九戸城(くのへじょう)
九戸城の基本情報
通称・別名
- 福岡城、宮野城、白鳥城
所在地
- 岩手県二戸市福岡城ノ内
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 梯郭式平山城
天守構造
- 不明
築城主
- 九戸氏
築城年
- 明応年間(1492〜1501)
主な改修者
- 蒲生氏郷
主な城主
- 九戸氏、南部氏
廃城年
- 寛永13年(1636)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(九戸城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
四戸城(岩手県二戸市)[4.7km]
一戸城(岩手県二戸郡)[5.7km]
目時館(青森県三戸郡)[9.5km]
姉帯城(岩手県二戸郡)[10.5km]
熊野館(岩手県九戸郡)[11.5km]
三戸城(青森県三戸郡)[13.1km]
軽米城(岩手県九戸郡)[14.8km]
田子館(青森県三戸郡)[15.5km]
浄法寺城(岩手県二戸市)[16.1km]
聖寿寺館(青森県三戸郡)[16.4km]
九戸城の解説文
[引用元:Wikipedia「九戸城」の項目]
九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内[1]にあった日本の城。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている。
概要
中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な年は不明である[2]が、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。
「九戸政実の乱」以後、蒲生氏郷によって改修されて南部宗家の本城となった。
西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫淵川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)[3][4][5]松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。
城跡は、1935年(昭和10年)6月7日、国の史跡に指定され、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている。
沿革
以前から城主・九戸政実は、南部一族内の石川(南部)信直と対立し抗争していたが、南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した南部信直に対し天正19年(1591年)兵を挙げる。これは、南部信直が豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたため豊臣政権への反乱とみなされた。陸奥国では他にも大規模な一揆など起きており、秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政、蒲生氏郷や関東、奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣する。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月2日約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏開城させた。しかし約束は反故にされ、政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内にいた者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。平成になって城内から人骨が多数発掘されたが[6][7]、この時に殺害された人たちであるかどうかは判明していない。
この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻めあぐんだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二ノ丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている[8]。この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続けた。
慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)の廃城、破却まであった。
平成元年(1989年)から九戸城の史跡環境整備事業が行われ、本丸・二ノ丸跡を中心に継続的に発掘調査が行われた。平成7年(1995年)には二ノ丸跡で墓穴が発見され、刀傷や刺傷のある人骨が多数発見された。平成11年(1999年には二ノ丸跡で工房の遺構が発見され、鎧の札などが発見された。これらの調査で多くの出土品が発見されて、九戸氏が近隣だけではなく日本の中心である京都や大阪等の中央とも交流があり、交易が行われていたことが裏付けられた。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(104番)に選定された。
参考文献
