日宮城(ひのみやじょう)

日宮城の基本情報

通称・別名

日の宮城、日ノ宮城、火宮城、二上山城、橋下条城

所在地

富山県射水市日宮

旧国名

越中国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

神保氏

築城年

永禄年間(1558〜1570)?

主な改修者

主な城主

神保氏、上杉氏

廃城年

元亀3年(1572)以降

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀

指定文化財

市史跡(日宮城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

願海寺城(富山県富山市)[5.1km]
二塚城(富山県高岡市)[6.5km]
白鳥城(富山県富山市)[7.1km]
増山城(富山県砺波市)[7.2km]
安田城(富山県富山市)[7.3km]
富崎城(富山県富山市)[7.5km]
高岡城(富山県高岡市)[7.6km]
放生津城(富山県射水市)[8.0km]
大峪城(富山県富山市)[8.7km]
古国府城(富山県高岡市)[10.2km]

日宮城の解説文



日宮城(ひのみやじょう)は、富山県射水市にあった日本の城。火宮城、二上山城、橋下条城ともいう。射水市指定史跡[1]。とやま城郭カードNo.27[2][3]

規模 

小規模な丘陵地(笹山)全体を利用した一城別郭方式の山城(丘城)。『日宮新村見取絵図』によると主郭は北東の丘陵(標高20メートル)であるとされているが、その南、南西に在る郭も同規模であり、南西の郭(現:日宮社)を主郭であるとする説も在る。ただ、南西郭にはそれほど人の手が加えられた形跡が無く、また他の丘陵とはある種独立している状態となっている為、主郭である可能性は希薄であると思われる。北東の「主郭」は土塁、堀切を効果的に使い、入り組んだ構造となっている。南の郭は他の郭よりなだらかな丘陵に作られており、どちらかと云えば「主郭」よりも平坦面が広い。土塁や堀切の他に竪堀も設置されている。南西の郭は他の郭よりも傾斜のきつい丘陵に作られている。郭は二段に分かれているが、平坦面が少なく土塁や堀切といった設備も見受けられない。「主郭」の東には「二の丸」とされる郭が在るが、道路整備等の影響でかなり削られている(二の丸脇の道路及び住宅地一帯は、太閤山団地が造成される前まで、元々胸まで浸かるほどの沼地が広がっていた)。因みに『越登賀三州志』には城の周りを水濠で囲んでいたと書かれている。北陸道に面しており、交通の要衝であった。出城としては越中国赤井砦が在る。

歴史 

築城年代は不明だが、戦国時代に越中国の守護代であった神保氏の当主、神保長職が、永禄5年(1562年)に越中国増山城を居城とする前に拠っていたという。長職が増山城へ移ると、越中国富崎城等と同様にその支城として機能していた。城主としては神保源七郎等の名が伝わっている。

父慶宗の代に没落した神保氏は長職の代になって急速に勢力を拡大。天文12年(1543年)に越中国富山城を築城した辺りから越中国新川郡を領していた椎名氏との激しい領地争いが始まった。これは椎名氏を従属させていた隣国の越後国守護代長尾氏にとっても看過出来ない情勢であり、永禄3年(1560年)に長尾景虎(上杉謙信)が越中へと兵を進める事態となった。この時日宮城も落城し、長職は敗れて一時姿をくらましている。長職はこの後再び勢いを取り戻すが、東には武田信玄と組んだ椎名氏、その奥には上杉氏(長尾氏改め)、振り返って西には一向一揆勢が居り、特に一揆勢に対する対応の一貫性の無さに長職の苦悩が見て取れる。家臣は親上杉派、親武田・一向一揆派に分かれて争い、子の長住は武田方に付き追放される始末。その間、実権は徐々に親上杉派の小島職鎮に奪われて上杉方への従属化が進み、長職の死後には家臣の大部分が上杉氏の家臣となった。

元亀3年(1572年)、武田信玄の調略に応じた加賀国、越中国の一向一揆が蜂起。同年5月24日から日宮城は一揆勢の猛攻に遭う。日宮城の守将であった神保覚広は越中国新庄城主鰺坂長実に援軍を要請し、上杉方は長実や山本寺定長等を援軍として派遣するも、辿り着く前に呉服山で一揆勢の迎撃に遭い、退却。そこを追撃されて、惨敗した。援軍が期待出来なくなった守将達(覚広、職鎮、安藤職張、水越職勝)は同年6月15日に開城。一揆勢と和議を結んで能登国石動山天平寺へと落ち延びた。これによって勢い付いた一揆勢はそのまま越中国白鳥城を攻め、越中国富山城(翌年に謙信によって再度攻略されている)をも落としている。

