放生津城(ほうじょうづじょう)
放生津城の基本情報
通称・別名
- 放生津館、奈呉城
所在地
- 富山県射水市中新湊
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 名越時有
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 名越氏、桃井氏、神保氏、前田氏
廃城年
- 江戸時代前期
遺構
- 消滅
指定文化財
- 市史跡(放生津城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
古国府城(富山県高岡市)[3.8km]
高岡城(富山県高岡市)[6.8km]
守山城(富山県高岡市)[7.3km]
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放生津城の解説文
[引用元:Wikipedia「放生津城」の項目]
放生津城(ほうじょうづじょう)は、越中国婦負郡放生津潟[1](現在の富山県射水市中新湊)の海岸部(現在の富山新港の西側[2])にあった日本の城(平城)。射水市指定史跡[3]。とやま城郭カードNo.26[4][5]。
沿革・歴史
鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中国守護所を起点とする。元弘3年(1333年)、建武の新政を迎える際の争乱(元弘の乱)では、守護であった北条時有(名越時有)最後の拠点となり、反幕府側の武士に囲まれて落城する際の光景は『太平記』に記述されるものとなった[6]。
室町時代になると、守護畠山氏に代わり射水郡・婦負郡守護代神保氏が入城した。明応2年(1493年)、明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された将軍足利義材を迎え、上洛のための諸準備を進めた。
永正17年(1520年)に越後国守護代長尾為景の攻撃で落城。その後神保氏により再建され、後に越中国を支配した前田氏の頃には城代も置かれたが、江戸時代初期に廃城となった。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられた。
現在、遺構は射水市立放生津小学校グラウンド地下2メートルの位置にあり、地表から見えない。グラウンド周囲に有る土盛りは砂止めであり、土塁遺構ではない。1988年(昭和63年)とその翌年、1991年(平成3年)に試掘調査が行われ、出土品の一部が射水市新湊博物館で常設展示されている。2003年(平成15年)7月24日に市指定史跡に指定。
参考文献
- 【書籍】「 とやまの歴史」
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放生津城の口コミ情報
2026年07月25日 ᴿᴱᴰ副将軍
放生津城
越中国守護代である神保氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
放生津城(ほうじょうづじょう)と読みます
築城年代は不詳。1290年に名越時有に築かれたと云われます。
名越時有は執権北条氏の命を受けて守護職として越中国に下向し、越中国守護所として放生津城を築いたとされます。
1333年に鎌倉幕府が滅亡した際に、名越時有は反幕府勢力に追い込まれ放生津城に撤退するも自害。
その後、室町時代には越中守護である畠山氏の重臣であり、射水郡・婦負郡の守護代であった神保氏の居城となります。
1493年、室町幕府10代将軍の足利義材が明応の政変により管領細川政元に幽閉され、畠山政長も自害。足利義材は、京を脱して越中に逃れると放生津城の神保長誠に庇護され、越中公方として放生津政権を樹立。放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えます。
1520年、神保慶宗が新庄城の戦いで越後守護代である長尾為景に敗れて自害。放生津城も落城し焼失。
神保氏は一時衰退するものの、神保慶宗の子である神保長職が再興し、1543年に富山城を築いて本拠を移し、放生津城も再建されたと云われます。その後、上杉氏、一向一揆勢、織田信長勢が越中に侵攻。
放生津城は守山城の支城となっていたとされますが、上杉氏が侵攻すると上杉氏に降り、織田信長勢が侵攻してくると佐々成政に降ります。
1585年、佐々成政が豊臣秀吉に降伏すると越中国は前田氏の所領となり放生津城も前田氏の支配下となります。
その後、江戸時代初期に役目を終えて廃城となったと云われます。
見所
現在は放生津小学校となり遺構は消失。
小学校北側に案内板と城跡碑があります。
グラウンドに土塁のような盛土がありますが残念ながら遺構では無いようです。
2026年07月15日 播磨守小寺政職のこうちゃん
放生津城
🚗で登城しました🤨射水市立新湊放生津小学校が城趾になります🤨グラウンドの周りに土塁かと思いきや…土塁ではなく…砂止めの土盛りみたいです🚗…城趾は小学校なので専用駐車場無しです💦
2026年05月06日 やーす大宰大弐
放生津城
小学校の周辺が城だったらしいです。土塁がありました。
2025年05月02日 脇本 龍
放生津城
学校グランドの外側で、土塁の跡はしっかり残っています。
2024年04月21日 天道安芸守早雲
放生津城
学校の裏手に立派な案内板があります。春はチューリップがとても綺麗です。
2022年08月04日 内灘守
放生津城
現、放生図小学校のすみに遺構あり。分かりにくい場所なのですが、富山市方向から来るのであらば、また、行くのだったら、新湊大橋を是非ご利用して下さい。気持ちよさこの上無し❗
2022年06月19日 陸奥守新九郎
放生津城
遺構は残っていません。でも、立地からは放生津という中世の一大港湾都市との関係、どうしてここに城が築かれたのかということはよくわかります。ぜひ、周辺の散策とあわせて。足利義材の銅像もあります。
2022年05月03日 十河民部大輔一存
光正寺[放生津城 寺社・史跡]
足利義材が滞在し一時は将軍御所だったといわれているお寺。(「新湊放生津城下さんぽ」より)
2021年03月07日 曲輪加賀守削平
放生津城
「放生津城跡を掘る」によれば、現校舎部分からは遺構が出ず、現グラウンドの南端から幅25mの堀跡が見つかり、状況から南側の堀と推測されるそうです。南側の堀だけしか分かってませんので城域はまだ分かりません。放生津城の遺構は海面より下の1.5m地下に埋まっていました。江戸時代前期の海面上昇や地盤沈下が考えられるとか。グラウンド周囲の土盛りは旧校舎の航空写真にはなく現グラウンドの工事で出来たものみたいです(グラウンドの土壌を入れ替えた際の残土らしい)。閉館近くまで新湊博物館にいたら真っ暗になってしまいました。2021.1.24
2016年08月15日 まー兵部卿
放生津城
小学校脇に【城跡】のみの石が置いてあり説明板があるのみ。その後ろにある土塁は関係ない。このすぐそばに放生津橋に室町幕府第10代将軍、足利義材の座像と騎馬像がある。