- 【書籍】「日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田」
- 【書籍】「 史跡九戸城跡(福岡城跡)について 」 - 第11回全国城郭研究者セミナー(1994年8月6日開催)における同氏の報告の要旨。
- 【書籍】「日本の城 」
- 【書籍】「日本名城百選 」
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九戸城の口コミ情報
2024年09月30日 チョア
九戸城
アプリの地図や車のナビに従って行くと、広めの駐車場。二手に分かれたルートを、どちらからでも本丸の方に辿りつく。城跡の公園は広々とした芝が広がり、犬の散歩やジョギングの方もチラホラ。大きいお城があったんだな、と思える。堀跡や緩急がありまあまあ楽しい。自分は石垣好きだが、石垣はないながら、まずまず。
2024年08月09日 モコみち
九戸城
案内所の方の説明がわかり易く、南部愛が凄く伝わってきました。
2024年04月19日 左兵衛督SAKO
九戸城
只今復元工事中ですが、支障のないところは見る事は出来ます。ほぼ天下統一達成の秀吉が派遣した仕置き軍に1/13の五千の兵力で戦ったみちのくの侍たち、それも納得できるほどの壮大な規模のお城です。15分ほどのビデオや資料も展示してあり、係の人に色々話を伺うことも出来ます。
城内にいくつかの石碑が立つ場所があり、古の合戦を感じさせてくれる良いお城でした。
2024年01月03日 RED副将軍
九戸城
九戸氏による中世城郭と蒲生氏郷による近世城郭の両方が感じられる激戦があった城跡⚔
続日本100名城
築城年代は不詳。奥六郡を治めた俘囚長の安倍頼時の子である安倍則任が築いた白鳥城が始まりとも伝わりますが定かではありません。
九戸氏による築城が有力とされますが、明応年間(1492年〜1501年)に九戸光政による築城とする説や永禄年間(1558年〜1570年)に九戸政実による築城とする説などがありはっきりとはしていません。
1591年、南部氏一族の九戸政実は、当主である三戸城の南部信直に対して反乱を起こします。いわゆる九戸政実の乱です。南部氏宗家の家督継承で田子氏の南部信直と九戸政実の弟である九戸実親が争ったことや、南部信直が小田原征伐に参陣したことで豊臣秀吉は南部宗家の地位を公認し、九戸氏らを家臣として組み込もうとしたことが発端とされます。
櫛引城の櫛引清長、久慈城の久慈直治も九戸政実に呼応し九戸城に入り籠城。
南部信直は家中でも精鋭であった九戸氏の反乱を抑えることができず豊臣秀吉に援軍を要請。豊臣秀吉は豊臣秀次を大将、浅野長政を軍監として3万の兵を派遣。更に徳川家康、上杉景勝、前田利家らの軍が加わり奥州再仕置軍を編成。奥州再仕置軍は九戸氏の姉帯城と根曽利城を攻め落とし、6万の兵で九戸城を包囲。対する九戸政実は5千の兵で抵抗するも半数の兵が討ち取られると降伏開城。助命の約束は反故にされ城内全員が討たれたとされます。
九戸氏滅亡後、九戸城は蒲生氏郷により近世城郭へと改修され、南部信直に引き渡され九戸城を福岡城と改名して三戸城から移り居城としました。1633年に南部利直は新たに築いた盛岡城に移り、福岡城は廃城となりました。
見所
馬淵川と白鳥川と猫淵川に三方を囲まれた台地上に築かれており断崖の要害です。
北端に本丸を配し東側と南側に桝形虎口が開口。本丸の東から南側を空堀が巡り、東北で最古とされる野面積みの石垣が空堀側面に残ります。石垣は蒲生氏郷による改修時のもの。
二の丸が本丸を覆う様に配され、その周囲には東に石沢館、若狭館、南西に松の丸があり大規模な空堀で区画されています。
国指定史跡であり史跡公園として整備されており、2023年にガイドハウスも新しくできています。
2023年10月16日 尼崎城駿河守一口城主
九戸城
[城跡散策編]8月14日(月)二戸駅から274号をてくてくと進み、九戸城方面を示す道標に従い、大手門脇堀跡(写真①)を経由して二の丸大手(写真②③)から登城。城跡の広さにびっくりでした。広い二の丸跡を散策して本丸追手門跡(写真④)から本丸に入りました。
本丸と二の丸を隔てる空堀(写真⑤)や本丸南の石垣(写真⑥)を見学📷遺構を見ることが出来、歴史舞台に実際に立てて感激でした。
本丸見学後、三の丸跡のガイドハウス(写真⑦⑧)にお邪魔しました。ビデオや資料で九戸城の戦いでは包囲群は攻めあぐねて謀略をきっかけに落城したようで、九戸城は広大な縄張りに天然の要害の川などで堅固な城だったことが分かりました。
当日は埋蔵文化財センター休業日に登城した為、御城印は購入出来ませんでした🥲城跡ではまだ調査中か整備中の為か立ち入れない区域もあったので、またいつの日か全曲輪などが見学後できるようになったら文化財センター開館日に再訪城したいと思います。
お盆は北海道&東日本パスを利用してお城巡りをしており、下城後は二戸駅に戻りいわて銀河鉄道で盛岡城を目指しました🛤
2023年10月16日 尼崎城駿河守一口城主
九戸城
[進軍&周辺散策編]8月14日(月)二戸駅から九戸城に進軍。土地勘のない所で駅名と城郭名が異なるので不安でしたが駅名標の横に九戸城址まで北東2キロ(写真①)とあったので安心しました。二戸駅構内には九戸城の案内(写真②③④)がありました。写真④にあるように今年の4月にリニューアルしたばかりとのことで現地に辿り着いた時に雨宿りがてら新しい四阿(写真⑤)で休憩。
