は南側、11は西側にあります。
(参考:氷見の山城)
2025.6.7
2025年06月16日 曲輪中務大輔削平
惣領砦[飯久保城 周辺城郭]
氷見市惣領と鞍骨に跨る標高101.9mの丘陵上に砦跡があります。
登城口付近には天然記念物イタセンパラ保護池があり、駐車場や保護池側にトイレもあります。
なんか、荒れてる気もしますが…。
惣領遊歩道が整備されており、砦跡までは問題なく行けると思います。
ただ、尾根を外れると藪で切岸下の帯曲輪や堀切などは写真を撮りにくいです。
駐車場に説明看板がありますが、現地看板は空壕しかありません。
遺構は曲輪、土塁、堀切、土橋があるようです。藪で切岸が見えないのが惜しい。
砦跡を過ぎて遊歩道をそのまま進み、一周してみました。一部、草ボウボウで道が隠れているところもあり、距離も1.5倍以上ある事から余裕のない方は砦跡からUターンして戻るのが正解だと思いました。
①東尾根、最初に現れる堀切、土橋
②帯曲輪からA郭東側の堀切
③A郭
④B郭の堀切、土橋
⑤B郭とC郭の間にある堀切
⑥B郭北側の竪堀
⑦A郭北側の帯曲輪
⑧C郭北側の堀切
2025.6.7
2020年04月04日 雪那
飯久保城
登城口は先様の口コミ通り、八幡社の階段を登る手前左にあります。
車は八幡社に駐車出来るスペースはありませんので、私は少し離れた公民館に駐めさせて頂きました。
ずっと山登りになりますが、階段で誘導されるので迷子になりませんでした。
箇所箇所に説明板があり分かりやすいです。
ただ途中倒木があり、完全に道を塞いでいました。潜れたので先に進みましたv
本丸と思われる場所の説明板の文字は消えていましたが拓けた平坦面があります。その先に行くと見晴台があります。
その先はまた階段で誘導され下っていきます。そして飯久保側に下りれば私が見たかった竹ドームに出ます。
そこで出口になりますが、車を駐めるスペースがあるので、先ずそこに車を置いて、入り口の八幡社まで歩くのがベストだと思いました。
ちなみに最初間違えて八幡社の階段を上り、神社裏の広い道を尾根沿いに15分程歩きましたが行き止まりになり、何もありませんでした。
2017年09月24日 たえ大炊頭
飯久保城
八幡社の階段の左手前に登り口があります。地元のボランティアにより整備されてるとのことでしたが、イノシシが出没して危険な為、最近はボランティアも中止ならしく草が生い茂っていました。仕方ないので、「竹のドーム」なる方から登りました。こちらはちゃんと道がありましたが、やはり至る所に真新しいイノシシの足跡や、掘り返した大きな穴が開いており、子供達が怖がったので途中で引き返しました。行かれる方は、十分注意して下さい。城とは関係ありませんが、「竹のドーム」は行ってみても良いかも♫