日宮城はその後史料から姿を消しており、さして時を置かずに廃城となったと思われる。

現在 

神保家との縁も深い薬勝寺や日宮社が建っている。小さな案内板が建つなど最低限の整備は為されている様であり、城の痕跡も至る所に見受けられるが、私有地でありその立ち入りは制限されている。

日宮城の口コミ情報

2025年07月06日 ハル監物ハル
伝・布目城[日宮城  周辺城郭]



登録されていたので訪問しました。現地は畑と田んぼになっています。布目沢神社⛩より南の道は舗装されていません。遺構は残っていないのではないかと思います。

2025年05月07日 生駒伊予守江現蔵✿
日宮城



日宮城は越中国射水市の標高20mの丘に築かれています。戦国時代に越中国の守護代であった神保氏の居城でした。

4月の越中遠征最終日、城友さんの居城なので、讃岐に帰陣する前に立ち寄りました。殆どが私有地で立入禁止なので、写真の枚数も少ない城です。

リア攻めマップで「登城近道 鉄の階段」があったので、登ってみたところ、曲輪跡らしく、ここはまだ立入禁止ではないみたいです。

この先は調査無理かな?と思って見渡すと、おばさんを発見!勇気を出して、ここは日宮城という戦国時代の城跡なので、この上の土地を見学させてほしいと頼んでみました。すると、おばさんの口からびっくりする言葉が!

10年前に黒いリュックを背負った若者が同じように城を見学させてほしいと言ってきたと。おばさんは地主さんで、たまたま訪れていて、いろいろ興味深い話しをしてくれました。

この土地の所有者の1人が家を建てようとした際に、射水市が発掘調査をしました。土地の端を掘ると弥生土器がたくさん見つかり、土地の高い場所からは、50体の人骨が出たそうです。人骨はどこかの博物館に移され、宅地にするのはやめたとの事。

この場所で戦があったのでしょうね。おばさんのご厚意で、本丸の土塁、切岸、段曲輪を見学させてもらい、写真も撮らせてもらいました。感謝です。それにしても10年前のリュックの若者は誰だったのか?気になります。

2022年11月04日 後藤筑後守康家
日宮城



薬勝寺参道口の通り側、鉄製の階段で上まで上がる。上部は竹林も、城跡であることははっきりわかります。二上山と放生津が見渡せます

2022年05月03日 十河民部大輔一存
日宮城

私有地がかなり多く、見学は制限されますが、その分郭は見学し易くなっています。

2022年02月20日 まるき〜出羽守
駐車場・トイレ[日宮城  駐車場]

行き当たりばったりで登城してきました

北側の鉄の階段から主郭へ行くのが一番の近道だと思います主郭より他のの曲輪への移動はできるのですが立ち入り禁止の看板とロープで囲った所が多く立ち入るのに制限がありそうです取り敢えずロープ外から行けそうなルートを探しながら歩くも気がつかないうちに禁止区域に入っていたりしていましたので縄張り図持参で来るのが良いと思います。

城の南道路沿いに駐車場とトイレがあります。

2011年05月01日 三河守コーキしゃん
日宮城

小さな石碑と説明板、土塁の一部が残ってました。

日宮城の周辺スポット情報

 主郭(遺構・復元物)

 旧小杉本陣寺林家住宅(遺構・復元物)

 日宮城跡(碑・説明板)

 加賀藩旧本陣跡(碑・説明板)

 伝・赤井城(周辺城郭)

 伝・赤井砦(周辺城郭)

 小泉城(周辺城郭)

 伝・浅井城(周辺城郭)

 伝・布目城(周辺城郭)

 砺波射水郡奉行所(周辺城郭)

 北陸道小杉宿(周辺城郭)

 囲山遺跡(寺社・史跡)

 中山南遺跡(寺社・史跡)

 藤原秀郷墓所(寺社・史跡)

 駐車場・トイレ(駐車場)

 射水市埋蔵文化財センター(関連施設)

 登城近道 鉄の階段(その他)

 堀底道(その他)

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