九戸城二の丸や本丸を散策した後、九戸城ガイドハウスで続100名城スタンプを押して、ビデオ鑑賞したり、パネルを見学。ガイドハウス内の周辺案内図(写真⑥)の包囲軍の配置を見て、帰路は津軽勢、秋田勢などが配置されていた天然の要害の馬淵(まべち)川🏞を見たくなり川沿いを散策してみました(写真⑦⑧)川幅も広く崖も急で防御力の高そうな川でした。
2023年08月22日 魔王
九戸城
ガイドハウスに車を停め本丸へ。外郭を見ながら辿り着くことが出来ました。本丸周辺は綺麗に整備されていました。
2023年04月08日 まさざね陸中守@九戸党
九戸城
R5.4.29から、本丸の工事が終わり一般開放されます。
2023年03月20日 マタローちゃん大宰少弐
九戸城
2022年10月現在で、大規模改修工事が行われおり、入る事が出来なかった。また駐車スペースも無い。車の場合二戸市埋蔵文化財センターで借りると良いかも。御城印もそこで売っている。
2023年03月19日 かなり筑前守
外館[九戸城 遺構・復元物]
いまは通路の造成してます。地下水が滲み出し沼のようだ。
2022年12月09日 あも図書頭
九戸城
お正月は4日から営業で3日まではスタンプは押せないとの事でした。
2022年08月22日 マークⅡ左京大夫政宗
九戸城
案内では、二戸駅からはバスを利用となってましたが、徒歩で登城しました。続百名城スタンプをもらう為に、埋蔵文化センターまでは10分、そこから、茶色の九戸城跡の看板まで10分、さらにガイドハウスを通り二の丸に到着まで8分の約30分かかりましたが、歩道や案内板もあったので、安心して登城出来ました。ただ、城跡公園化工事の為に、随所に工事車両があったり、本丸に入れなかったのが残念でした。
2022年07月18日 鼓舞式部卿勘助
九戸城
今年の10月末まで二の丸整備工事のため本丸に入れませんでした。綺麗な公園になることでしょう。本丸には何か建物が?
2022年06月27日 Tenshi49
九戸城
二戸駅からj J Rバス🚌で行こうとしたが、日曜日のため運行本数に注意して下さい❗️九戸城までやもうえず、タクシー行った❗️950円‼️
2021年12月22日 あるくま
九戸城
12/19 雪景色。本丸付近は工事?のため立入禁止になってました。拡張のニュースもあったので、しばらく部分的に工事が続く模様です。
2021年08月15日 刹那F精鋭渡島守【元親】
九戸城
搦手口は裏口のことです。九戸氏の時代から重要な虎口で、高さは13メートル×3メートル以上の規模があります。
平成29年の発掘調査で土塁壁際に土留めの痕跡が確認されたそうです。
2021年08月12日 陸奥守仙臺むすび丸JUN
九戸城ガイドハウス 4月〜11月[九戸城 スタンプ]
2021年8月12日現在の続百名城スタンプ設置場所・開館時間の情報です。
自分の下調べ不足で、多くの百名城&続百名城スタンプ設置場所と同じだと思い込み、アプリの情報を元に九戸城ガイドハウスに行ってみたら、閉まっていました。
九戸城ガイドハウスは、4月中旬から11月末までの10時~15時までの開館となっています。
御城印が買える場所でもある二戸市埋蔵文化財センターの開館時間は、冬期以外でも9時~17時(月曜日休館、年末年始も休館)になっています。九戸城より約1㎞離れている、二戸税務署そばの『二戸市総合福祉センター』(自分が借りたレンタカーのカーナビでは『二戸・久慈地域産業保健センター』で検索するとヒットしました。)
自分の下調べ不足の体験から、九戸城の百名城スタンプは、九戸城ガイドハウスより二戸市埋蔵文化財センターで押印した方が賢明だと思います。事前にしっかり調べたうえで訪問されることをオススメします。
2021年06月28日 胆振守日本三景を観に行こう
九戸城
東北新幹線二戸駅から徒歩だとガイドハウスまで30分くらい。ここでスタンプを押し無料の小冊子を2冊いただきました。本丸は、さらに、10分くらい掛かります。駅からバスも有りますが、1時間に1本くらいです。
2021年06月27日 摂政丸
九戸城
二の丸の整備は進んでいますが本丸は整地中といった感じです。
本丸南虎口の西側の堀は二の丸側が平面状に加工された石が積み上げられているのに対して本丸側はごつごつした岩をそのまま積み上げていて正に野面積みといった感じになっています。端正な石垣と無骨な石垣が対面していて違いがよくわかります。
2021年04月30日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
九戸城
九戸城へは、いわて銀河鉄道二戸駅のレンタサイクルを利用しました。
注意事項として2点あります。
❶貸出台数が四台です。
❷貸出返却時間は、窓口が開いている駅員対応可能の下記の時間帯です。
7:35~12:30
13:00~13:50
14:35~18:40
新幹線二戸駅下車時間をご確認の上、ご利用は計画的に…
2020年11月03日 副将軍ナンバー【7】讃常美
九戸城
「ご城印」は、「九戸城ガイドハウス」には無く、少し離れたところにある「二戸市埋蔵文化財センター」で販売しています。
センターの展示コーナー見学には別途50円かかります。
スタンプは、ガイドハウスのものも丁寧に管理はされていて、状態も個人的には許容範囲内ではありますが、より美印を求めるならセンターの方が吉です。
2019年05月08日 織田上総介晃司
九戸城
九戸城エントランス広場に停めて、ガイドハウスで九戸城の情報を得ていざ!
三ノ丸は住宅地となり消滅してしまったが本丸、二ノ丸は状態良く残ってます。
二戸市でも「せんべい汁」を食べることができますが、食べさせてくれる店が2軒しかなく、予約も必要なのであらかじめリサーチして予約をするか八戸市で食べるかになります。
2016年01月03日 カーネル
九戸城
二戸駅から徒歩。2013年1月に行きましたが、雪で歩道が見えない
県道274を北上すると呑春稲荷神社あるので階段を登って拝殿へ。拝殿の右の階段を登ると松の丸です。石碑があります
本丸へ行くには、いったん南の生活道路に出てから北上して本丸方面へ
どんどん髪の毛にも雪がつもる。北国の武士は大変だなぁとか思いながら歩く
積雪量は足首くらいあっても、堀も土塁も明瞭に確認できます
白黒の水墨画のような風景はいいですね。本丸・二の丸のあとに搦め手門を経由して石沢館に寄りました
駅に戻るまで1時間45分 本丸だけなら、もっと短時間コースも
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2015年07月20日 カルロス玄蕃助
九戸城
案内所のDVDはわかりやすく、とても良かったです。
また、ボランティアさんたちがとても親切でした!
2014年05月20日 尻啖え孫市権中納言
九戸城
九戸政実が東北から天下を狙って造った城で、実際に天下人の秀吉軍を翻弄した壮大な縄張りを今でも想起できる。高橋氏の「天を衝く」を一読後の見学がお薦め。また九戸にある九戸神社と家臣が、斬首された栗駒の地から持ち出した政実首級の埋まる首塚も合わせて見ることをお薦め。現代、その地に植えられた仇敵南部信直との異夢同根の木が心を締め付ける。栗駒には政実首級清めの池も残る。
2013年09月21日 三日左馬助落人
九戸城
九戸城だけど二戸市にあります。
石垣の積まれた堀や土塁の跡が残っており、縄張りの規模も雄大です。
本来の城地は現在指定されている部分よりもっと広大だったようで、3の丸にあたる部分などは既に市街化しています。
駐車場完備。土日祝はボランティアガイドの方がいて、希望に応じて解説してくれるそうです。
九戸城の周辺スポット情報
本丸、堀、石垣(遺構・復元物)
外館(遺構・復元物)
堀(遺構・復元物)
本丸追手門跡(遺構・復元物)
空掘(遺構・復元物)
本丸虎口跡(遺構・復元物)
空掘(遺構・復元物)
二の丸搦手門跡(遺構・復元物)
堀跡(遺構・復元物)
二の丸大手土橋跡(遺構・復元物)
本丸南東隅櫓跡(遺構・復元物)
石沢館跡(遺構・復元物)
本丸石垣(遺構・復元物)
深田堀(遺構・復元物)
本丸前案内(碑・説明板)
松ノ丸跡(碑・説明板)
松ノ丸梅園(碑・説明板)
若狭館跡(碑・説明板)
九戸城跡の碑(碑・説明板)
九戸政実神社(寺社・史跡)
二戸市埋蔵文化財センター(スタンプ)
九戸城ガイドハウス 4月〜11月(スタンプ)
トイレ(トイレ)
ガイドハウストイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
本丸跡(その他)